父なる神の御心を行う御子イエス

「父なる神の御心を行う御子イエス」 八月第二主日礼拝 宣教 2024年8月11日

 ヨハネによる福音書 5章19〜30節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。暑い日々が続きます。わたしも少し風邪をひいたようで、ようやく治った咳がまた出るようになりました。エアコンの使用は必要ですが、設定温度を適度にしたり、除湿をしたりする必要が随時あります。水分と塩分、何より栄養をよく摂り、身体に負担をかけない生活を心がけましょう。皆さんの日々の健康と生活が守られますようにお祈りいたします。

 

さて、先週は、広島と長崎の79回目の原爆の日を覚えました。今週15日は、79回目の敗戦の日、終戦の記念日を迎えます。日本は、核爆弾による唯一の被爆国として、世界平和を各国に訴え続ける義務と責任があります。しかし、日本国内を見渡しても、各地の地震や災害や不安定な経済で混沌とした状態が続いています。世界を見渡しても同様です。戦争や紛争が各地で続いているのに、スポーツの祭典がパリで続けられてきました。わたしには、世界は混沌とした深い闇の中にあって、破滅へと突き進んでいるように見えてなりません。

 

世界平和は、武力によっては訪れません。平和を願うだけでも訪れません。わたしたち一人一人が平和のために実際に動かなければなりません。わたしたちの取るべき行動とは何でしょうか。キリスト者は、全知全能なる神様に祈ることから始めなければなりません。そしてイエス・キリストの平和の言葉に聞き従わなければなりません。相手を待つのではなく、自ら外に出て行って、自分と違う様々な人たちと出会ってゆくことから始まると思います。出会って、対話して、お互いが大切にしている事を分かち合ってゆくことです。もちろん、過去の罪や痛みや悲しみを分かち合うことになりましょう。しかし、そうすることを恐れていては、上部だけの平和となり、真の平和にはつながらないと思います。忍耐と時間をかけて対話する中で、お互いの違いを認識し、それを良さと捉え、お互いを認め合う、受け入れ合う。相互に違いがあったとしても共に歩んでゆこうと約束することが重要だと思います。そうでなければ、真の平和を共に構築してゆくことは至難の業でしょう。

 

さて、わたしたち人間が神様の御心を無視し、神様に対して罪を犯した結果、神様との強い関係性が絶たれたのですが、その時にわたしたちは神様の愛から切り離され、真っ暗闇の中を彷徨い続ける者になりました。生きる意味も、人生の目的も、生き甲斐も、喜びも見出すことができずに、只々苦しみ悶えて生きる存在、死に向かって生きる者となりました。「死に向かって生きる存在」、何という虚しさを感じる悲しい人生でしょうか。しかし、わたしたちはその虚しい道、死にまっしぐらの道を歩んできたのです。しかし、そのような道をわたしたちが歩むことは、神様の御心ではありませんでした。わたしたちを創造された神様の御心は、わたしたちが神様に立ち返って、神様の豊かな愛の中に永遠に生きることです。

 

主なる神様は、わたしたち人間に救いを与えるために、再び神の平和の中を歩ませるために、最初に動いてくださいました。わたしたちとの平和を構築するために、神様は和解するために、イエス・キリストという御言葉、和解の道を備えられました。この神の御子イエス・キリストを通して、わたしたちに神様の恵みと真理が現れました。

 

真理とは何でしょうか。ヨハネ福音書3章16節・17節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とありますが、これが真理であり、わたしたちが救い主イエス・キリストを通して救われて、神の子とされる事こそが神様の御心なのです。いま生かされているのは、わたしたちに救われる資格や功績があったからではなく、神様の愛と憐れみであり、すべては神様からの恵みであるのです。

 

さて、大久保教会での朝の礼拝では、「神の御心を探し求めて生きる」というテーマをシリーズ化して、御言葉に聴いています。ちなみに、本日の夕礼拝からルツ記の新シリーズが始まりますので、よろしければ夕礼拝にもご出席ください。話を元に戻しますが、7月28日から9月1日まで、6回にわたってヨハネによる福音書に聴いてまいりますが、その中で、今朝の御言葉が最も難しい箇所かなぁと個人的に思いますが、主に委ねつつ聴きましょう。

 

先週は、4章31節から38節を通して、イエス・キリストは、3度の食事よりもこの世に自分を派遣してくださった神様の御心を行い、主の御業を成し遂げることを最も大きな喜びとし、充実感を覚えておられたということを聴きました。イエス様がなされた神様の御心とは、ご自身を通して神を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることです。そのため、イエス様はわたしたちの身代わりとなって十字架に架けられ、罪の代償を支払うために死んで、その尊い命をわたしたちに与えてくださいました。イエス・キリストの受難、血潮、犠牲、死によって、命と引き換えにわたしたちを救う業が成し遂げられたのです。

 

イエス様がこの地上でなされた神様の御心は他にも色々ありますが、その中の一つが病気の人を癒すということでした。今回のテキストの直前の5章1節から18節にはベトザタの池に座っていた病人をイエス様が癒やされた記録がありますが、これを境にイエス様はユダヤ人たちから迫害を受け、命を付け狙われることになります。その理由となる原因は二つです。一つは、イエス様は安息日に病人を癒やされたということ。もう一つは、17・18節、イエス様が神様を「わたしの父」と呼ばれ、ご自分を神様と等しい者とされたからです。

 

今朝のテキストである5章19節をご覧ください。「そこで、イエスは彼らに言われた」とありますが、「彼ら」とはイエス様を殺そうと目論み始めたユダヤ人たちです。そのような人たちに「言われた」とありますが、イエス様は何を言われたのでしょうか。今朝は、三つのことをお話ししたいと思います。その三つに共通するのが、「はっきり言っておく」というイエス様の言葉です。19節、24節、25節にあります。ギリシャ語では、「アーメン、アーメン、確かに言っておく」となっています。「誠に、誠に、あなたがたに言っておく」となります。すなわち、重要なことを今から伝えるから、心して聴きなさいとイエス様は注意喚起をされるのです。その相手は、ユダヤ人だけでなく、わたしたちも含まれるのです。

 

最初の「はっきり言っておく」は、19節から23節です。「19そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。』」とあります。

 

ここでイエス様がおっしゃっているのは、「わたしは自分勝手なことをしているのではなく、父なる神の御心を忠実に行っているだけです。愛することも、癒すことも、死者に命を与えることも、裁くことも、すべては父なる神から任せられています」ということで、父なる神と思いも、行いも、すべて一致していると言っています。

 

20節に「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」とありますが、これがイエス様の十字架の贖いの死と三日目の復活を示し、神の愛を示しています。

 

24節に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」とあります。これは先ほどお話ししたヨハネ3章16節と17節に関連するところで、永遠の命を神様から受けなさいという招きになっています。「わたしの言葉を聞いて」とありますが、これはただ単にイエス様の言葉を聞く、心に留めるということではなく、聞き従う、すなわち聴いたことを実践してゆくということであり、それが神様の御心であるということです。

 

25節に「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」とあります。ここにある「死んだ者」とは、生物学的には生きてはいるのだけれども、心が、魂が死んだような状態になって闇の中を彷徨っている者という意味です。「そのような者たちが神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その救い主の声を聞いたものは生きる」とイエス様はおっしゃいます。罪から解放され、救いへと招かれる言葉です。闇から光へと招かれる言葉です。不安や恐れから解放され、平安の中ヘと招かれる言葉です。

 

皆さんの心のうちに、平安、生きる喜び、生きる目的、充実感が今あるでしょうか。もしないならば、どのようにしたら、それを受けることができるのでしょうか。それは、神の御子、救い主イエス・キリストの声に聴き、主を信じて、従う中で、神様から与えられます。イエス様は、30節で、「わたしは自分では何もできない。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行う」と言われます。

 

イエス様が父なる神様につながり続ける中で父の御心を行われたように、イエス様を信じて、イエス様につながる中で、わたしたちは神様の御心が分かり、真の喜びと平安をもってその御心を行うことができるようになります。イエス様を信じて、つながりなさい。この救いへの招きが「はっきり言っておく」とイエス様が言われたことです。聴き従いましょう。