「熱心で正しい認識を求める神」 二月第一主日礼拝 宣教 2019年2月3日
ローマの信徒への手紙9章30節〜10章4節 牧師 河野信一郎
今朝は、ローマの信徒への手紙9章30節から10章4節をテキストに、信仰の耳を神様の言葉に傾けて聴いてゆきたいと思いますが、アブラハム・リンカーンの言葉を紹介したいと思います。その理由は、彼の言葉が今朝の宣教の要点を的確に示していると感じるからです。もし今朝の宣教を忘れたとしても、リンカーンの言葉を心に覚えておれば、神様に喜ばれる信仰の歩みができると思うからです。
前のスクリーンをご覧ください。正確に翻訳するのは難しいのですが、左下のリンカーンの言葉を右側の日本語にしてみました。”My concern is not whether God is on my side; my greatest concern is to be on God’s side, for God is always right.”「わたしにとって重要なことは、神がわたしのそばにおられるかではなく、わたしが神のそばにいるかである。なぜなら、神はいつも正しいからです。」「わたしがいつも気をつけていること、関心があることは、神がわたしのそばにおられるかどうかではなく、わたしが神のそばにいるかどうかです。なぜならば、神はいつも正しいから。」「そば」を「側」とか「傍」という言葉に置き換えても良いと思いますが、どうでしょうか、みなさん、リンカーンが言いたいことがお分かりになられるでしょうか。「わたしにとって重要なことは、神がわたしのそばにおられるかではなく、わたしが神のそばにいるかである。なぜなら、神はいつも正しいからです。」このことをパウロ先生は今朝の箇所で私たちに伝えたいのだと思います。このことを覚えながら、今朝の宣教を聞いていただければと思います。
先ほど原執事に今朝の箇所を読んでいただきましたが、ここを読んでゆく中で気付かれたでしょうか。パウロ先生はこの箇所で、「義」という言葉と「信仰・信じる」という言葉を多く用いています。「義」という言葉は8回用いられ、「信仰・信じる」という言葉は3回用いられています。ですので、「義」と「信仰」ということがこの箇所のテーマであることが分かります。この「義」と「信仰」は、来週の宣教で聴きます10章5節から13節まで貫かれ用いられている言葉で、パウロ先生がここで私たちに伝えたい大事なことは、「義」には二種類あるということです。1)信仰による義と律法による義、2)神の義と人の義、3)素直な義と頑固な義、4)恵みによる義と行いによる義、5)異邦人の義とユダヤ人の義、と実に様々な言い表し方ができます。しかし、そもそも「義」とはいったい何でしょうか。
聖書に記されている「義」とは、「神様の義」であり、神様の「正しさ」です。神様の義の他に義はなく、神様の正しさ以外に真の正しさはないということです。また、「神の義」は「神の主権」を表す言葉として聖書では用いられます。神の義とは、神様の絶対的な権力を示すもので、他の誰の意思にも支配されない、左右されない神様のご意志を示すものです。その神様の主権、絶対的なご意思を明確に表しているのが、二週間前に聴きましたローマ9章15節の「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という神様の言葉です。「わたしが憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。」これが神様の絶対的な主権であり、ご意志であり、正しさであり、「義」である訳です。つまり、神様に対して異を挟むことは私たちにはできないし、してはならないことなのです。しかしその部分で思い違いをしたのが、多くのユダヤ人たちであったのです。そのことがパウロ先生の深い悲しみであり、絶え間ない痛みであったのです。
ユダヤ人たちは、神様に選ばれた民であり、様々な特権も受けていたのですが、それが災いして、とても傲慢になり、ユダヤ人以外の人々と見下すようになりました。そして自分の行いによって自分の正しさ、自分の義を表そうという大きな間違いを犯してしまうようになりました。そして神様から遣わされたメシア、救い主イエス様を拒絶し、救いを拒否してしまいました。この悲惨な間違いは、今もユダヤ人たちの中で続いているとパウロ先生は言うのです。
まず30節から33節に聴きましょう。「では、どう言うことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めたのに、その律法に達しませんでした。」とあります。その理由は32節。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」とあります。
神の存在も、救いを得る術も何も知らず、それを求めることができなかったはずの異邦人たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われ、神様のみ前に「義」とされたのに、神の民として選ばれているイスラエルは、自分たちの「義」を律法に追い求め、つまり自分たちの「行い」によって救いは得られる、義とされると信じ、それを追求したけれども、彼らは律法を完全に全うすることはできていない、救われていない、神様のみ前に義とされていないとパウロ先生は言うのです。
では、義とされている異邦人と義とされていないユダヤ人の決定的な違いは何でしょうか。それはイエス・キリストです。異邦人はイエス様を救い主、贖い主と信じて救われました。しかし、ユダヤ人たちは律法を厳守することに集中しすぎて、目の前に絶たれたイエス様を救い主と認めることができず、イエス様にぶつかって、つまずいてしまったのだとパウロ先生は言うのです。前方に注意を払っていれば、たとえ目の前に石があってもつまずかないと思うのですが、律法を守ることに集中しすぎ、自分の力で何とか神様に義と認められようと懸命であったが故に、神様からの恵みであるイエス様を受け入れるどころか、その恵みにつまずいてしまったのです。
33節に「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」とあります。神様がつまずきの石、妨げの岩をイスラエル、ユダヤ人たちの前に置かれたのです。つまり神様は、ユダヤ人たちの多くがイエス様につまずき、本当に一握りのユダヤ人、イスラエルの一部だけがイエス様を信じてゆくことは分かっていたのです。
パウロ先生は預言者イザヤの言葉を9章27節で引用しています。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」とあります。「妨げの岩」は、石よりも何百倍も大きなものです。どんなに忙しい人であっても、どんなに集中していても、気づかないはずはないのではないでしょうか。しかしこの妨げの岩は、気づく、気づかないというレベルの障害物ではなく、ユダヤ人たちにとって、とにかく信じられない、納得できない、受け入れることができないイエス様の十字架の死を指しています。ユダヤ人たちは、メシアが異邦人の手にかかって死ぬはずがない、ましてや「呪いの木・十字架」にかけられて死ぬはずがないと信じて、イエス様につまずきました。メシア、油注がれた者、救い主は、私たちを異邦人の支配から解放し、平和と繁栄をもたらす力強いお方であると信じていましたし、今でもそのように信じてメシアの到来を待ちながら、律法を追い求めています。
ですから、パウロ先生は「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と10章1節で記すのです。パウロ先生の悲しみ、痛みはユダヤ人たちがイエス様につまずいていることであり、パウロ先生の願いと祈りはユダヤ人たちがイエス様を信じて救われることだと言っています。「どうかそのためにわたしと一緒に祈ってください」と祈りの要請があるかのように聞こえます。ユダヤ人の救いのために祈りましょう。
さて、2節のパウロ先生の言葉に注目してゆきましょう。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」と言っています。パウロ先生は、ユダヤ人たちが「熱心に」神様に仕えていることを認めています。熱心さはとても大切なことことです。神様に仕えるということに集中することは大切です。しかし、「彼らの熱心さは、正しい認識に基づいていない」とパウロ先生は言います。
では、「正しい認識」とは、いったい何でしょうか。答えが3節にあります。パウロ先生は、「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」と言っています。つまり、「正しい認識」と言うのは、「神様の義、神様のご意志を第一とする」と言うことです。ですから、その反対の「正しくない認識」と言うのは、神様が自分たちに何をして欲しいのかと探し求める思いよりも、自分たちが何をしたいのかを求める思いの方が強かった」と言うことになるかと思います。そして「誰のために」と言うとき、神様のためと言うよりも、自分たちの「義」のため、救いのためにと言う思いが強かったと言うことを示していると思います。つまり神様を抜きにした、自分よがりの、自己中心的な思いからくる間違った認識、動機による熱心さであったと言うことだと思われます。
ユダヤ人たちが集中しなければならないこと、それは「神様の義」に従うこと、ご意志、御心に沿って生きると言うことでした。神様の御心は、ユダヤ人たちがイエス・キリストを救い主と信じて、恵みのうちに歩んで欲しいと言うことでした。しかし、ユダヤ人は自分たちの思い、つまり律法を守って、行いによって義とされると言うことを優先させ、律法を絶対化し、そこに熱心になってしまい、神様の恵みであるイエス様を受け取り、信じることができなくなってしまったと言うことだと思います。ユダヤ人の信仰は、神様中心ではなく、律法が中心、行いが中心の信仰になっていました。しかし、パウロ先生は4節でこのように言われます。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」とありますが、分かりにくいですね。新しい聖書協会共同訳聖書では、「キリストは律法の終わりであり、信じるすべてに義をもたらしてくださるのです」と訳されています。つまり、イエス様をキリスト、メシアと信じ、神様の恵みを受け入れることが律法を完成することであり、律法の終わりなのだ、行いだけでは救われない、最後はイエス様と言う神様の憐れみを信じることなんだとパウロ先生は言うのです。
神様は、私たちに熱心で正しい認識に基づいた信仰生活を送って欲しいと求めておられます。正しい認識とは、神様は私たちをその行いによって愛しているのではなく、その存在のまま愛してくださっていて、ただこの愛を受け取って生きて欲しいと神様が願われていると言うことを信じると言うこと、そしてその恵みを喜んで、日々感謝して生きると言うことです。自分の知恵や努力に頼らないで、神様の恵みに生かされることです。「神の義」に従うと言うのは、イエス様に従って生きると言うことです。「義」と言う漢字をご覧ください。「羊」と「我」と言う文字で構成されています。つまり、イエス様に従うと言うことは、私たちの上にイエス様を常に置いて、この主の言葉に従って生きてゆくと言うことです。何故ならば、神様と御子イエス様は常に正しく、義なる神であられるからです。
アブラハム・リンカーンは言いました。「わたしにとって重要なことは、神がわたしのそばにおられるかではなく、わたしが神のそばにいるかである。なぜなら、神はいつも正しいからです。」 あなたにとって大切なことは何でしょうか。頑張らないで、神様の憐れみによりすがり、イエス様と言う神様の愛と共に生きると言うことではないでしょうか。