宣教 「日ごとに新しく」 副牧師 石垣茂夫 2020/10/18
聖書:コヘレトの言葉1章1節~18節(旧約聖書p1034)
招詞:コヘレトの言葉12章1節(p1047)
「はじめに」
今年は2020年ですが、この年を迎えようとしていた私たちはどのように期待して新しい年を待っていたでしょうか。しかし思いもよらなかったコロナ危機に見舞われ、未だに世界規模の混乱は収まる気配を見せないままに、この年の終わりが近づいてきました。
もう少し前を振り返ってみて、21年前の今頃は、「新しい世紀」を迎えようとしていました。そのころ、世界中の人はどのような思いで「新しい世紀」を迎えようとしてたのでしょうか。
わたしたち日本では、1988年から1995年までの8年間、「オウム真理教」が起こしたいくつもの事件が宗教不信を生み、人々に、宗教は怖いという思いを引き起こしてしまいました。特に、キリスト教会にとっては、「ハルマゲドン」(黙示16:16)など、聖書の用語が度々使われたことで、大きな影響があり、これが冷めやらぬまま21世紀を迎えたという、強い印象を持っています。
世界的には、1990年に湾岸戦争が起きましたが、やがて終息に向かい、平和で豊かな時代になるようにとの祈りが積まれ、期待が膨らんでいました。しかし、アメリカをはじめとする西側諸国とイラクとの関係が悪化し始めていました。
2001年9月11日にはニューヨークを中心とする世界同時テロに始まり、アフガニスタン侵攻、2003年のイラク戦争へとつながる大きな出来事になり、現在のシリア内戦と難民の問題を引き起こし、今なお、世界規模の苦しみとなっています。
日本では、2011年3月11日、東日本大震災と、原発メルトダウンという緊急事態が起こり、現在もなお、先の見えない苦しみに覆われています。
このように、やり場のない空しさに襲われる出来事が、現在の私たちを覆っています。
わたしたちは今、11月までの祈祷会と教会学校で、「コヘレトの言葉」をテキストにしています。そのため、第一章の少し長い個所を朗読をしていただきました。イエス・キリストの時代より200年前に書かれたこの「コヘレトの言葉」を読みますと、聖書らしからぬ言葉の中に、現代の私たちの時代や、私たちの不安定な心境にフィットするテーマが満ちていることに驚かされるのです。皆様はどのように感じておられるでしょうか。
「コヘレトの言葉」
聖書朗読で御読みいただいた1章2節ですが、「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」口語訳聖書では、「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。」という衝撃的な言葉が、読む人の目に飛び込んできます。聖書のような書物にこのような言葉があるということで、不思議と現代の人の心を捉えて、聖書に引き付けてきたのだと思います。
2010年のことですが、わたしの神学校時代、最後の実習授業として、半年間大久保教会で過ごさせていただきました。そのころ協力牧師をしておられた牧野先生が、これを買っておいたらいいよと奨めてくださった雑誌がありました。それは一般の雑誌で、現在はweb magazineのみになっているそうですが、「考える人・春号 plain living & thinking 2010 Spring Issue」という新潮社出版の季刊雑誌(年4回発行)でした。
表紙には「特集 はじめて読む聖書」と書かれています。
雑誌といっても中身の濃い本で、未だに半分しか読んでいません。その中に、著名な作家、哲学者、評論家、映画監督から33人を選び「好きな聖書の言葉」をコメント付きで答えてもらったページがありました。
雑誌の編集者は、「聖書の言葉とは、キリスト教信仰を持つ持たないに関係なく人の心に響く」と考えたようです。そして33人の方が選ばれ、その方々の「好きな聖書の言葉」が、コメント付きで掲載されていました。
イザヤ書、ヨブ記、詩編、マタイの福音書、テサロニケの信徒への手紙など、様々な個所が選ばれていました。その中で最も多く選ばれていたのは、「伝道の書・コヘレトの言葉」で、四人の方が選んでいました。33人中の4人が、「コへレトの言葉」が好きだと答えていたのです。しかも、そのうち二人の方が選んだのが、お読みいただきました「空の空、空の空、いっさいは空である」という言葉でした。ほかに重なって選ばれた言葉は見当たりませんでした。
「空しくて、空しくて、やりきれない。生きていて何の意味があるのか」という、人生の深刻な問いに、聖書はどうこたえてくれるのか。「コレヘトの言葉」はこの後、どう答えていくのかと、この言葉に出会った人は、きっと興味をもって聖書に引き付けられていったことでしょう。
「空しい」との言葉は、ヘブライ語では「ヘベル」です。「そよ風」あるいは「ため息」のことです。
この「ヘベル」、これが人の名前になりますと、「アベル」になります。創世記4章2節、兄の「カイン」よって若くして殺され、儚(はかな)い生涯を終えた、あの弟の「アベル」となります。
アベルの、「ほんの束の間」「儚い(はかない)」としか思えなかった人生には、意味があったのだろうか、そのような問いとなって、創世記の物語と「アベル」の名、そして「空しい」との言葉の意味合いが伝わってきます。
「繰り返しに過ぎない人生」
人々に、この「空しさ」を抱かせるのもう一つの面は、この世の一切の出来事が「繰り返しに過ぎない」ということです。
9節と10節を読んでみましょう。
1:9かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
1:10見よ、これこそ新しい、と言ってみても/それもまた、永遠の昔からあり/この時代の前にもあった。(1:9~10)
この言葉を、もう少し砕いて訳すなら、
1:9 前にあった事が、これからも起こるだろう。
以前なされた事が、また起きるだろう。太陽の下に新しいものは何もない。
1:10 さあ、これは新しいですよ、と人が言うようなものが、そこにあっても、
我々よりずっと前から、それは既にあったものなのだ。(1:9~10)
このような意味になります。
そして11節から14節に至りますと「すべてが繰り返しなら、あまりしつこく求めても無駄骨ではないのか。わたしは心をつくし、知恵を用いて求め調べたが、どれも風を追うようなことであり、意味はないのではないか。
そのように思うと書かれています。
お分かりいただけると思うのですが、「風を追うようなこと」とは、無駄なことだという意味です。人はいろいろと悩んだり苦労するけれども、何もしなかったのと同じではないかというのです。
新しい世紀に入っても、何か良いことがあっただろうか。何も変わらないではないか。
20世紀であろうと21世紀であろうと、すべてが同じであり、同じことの繰り返しに過ぎない。空しいではないか、とコヘレトは言っているのです。
この考え方は、コヘレトの思想ではなく、紀元前2世紀、3世紀の時代を覆っていた「終末思想」を言っているのです。
多くの人が、この時代に起きていることに関わっても、何もよいことは起きない。それならば来世に期待しようと思いはじめ、この世は間もなく終わりが来るのだから、今を諦めよう。我々人間に与えられたほんの束の間の人生を楽しみ、来世に期待しようと思い始めていたのです。
「もう一度生まれ変わったなら」こうしようという考え方を「終末思想」と呼びますが、多くの人々がそのように考えて、今生かされていることを放棄していったのです。
それではコヘレトも同じように、「空しい」、「無意味だ」と言い、そこで終えているのでしょうか。「だから神を信じても意味がない」と言っているのでしょうか。
そうではなく、コヘレトは「もう一度生まれ変わったなら」という思想に反論しているのです。
実はこの後、2章の終わりから、「コヘレトの言葉」には「神」という言葉が37回現れるのです。この空しい世界の歩みの中にあってコヘレトは、神を見上げて突破口を示していこうとしているのです。
「この短い人生を捨ててしまうのではなく、どう生きたなら良いのか、この地上での責任を断じて見失うな」というのが、コヘレトの言葉12章全体で主張していることなのです。
マルティン・ルターの有名な言葉があります。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」。この言葉につながる事柄でもあります。
「あなたの若き日に」
招詞に「コヘレトの言葉」の最終章、12章1節の言葉を選びました。
12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。(新共同訳)
12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、(口語訳)
皆様は12章1節、特に「あなたの若き日に」との言葉をどのように受け止めてこられたでしょうか。
わたしはこの言葉が「あなたの青年時代、若き日に信仰を持ちなさい」と言っていると、そのようにずっと思っていました。しかもこの後に、「年を重ねることに喜びはないと言う年齢にならないうちに。」とありますので、ますます「あなたの若き日に、信仰を持ちなさい」そのような意味として受け入れていました。
しかしこの受け止め方は、全くの間違いということではないものの、もう一つ、大事なことが抜けてしまっていたようです。
コレヘトの生きた時代、紀元前2世紀、三世紀という時代の人間の寿命はわずかに35歳から40歳であったそうです。青春だと思っているうちに、あっという間に人生の半分が過ぎてしまう、そのような時代であったというのです。
ある研究者は、コレヘトは今の時代に向けてこう言いたかったのではないかと言っています。
『仮にその人が50歳であろうと60歳であろうと、生きているその人の今が、その人にとって一番若い日なのだ』というのです。確かに毎日毎日、歳を重ねていきますので、今が、この一瞬こそが一番若い日なのです。皆さんおひとりにとって今が一番若い日なのです。そのように言っていました。
先週の初めに、このことを連れ合いに話しましたら、実は、この12章1節の聖句は、私の「証し」の言葉だと言いました。『短く「証し」をしてください』と言われた時には、迷わずこの言葉12章1節を用いて来たということです。『私たち一人一人にとって、今日が一番若い日、今を大切に』そのような意味で証ししてきたと、話してくれました。
12章は「コヘレトの言葉」のまとめの言葉なのですが、私たち人間に与えられた人生は、ほんの束の間なのです。それゆえに、人生を放棄せずに、どう生きたなら良いのか、徹底して考えてみようと、コヘレトは12章までの全体を通して主張している、そのような印象を持ちました。
「神を考える」
わたしたちの人生は、空しさに襲われ、希望を失うような事態に遭遇します。あるいは空しいことの繰り返しかも知れません。しかしコヘレトに倣って神様に目を向けたときに、神様の起こす技はどうでしょうか。
「コヘレトの言葉」に、主イエス・キリストを見い出すのは、難しいものがあります。しかし神様は、いつも、私たちの思いもよらない仕方で、私たちに関わって来られます。
イエス・キリストの誕生はどうでしょうか。イエス・キリストの十字架の死、イエス・キリストの復活、これは空しく終わっていたでしょうか。
かつてあった事の繰り返しのような、意味のないことでしょうか。決してそうではありません。
イエス・キリストの出来事は、神様がなさった一度しかできない、重い出来事であり、繰り返すことのできない恵みの出来事でした。
父なる神が、私たちにお使わしくださった主イエス・キリストこそ、私たちを苦しみから救い、新しくしてくださいます。コヘレトは、直接キリストを語っていませんが、そちらの方向を見なさいと、私たちに語り掛けています。私たちは今、私たちの最も若い日々を数えながら、新しくされ用いられていきましょう。