来なさい。そうすれば分かる

「来なさい。そうすれば分かる」 新年礼拝     宣教要旨 2017年1月1日

  ヨハネによる福音書 1章35〜42節       牧師 河野信一郎

 神のお恵みとお導きのうちに新しい年を迎えることができました。主に心から感謝です。新しい年の最初の朝に、年の初めの礼拝で何を語るべきかを祈り求めましたら、二つの御言葉が与えられましたので、礼拝への招きの言葉と宣教の箇所にいたしました。

 招詞として導かれたのは、ローマの信徒への手紙12章12節で、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまずに祈りなさい」という言葉です。新しい年、この一年はどのような一年になるでしょうか、全く分かりません。アメリカ合衆国の大統領も代わりますので、日本にも少なからず影響があり、変化があるでしょう。世界的にもどのようなリアクションが生じるか見当もつきません。また、私たちの身の回りでも、日常生活でもいろいろな出来事が起ったり、変化があったり、予測不可能なこともあるでしょう。不安になる要素も種々ありますが、私たちには主イエスがいつも共にいてくださいます。目には見えませんが、主イエスは絶え間なく共にいてくださり、私たち一人一人を守り、支え、励まし、導いてくださいます。聖書にそのように約束されています。私たちに出来る事は、主を信じること、委ねること。主を信じ続けること、委ね続けることなのです。

 確かに、今の時代、希望をもって喜ぶことが困難に感じます。次々に苦難、試練が押し迫ってきて、耐え難くなって、どこかへ逃げ出したくなる時も起こります。仕事や雑務に謀殺され、疲労困憊になり、いつも祈ることが困難になる時も今年も経験するでしょう。しかししれでも、主イエスが近くにいてくださることを覚え、主を見上げ、より頼みましょう。私たちが弱り果て、暗闇を歩むことがあっても、主は常に傍らにいてくださり、光をもって歩むべき道を照らしてくださいます。希望の光を照らし続けてくださいます。神は、私たちに対して、「主イエス・キリストがあなたと共にいて力を注ぐから、この主にあって希望を持って喜び、主と共に苦難に耐え、主の御名によっていつも祈り続けなさい」と励ましてくださるのです。

 私たちは、一人で生きてゆく事は大変ですから、神は主イエスを、家族を、友を、神の家族である教会、兄弟姉妹たちを与えてくださっています。ですから、失意の中を歩むことがあっても、主を見上げて、主の御手をとってつながり、新しい一年の歩み、信仰生活、教会生活を大切にしてゆきましょう。そうしたら、神の憐れみの中で、私たちは昨年よりも更に成長し、成熟し、神に喜ばれる実をたくさん結ぶことが出来るでありましょう。

 イザヤ書41章10節には、このような約束がなされていますので、参考までにご紹介します。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」

 さて、昨年、神は私たちにそれぞれ数多くの出会いを与えてくださいましたが、今年はどのような出会いを神は用意してくださっているでしょうか。これこそ予測不可能ですが、神は私たちに、そしてこの大久保教会にご計画と祝福をもってたくさんの出会いを準備してくださっていると信じ、先取りの感謝をおささげいたします。

 私たちが人と出会ってゆくために大切にしなければならないことが幾つかありますが、今回はその中から3つを分かち合いたいと願っています。

 まず、第一に大切にすべきことは、出会いを与えてくださる神に祈って、求めて、期待することです。田原米子さんというクリスチャンは、生前、毎朝このように神に祈ったと聞きました。「神さま、今日もたくさんの出会いを備えてくださっていると思いますが、その中であなた様を証しすることができるように導いてください」と。新しい出会いを祈り求め、主に期待し、そして出会った人に仕えることができるように、私たちも祈りましょう。

 第二に大切にすべきことは、出会いを恐れないで、自分のほうから進み出て、人に出会ってゆくということです。職場や学校などは黙っていても人との新しい出会いがあると思いますが、そうでない環境にいる人もいます。また閉鎖的な所も周囲にたくさんあります。しかし、そのような所に恐れずに出かけ、こちらから出会いを起こしてゆくことも大切です。

 主イエス・キリストは、そういう面ではとても積極的なお方で、ご自分のほうから色々な人々に出会ってゆかれました。4つの福音書には、主イエスが進んで人々に出会ってゆかれた出来事が数多く記されていて、主との出会いによって人生がまったく変わった人々のことが記されています。

 「人生は出会いで決まる」とよく言われますが、傷つくことを恐れて出会ってゆかないのでは孤立してしまい、神が用意してくださっている祝福に与ることができません。確かに、人間関係の中で私たちは傷つき、心が弱り、出会ってゆくことを躊躇したり、恐れる人もこの時代には多くおられると思います。しかし、そういう方々に主イエスは出かけて行って、出会ってゆかれるのです。その出会いは、主から託された弟子である私たちの任務なのです。

 さて、今回はヨハネによる福音書1章35節から42節をメインに置いていますが、この1章の29節から51節までに4つの出会いが記されていて、主イエスに出会った人々の人生に変革がもたらされてゆく様子が記されています。

 まず29節から34節には、主イエスとバプテスマのヨハネの出会いが記されていますが、ここに注目すべきことが2つあります。一つ目は29節ですが、「ヨハネは自分のほうへイエスが来られるのを見た」とあります。主イエスはヨハネと出会いためにご自分のほうからヨハネに歩み寄ってゆかれます。人との出会いの多くは、いつも主イエスから開始するのです。ですから、私たちも主に見習って、出会いのイニシャティブをとる一年を歩みましょう。

 二つ目に注目したいのは、主イエスと出会ったヨハネは、その出来事をすぐに人々に伝えていることです。34節を見ますと、「わたしはそれを見た(出会った)。だから、この方こそ神の子であると証したのである」とあります。この二つ目に注目したことが、出会ってゆくために大切にしたい3つ目のことに重なってゆきます。

 出会いのために大切にしたいこと、それは紹介を喜び、紹介してゆくということです。今までの出会いの大半は、人からの紹介であったのではないでしょうか。直に出会ってゆくことと、紹介を通して人々に出会って、つながってゆきます。バプテスマのヨハネは、主イエスと出会ってすぐに主イエスについて証しし、そして人々に主を紹介してゆきます。

 35節では、ヨハネは自分の弟子たちに主イエスを紹介し、「あの人に従いなさい」と言うのです。そして、紹介された二人の弟子の一人アンデレは兄弟シモン・ペテロに主イエスを紹介し、ペテロも弟子と召されてゆきます。

 43節から読み進めてゆきますと、フィリポが主イエスと出会って弟子と召された後、友だちのナタナエルに主イエスを紹介し、最初は冷ややかでシニカルであったナタナエルも主イエスを信じ、弟子となっていったことが記されています。ですから、出会いということの中で大切なことの一つは「人に主イエスを紹介する」ということなのです。

 もう一つ分かち合いたいことが37節から39節にあります。イエスに付いてくるアンデレたちに対して主が振り向き様に「あなたがたは何を求めているのか」と問いかけます。それに対して彼らは、「先生、どこに泊まっておられるのですか」という一見突拍子もないことをたずね返します。「明日もまたお会いしたいので教えてください」ということでしょうか。しかし、真意は「先生、あなたが心の拠り所としている所は何処ですか。誰に信頼しておられるのですか」という問いかけなのです。

 この新しい年を歩み出す私たちの心の拠り所は何処でしょうか。私たちは誰に信頼して歩んでゆけばよいのでしょうか。主イエスがこのようにお答えになられます。「来なさい。そうすれば分かる」と。つまり、この主イエスに従ってゆけば、神が私たちをいかに大切に思っておられるか、愛してくださっているかが分かるのです。私たちがこの一年で歩むべき道を主イエスが示し、導き、共にその道を歩んでくださいます。

 この29節から51節までを読んでゆきますと「見る」という言葉がなんと17回も使用されています。私たちを愛し、いつも見ていてくださる主イエスを私たちも見上げ、従ってゆきましょう。主イエスを見て、そして従ってゆく時、神の力が働いて、私たちは神の祝福で満たされた日々を歩んでゆけます。主を信じましょう。