宣教要旨「最も小さい者」 大久保バプテスト教会 副牧師 石垣茂夫 2018/12/16
聖書:マタイ25章31~40節(p50) 招詞:コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章9節
「アドベント」
三本目のロウソクが灯(とも)されました。今朝は「アドベント第三主日礼拝」です。
「アドベント」は、日本語で「待降節」と呼んでいますので、「待つ」という意味合いが強いのですが、本来は、「到着する」「向こうからやってくる」という意味だということです。
この「アドベント」には三つの事が含まれています。第一は、ベツレヘムに、神が人となってお生まれになり、この地上に救い主が到着したことです。[過去]
二番目は、「わたしは来て、あなたのただ中に住まう」(ゼカリヤ2:15)という言葉がありますように、現在の、わたしたちの内に、救い主が到着するという事です。[現在]
三つ目は、終りの日に、イエス・キリストは「再臨のキリスト」として到着するという事です。[未来] このように、過去・現在・未来の三つの時代を包むようにして、「神さまはわたしたちと共にいて下さる」ことを喜んで過ごすのが「アドベント」にあたって、わたしたちに求められていることではないでしょうか。
「マタイ25章・最後の説教」
この朝は25章31節~46節、主イエスがなさった終末についての、「主イエス最後の説教」から選ばれています。
「主イエスこそ神の子、救い主」と信じて始まった、小さな最初のキリスト教会を支えたことは、「アドベント」が教える三番目のこと、再臨のキリストを待つという信仰でした。
しかしこの「待つ」ということは苦しいことで、信仰にとっては大変困難な問題を起こしていきました。彼らが、そうした困難な中での信仰の生活で、大切にしてきた一つのことがこの物語で語られています。
この世の終わりの時、再臨の時には、その人がどのよう生き方をしてきたか、その基準は富や業績ではなく、「小さな愛のわざに生きたかどうか」なのだと、主イエスは言っておられます。
25:40『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』との主イエスの教えがそれです。
信仰は、決して大げさなことではなく、実際の生活の中で、具体的に、まるで自然に水が流れて行くように表わされていくことを、主イエスは願っていたと思われます。
そして再臨のとき、審判の場に立たされるのは、「すべての国(くに)の民(たみ)」だとされています(25:32)。「すべての国の民がその前に集められる」。「国の民」とは異邦人(神を知らない人)という意味です。このときにはキリスト者かどうかも問われないということなのです。さてこれをどう理解したらよいのでしょうか。信仰者にとっては、大変厳しい言葉であるかもしれません。
今年の「流行語大賞」の中で、「スーパーボランティヤ」が髙い評価を受けました。この事を伝えられたボランティヤの小畠(おばた)春夫(はるお)さんは、晴れがましい受賞などをすべて断りました。
彼はいつもこう言っています。「自分は目の前の、今、しなくてはならないことをしただけだ。
褒(ほ)められようとやって来たのではない。だから、やって来たことは、みな忘れてしまった」。
この方から教えられることは沢山あると、皆さんも思われたのではないでしょうか。
聖書に登場した、羊として右に分けられた人たちの言葉にもつながることを感じます。
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
わたしたちの問題は、ほんの小さなわざ一つでも、それを誇りにしてしまうというところにありますが、小畠さんは愛のわざをみな忘れてしまったと言いました。それほどこうしたことからは、自由であったということです。
「最も小さい者」
愛のわざについてある方はこう言っておられました。
「愛のわざには虚しさがある。しかしこの虚しさからも自由にさせていただこう。」
その方は続けて「その反面で、自分がしてきた愛のわざに、何の反応も示さないばかりか、むしろ誤解を招くと言う場面にも遭遇することさえある。そのような時にこそ、わたしたちは自由にされましょう」と言われました。
主イエスはその生涯の最後、敗北でしかないような十字架の死を前にして、この物語をなさいました。主イエスは、ご自身の死と、その克服である復活、そしてその彼方にある再臨の出来事を望むことによって、わたしたちの愛は空しくは終わらないと教えられました。
わたしたちは終末の事をよく知りません。主イエスも再臨について詳しく語られたことはありませんが、その時、わたしたちの人生は、神のみ前においては、この愛のわざという一点において測(はか)られると明確に言われました。
なぜそのように言えるのか、それは、押し出すようにして、わたしたちにこの愛のわざを生み出してくださったのは主イエスであり、それを受けてくださるのも主イエスだからなのです。
わたしたち信仰者の愛は、いつもキリストによって生み出されます。その愛は、不思議なように、小さくなったキリストが受け止めてくださるのです。そうであれば、わたしたちに今求められるのは、結果を求めず、信仰と勇気をもってその中で用いられて行く事だと思います。
子どもメッセージで紹介しましたトルストイ作「靴屋のマルティン」で、彼はあの日、そのように信じることができました。
「主イエスは、わたしたちが向きあう、小さくされた人たちとなって、今日、わたしに出会ってくださったのだ。」とマルティンは言いました。
主イエスこそ、「最も小さい者」となって、いつもわたしたちの周りにおられます。
そのことを、心に留(と)めながら、アドベントのときを過ごしましょう。
参考:レフ・トルストイ『愛あるところに、神あり』~靴屋のマルティン~