新たな牧者・王を立てると約束される神に望みを置く

「新たな牧者・王を立てると約束される神に望みを置く」  十月第二主日礼拝 宣教 

 エレミヤ書 23章1〜8節     牧師 河野信一郎     2025年10月12日

 

おはようございます。ゲストの皆様、大久保教会へようこそお越しくださいました。教会の皆さん、お帰りなさい。今朝は、三連休の中日という事もあり、お休みの方が多い礼拝となりましたが、礼拝堂に集められた皆さん、またオンラインで出席くださっている皆さんと共に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。

 

先程、連盟からI国へ派遣されていましたNK宣教師の突然の召天について、心痛みながら分かち合わせていただきましたが、わたしたちもあとどれだけこの地上で神様に礼拝をおささげできるか分かりません。もしイエス様の執り成しと神様の恵みによって天国へと招き入れられましたら、わたしたちは永遠に神様を讃える事ができますが、その前に、この地上で生かされている間は、毎日の礼拝、特に日曜日の礼拝を大切にしましょう。

 

さて、大久保教会の朝の礼拝では、9月から11月まで、旧約聖書のエレミヤ書をシリーズで聴いています。先週は9章に聴きましたが、今朝はずいぶん飛び越えて23章から神様の語りかけを聴いてまいります。皆さんの中には、「そんなに一気に飛ばしてしまって大丈夫?」と思われるかもしれませんが、さほど問題はないと思います。何故かと申しますと、エレミヤ書1章から25章は、基本的にユダとイスラエルに対する神様の裁きの言葉が記さていて、この長い部分を読み進めることはとても辛く、悲しい思いにさせられるからです。

 

神様が預言者エレミヤを通して、イスラエルの民に何度も繰り返し「わたしに立ち帰りなさい!」、「わたしの言葉に真剣に聞きなさい!」、「わたしとの契約を思い出しなさい!」と言っても、民は神様の言葉を無視し続け、神様に立ち帰ることを拒否し続けます。エレミヤは神様とイスラエルの民の間に立って両者の関係性を良くしようと奮闘するのですが、民は聞く耳を持ちませんので、精神的に疲れ切ってしまいます。

 

そういう中で極め付けはこれです。お手元に聖書があれば15章6節をお開きください。なんと神様はユダとイスラエルに対して、「お前を憐れむことに疲れた」と言われるのです。他の聖書訳では、「わたしは(あなたを)憐れむことに飽きた」と記され、リビングバイブルでは「お前に立ち直る機会を与えるのは、もう疲れた」と訳されています。憐れみ豊かな神様に、これほどまでに愛想を尽かれてしまうほど、民の心は神様に対して頑なであり続けたのです。ですから、神様はバビロニア帝国を用いて南のユダ王国を裁かれるのです。

 

さて、今朝のメッセージのタイトルは普段よりもだいぶ長いのですが、「新たな牧者・王を立てると約束される神に望みを置く」としました。実は、神様が預言者エレミヤを通して南ユダ王国の王に対して語られた言葉がエレミヤ書22章から記録されています。ここには非常に面白いことがいくつも語られていますので、ご紹介したいと思います。例えば22章13節から読んでゆきますと、神様は、「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ 賃金を払わない者は。」とユダの王に言います。一国の王の責任は、民を慈しみ、正義を行なって、国民の生活を豊かにすることですが、その民をただで働かせ、自分の宮殿を築くのです。どこかの国の独裁者や宗教団体の総裁のようです。

 

「あなたは本当に最悪の王だ」と言われる歴代の王たちは、それでも神様を無視し続け、自分の栄誉を受けようと画策し、このように言うのです。14節、「『自分のために広い宮殿を建て、大きな高殿を造ろう』と。彼は窓を大きく開け、レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。」と記されています。それに対して神様は、15節で、「あなたは、レバノン杉を多く得れば立派な王だと思うのか。」と問い、15節後半から16節では、「あなたの父、王は質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった。」と誠実な先代の王たちとエレミヤの時代の王たちの王としての姿勢の違いを指摘します。続く17節では、「あなたの目も心も不当な利益を追い求め、無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。」と王たちの悪事が指摘され、今日も同様なことが世界中で繰り返されています。

 

神様は、これほど体たらくで、無能な南ユダ国の王たちに対して、21節で「お前が栄えていた頃、わたしが何か言うとお前は、『聞きたくない』と言った。これが、お前の若い時からの態度であった。お前はわたしの声に聞き従ったことはない。」と言っています。民だけでなく、世襲の王たちがずっと神様に対して心頑なで、傲慢であったことがよく分かります。

 

ここで大切な問いは、わたしたちは神様に対して心を頑なにし、神様に歯向かって生きていないかということです。つまり、神様が「あなたを愛している。わたしと共に歩みなさい。」と日々親しく語りかけてくださっているのに、その言葉に聞かず、優先順位を間違え、聖書にある神様の御言葉を読まない、神様に祈らない、神様からの語りかけを「聞きたくない」と言って、自分の思い中心の生活を送っていないでしょうか。

 

詩編119編103節には、「主の言葉は蜜よりも甘い」とありますが、神様の御言葉に聞き従う者には愛に満ち満ちた言葉として与えられますが、聞き従わない者には厳しい言葉が与えられます。しかし、その責任は神様にあるのではなく、わたしたち人間の側にあるのです。

 

さて、エレミヤ書23章1節に、「『災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる。」とありますが、ここで「牧者たち」と言われるのは、南ユダ王国の王たちのことを言っています。そして続く2節後半で神様はその牧者たちに対して、「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する。」と言われます。

 

この罰とはすなわち、エルサレムの都がバビロニア帝国の手に落ち、民の多くは捕囚としてバビロンへ連行されてゆき、サウル王、ダビデ王、ソロモン王からおよそ400年続いて来た王朝は終わりを迎えることになるのです。それはユダとイスラエルの民にとって受け入れ難い出来事、痛ましい出来事ですが、その原因は自分たちが神様を忘れ、預言者を通して神様から言葉が何度あっても無視し続け、神様に立ち帰ることを拒絶したからです。

 

しかし、神様はユダとイスラエルを忌み嫌い、滅ぼしたくて滅ぼそうとされたのではありません。確かに、「あなたたちを憐れむことに疲れた」と言われましたが、神様が憐れむことに疲れるはずがないのです。神様にユダとイスラエルを愛さない、愛すことを止めるというオプションはないのです。何故でしょうか。神様はイスラエルに特別な使命を与え、望みを置いているからです。ダビデの家系から救い主キリストを送る計画があるからです。

 

ですから、神様自らが愛をもって働かれるのです。3節と4節を読みますと「このわたしが(神ご自身が)、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と神様が言われ、「わたしが新しい牧者、新しい王を立てて、その民を囲い、その傷を癒やし、養う」と宣言されるのです。5節に、「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」との宣言があります。

 

この宣言は、イザヤ書11章1節の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」という言葉を思い出させます。「株」というのがポイントです。一旦は切り倒された木の株から、神様が一つの芽を萌え出させ、若枝を起こされる。それは新しい牧者・王を起こすということで、その王が新しいイスラエルを治め、栄えさせ、その国に正義と恵みの業を行うという驚くべき約束が、宣言が憐れみの神様によってなされたのです。

 

6節から8節に、「彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。それゆえ、見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもはや、『イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる』と言って誓わず、『イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる』と言って誓うようになる。」とあります。

 

ここで注目すべきことは、新しい王によって「ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む」とある点です。ソロモン王の死後、イスラエルは南北に分裂し、南はユダ王国、北はイスラエル王国となりましたが、どちらの国も神様に背を向けて偶像礼拝をしましたので、北はアッシリア帝国に滅ぼされ、南はバビロニア帝国に滅ぼされ、世界中に散り散りばらばらになります。しかし、神様が立てられると約束される新しい牧者・王は、この民を世界中から集め、一つの国として再び建て上げると宣言されるのです。どんなことがあっても、神様はイスラエルを見捨てないということです。それは同時に、神様はわたしたちを見捨てることは決してないということを言っています。

 

新しい王の名は、「『主は我らの救い』と呼ばれる」とありますが、ヘブル語の原文では、「主は我らの義」という言葉になっています。神様によって立てられる新しい王は、わたしたちに「義」を与えてくれるということですが、それはどういう意味でしょうか。預言者エレミヤが非常に苦労した、神様と民の間に和解と平和を与えるということです。

 

この「主は我らの救い」という新しい王の名は、イエス・キリストを思わせます。何故ならば、「イエス」という名はヘブライ語では「ヨシュア」になり、「主は救い」という意味があるからです。神様は、イスラエルだけでなく、わたしたちを救うために新しい牧者・新しい王を立てるとエレミヤ書23章で約束され、その約束の成就がイエス・キリストなのです。

 

このイエス様がわたしたちの罪を帳消しにしてくださり、神様とわたしたちの間に和解と平和を与え、神の国に生きる者としてくださるのです。この神様の真実さはいつまでも変わることはありません。わたしたちに大切なのは、この真実な神様に信頼し、望みを置いて生き続ける、神様を礼拝し続ける、神様の御言葉に忠実に聞き従うということです。