『来なさい。そうすれば分かるでしょう』 宣教要旨 11月第三主日
ヨハネによる福音書1章35~42節
大久保教会では毎年、11月第三主日の礼拝で「子ども祝福式」をしています。小学生までの子どもたちが対象で今年は3人が、本日河野牧師から祝福の祈りをしていただきました。
わたしたちの教会に、このように子どもたちが与えられ、毎週一緒に礼拝できますことは大きな恵みだと感謝しています。これからもこの礼拝の在り方を大切にしていきたいと思います。
この子どもたちは皆、生まれた時から教会に集っていますが、わたしたちはお互いにどのようにして教会に導かれ、イエスさまとお会いすることになったのでしょうか。
共通していることは、多くの方が、どなたかによって教会に導かれたということです。そしてそれぞれに、信仰に進む決心の時を導かれて、今日、ここにあると言うことです。そして、生まれてからずっと教会に集っているこどもたちにも、成人してから導かれた人にも、みなそれぞれに決断する時が与えられてきました。
パウロは『今や、恵みの時、今こそ救いの日』(Ⅱコリント6:2)と言っています。ある人は導きの中で「神さまの言葉を、本気になって、聞き始めた時」がその時だと言っています。みなさんも、そうした思いを逃さず、神さまと向き合って信仰に導かれて来られたことでしょう。こうした出会いを与えられたことに感謝し、確信を持って信仰の道を歩んで参りましょう。
新共同訳聖書には今日の箇所に『最初の弟子たち』という小見出しが付いています。続く51節までひとつながりの出来事が記されていますが、他の福音書にもあります主イエスが弟子を集められる場面です。ヨハネ福音書の記事の特徴は、すこぶるシンプルだということに気付かれることでしょう。主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と、その一言だけ言われました。英語の聖書の多くは“Come and see”とここを訳しています。
「来なさい。そして見なさい」という主イエスの言葉に従ったアンデレともう一人の弟子は、その目で主をみつめ、その声をききながら、そのときどんな話をしたのでしょうか。二人はこの方こそ救い主だとの確信を持ちました。アンデレたちがはじめに変えられていきました。アンデレは同じように、兄のペトロに“Come and see”と言ったことでしょう。
彼は、まず自分の兄弟シモンに会って「わたしたちはメシア・・『油を注がれた者』という意味・・に出会った」と言った。(1:41)「来てみなさい。あなたも主イエスに会ってほしい。」主からアンデレへ、アンデレからペトロへ、このように伝えられて、その言葉に繋がってわたしたちの今があるのではないでしょうか。
バプテスマのヨハネは、「見よ。神の子羊」と主イエスを指差しました。今朝も「神の子羊がここに来てくださいました」と、わたしたちは呼びかけられています。
確かに、「主が来られて、呼んでおられる」のです(新生讃美歌464番)。主は、わたしたちがそのように伝える者になることを、待って居られます。
♪主が来られて 呼んでおられる み足のあと 踏みつゆかん。
♪高い山も 深い谷も 先立つ主の 足あとを Sarah Doudney 1871