残りの生涯を御心に従って生きる

「残りの生涯を御心に従って生きる」 七月第二主日礼拝 宣教 2024年7月14日

 ペトロの手紙一 4章1〜6節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。猛暑日か、雨の日か、連日どちらか交互にわたしたちを悩ませ、体調管理も大変難しい時期を過ごしています。しかし、そういう中で、憐れみの神様によって、今朝も礼拝者とされている幸いを主に感謝いたします。7月から9月末まで、猛暑のため、教会にお戻りになることが困難な方も出てくると思います。健康には、最大限の注意を払っていただきたいと願います。日曜の朝、外出が難しいと判断された時は、ご自宅に留まっていただき、礼拝をオンラインでおささげいただきたいと思います。その際、教会へご一報いただけますと、教会で礼拝をささげる者たちも安心できますので、その様にお願いします。

 

また、今週から8月にかけて各地を旅行され、礼拝をお休みされる方々も多くおられると思います。神様のお護りと祝福をお祈りしますので、お休みされる場合も連絡いただければ幸いです。わたしも来週22日から24日まで、連盟の会議出席のため、南浦和へ三日間通います。その週から水曜日の祈祷会が1か月間休会になりますので、負担は幾分か軽減されますが、この3ヶ月間ほったらかしにしていた課題に取り組むつもりです。

 

さて、6月から、神の御心を探し求めて生きるというテーマをシリーズでメッセージさせていただいていますが、今朝と来週21日はペトロの第一の手紙から、28日から9月頃まではヨハネによる福音書からさせていただこうと計画しています。ペトロの手紙とヨハネ福音書には、「御心」という言葉が多く記されています。その中から大久保教会の歩み、そしてこの教会に集う皆さんの生活に関連する箇所を選んで、メッセージさせていただこうとしています。マタイによる福音書にも最適な箇所が幾つかありますので、バランスをとりながら御言葉の分かち合いをさせていただこうと祈りながら準備しています。お祈りください。

 

今朝は、第一ペトロの4章1節から6節に聴き、来週は同じ4章の12節から19節に聴きます。鋭い方は、「その間の7節から11節はどうして扱わないの?」と不思議に思われるかもしれませんが、過去を調べてみますと、昨年の2月13日に、その箇所からメッセージしていましたので、今回取り上げることをやめました。興味のある方は、教会ホームページに掲載されていますので、宣教要旨というところをクリックしていただき、2023年2月13日の「神の愛が多くの罪を覆う」というタイトルの文章をお読みいただければと思います。今朝も少しだけ触れますが、今朝と来週のメッセージがそこで繋がるかもしれません。

 

さて、今朝は、「残りの生涯を御心に従って生きる」と題して、わたしたちがそれぞれ神様から与えられている命、残りの生涯をどのように生きることが神様の御心、願いであるかを共に聴いてゆきたいと願っています。わたしたちの多くは、自分の将来に、家族の将来に、老後に計画を持っています。計画を立てられるほどの余裕がなくても、それぞれには願いや希望があると思います。そして、その願いや希望を叶えるために懸命に仕事をしたり、倹約したり、健康維持を心がけるわけです。しかし、人生には思いもよらない出来事が起こります。そのほとんどは、苦しみや痛みや悲しみを伴うものです。

 

そのような苦難に直面する時、わたしたちは初めて神様に叫ぶのです。その叫びは、恨みを含んだものであったり、憐れみと助けを切実に求めるものであったりします。しかし、そのように叫ぶ時が、わたしたちのために神様がご配慮とご計画をもって備えてくださっている道を知る時、神様の御心を知るチャンスになるのです。このチャンスを無駄してはなりません。わたしたち一人ひとりに備えてくださっている神様の御心を知ることで、わたしたちは残りの生涯を自分の思い通りに生きるのではなく、神様の御心に従って生きることができるようになり、本当に必要な真の平安の中に生きることができるように変えられてゆきます。御心に従って生きるとは、自分のためでなく、神様と隣人のために生きるということです。

 

少し横道にそれますが、4章7節の前半で、使徒ペトロは「万物の終わりが迫っています」と言っています。この手紙が書き送られたのは紀元63年頃と考えられていますので、今から1961年前のことになりますが、今がまさしく万物の終わりが迫っている状況に見えます。世界全体を見渡しますと、至る所で戦争や紛争が起こっています。地球温暖化と気候変動によって自然のリズムとバランスが狂い始め、そのアンバランスな自然が猛威をふるって、大地に甚大な災害を引き起こしています。すべては、わたしたち人類が繰り返し犯してきた罪の結果で、もう目を覆うばかりの本当に悲惨な状況です。

 

この悲惨な状況を目の当たりにして、人はどのように希望を抱くことができるでしょうか。希望を抱く力などありません。しかし、わたしたちに真の希望を与えてくださる唯一無二のお方がおられます。わたしたちが重ねて来た罪をすべて覆い、傷つき、弱り果てているわたしたちを、愛をもって包み込んでくださり、救いと回復を与えてくださるのが、憐れみの神様であり、救い主イエス・キリストなのです。ですから、4章8節にこう記されています。「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。神様の愛は多くの罪を覆うからです」と。

 

この憐れみの神様と救い主イエス・キリストを信じている者が、キリスト者です。信じなさいと今朝招かれているのが、わたしたちです。イエス様は、わたしたちの罪を覆い、罪と死から解放させるために、その命を十字架でささげ、贖いの死を遂げてくださいました。神様の憐れみとイエス様の犠牲を神様からの愛と信じなさいと招かれています。

 

このイエス様を救い主と信じている者に対して、使徒ペトロは、4章1節で、イエス様と「同じ心構えで武装しなさい」と言います。二つのことに注目します。まずイエス様と「同じ心構え」とは、苦難の中に置かれても、神様にだけ信頼をし、忍耐し、神のご計画を実行する忠実さと隣人に対する誠実さを持つということ、御心に服従するということです。

 

「武装する」ということについては、エフェソの信徒への手紙6章13節以降に、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」とあります。一言で言うならば、神と共に生きるということです。

 

イエス様を信じている者は、「罪との関わりを絶った者」とありますが、これは「罪から解放された者」と理解するのが良いでしょう。神様の愛と熱意が、わたしたちを罪との関わりから救ってくださった。ですから、神様の愛の中にとどまり続けることが御心なのです。ですから、2節に、「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」とあります。わたしたちの残りの生涯を神様の愛の中で、神様の御手の中で生きられるようにしてくださったのは、神様であり、イエス様です。

 

3節に、「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」とあります。この言葉から、この手紙のほとんどの読者が、成人してからイエス様に出会い、罪を悔い改めて神様に立ち返った人たちであることが分かります。イエス様に出会うまでは、自分の本能に従って好き勝手に生きてきたことが分かります。しかし、ペトロは言います。「イエス様に出会い、イエス様を通して神様の愛に生かされる祝福の中にあるのだから、昔のような生き方をやめなさい。もう十分過ぎるでしょう」と。

 

わたしたちがそのような中から出たいと思っても、周りの人たちが頻繁に誘ってきます。誘いを断り続けると心を傷つけることを平気で言って攻撃してきます。4節に、「あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」とありますが、皆さんにも経験があるでしょうか。このような中で必要なのは、それでもその人たちを愛するため、神様に助けと忍耐する力を求めて祈ることです。

 

なぜならば、5節に「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、(いつか)申し開きをしなければなりません」とあります。主イエス様は再びこの地上に来られる時、わたしたちは、例外なく、神様の御前に立つことになります。独りで御前に立つことができる人はいないと思います。そのわたしたちと共に立ち、申し開きを助けてくださるのがイエス様なのです。すべて神様からの愛、恵みです。この神様の愛を伝えること、イエス様の十字架と復活に表された救いの恵みを分かち合うことがわたしたちの使命であるのです。

 

6節に、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」とあります。死んだらすべては終わりと考える人々が多い中で、神様の御心は違います。神様の御心は、人知では計り知ることのできないレベルにあり、驚くべき備えがあります。

 

ここでペトロが言う「死んだ者」とは、イエス様が再臨される前に神様とイエス様を信じて亡くなられた人々のことです。キリストの福音は、たとえこの地上でのわたしたちの命が終わっても、霊において神様と共にいて、イエス様が再び来られる時に、死んだ者も、いま生かされている者も、新しい命が与えられ、永遠に神の愛の中で生きることが約束されているということです。

 

そのことを共に信じ、共に確認し、共に喜び、感謝をささげるために、わたしたちは教会へ、神様の家族へと招かれています。その恵みを共に味わい続けたいと願います。そのように願い求めて生きることが神様の御心ではないかと導かれ、信じるように招かれていると感じます。皆さんは、ご自分の残された生涯、どのように生きることが御心だと思いますか。どうぞ御心を祈り求めて、御言葉に聴き続けて、示されたとおりに生きてください。その先に、神様の祝福があると思います。神様の祝福をお祈りいたします。