「真の自由は門の向こう側に」 二月第四主日礼拝 宣教要旨 2017年2月26日
ヨハネによる福音書 10章1〜18節 牧師 河野信一郎
主イエスは、ユダヤ人ファリサイ派の人々に対し、羊たちの命を守る囲いの譬えを1〜5節で語られましたが、ファリサイ派の人々にはその話の真意を理解することができなかったと6節にあります。譬えは、大切なことを噛み砕いて分かりやすい話術ですが、彼らは何故理解できなかったのでしょうか。それは、彼らの心が頑なで、自分たちのことを言われていると思わなかったからです。私たちも、いつも心を柔らかにしておく必要があります。
当時のイスラエルでの羊の囲いは、石を積み上げた高い塀で囲った所で、羊の群れを夜の間そこに囲って野獣から守ります。この囲いには門があって、門番が門の扉を開け閉めし、羊飼だけに門を開けます。羊たちはその囲いに中にいる限り安全で、安眠できます。
さて、主イエスは7節で「はっきり言っておく」とおっしゃいますが、これは「真理をあなたがたに伝える」という意味です。そして「わたしは羊の門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」とおっしゃいます。羊たちは夜になる前に門を通って囲いの中に入り、命が守られます。そして朝になると門を通って牧草のある地に羊飼によって連れて行かれ、そこで養いを受けます。
門の向こう側には、安心して休める自由・恵みがあり、また門のもう一つの側には安心して養いを受けるという自由・恵みが与えられ、命がつなげられ、救われ続けるのです。それは全て主イエス・キリストという門を通ってゆく時に与えられる救い・自由・恵みです。
しかし、羊を狙うのは野獣だけではなく、羊を盗む強盗もいます。この強奪者から羊を守る役目が羊飼にはあったのですが、主イエスは「わたしは良い羊飼である」とも宣言されます。そして羊たちの命を守るためにご自分の「命を捨てる」とおっしゃいます。
「羊飼でなく、自分の羊を持たない雇い人は狼が来るのを見ると、羊を置き去りに逃げる。彼は雇い人で、羊にことを心にかけていないからである」と12−13節でおっしゃいます。雇われた羊飼は、自分の利益、報酬のために仕事をなし、羊よりも自分の命のほうが大切なので、身の危険を感じるとすぐに逃げ出してしまいます。しかし、良い羊飼である主イエスは、ご自分の羊たちを家族のように愛し、羊を養うために牧草地へ導き、また川のほとりに導くのです。そして野獣から守るために命をかけて働いて、羊の面倒をよく見てくださいます。
「わたしは良い羊飼である。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と14節で主イエスは言っておられます。主イエスが私たちを知ってくださっているのは、父なる御神と御子なるイエスがよく知り合っておられるのと同じレベルだと主は言っておられます。これは驚くべきことです。ただ漠然とした知識や認識ではなくて、私たちの全てを、名前も、生い立ちも、環境も、性格も、心の中にあることも全て知っておられるということです。しかも、神と主イエスの親密な関係と同じ密度というわけです。それは、主イエスが私たちに対して強い関心と愛の配慮を持って下さっているということです。
主イエスの私たちに対する愛は、15節後半にあるように、「わたしは羊のために命を捨てる」程の大きさです。主イエスは7節から18節までに、5回「捨てる」という言葉を用いています。ご自分の命を「捨てる」と何度もくり返しておっしゃいます。
イエスは「わたしがこの世に来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と10節でおっしゃり、18節で「これはわたしが父から受けた掟である。(つまり神の御心である)」とおっしゃっています。私たちが永遠の命を受けるために、主イエスが十字架の道を歩まれ、十字架上で贖いの死を遂げて下さったことを信じましょう。イエス・キリストという門を通って神の側に入る人は救われ、真の自由・永遠の命が与えられます。
3節と4節に戻ります。「羊は羊飼の声を聞き分ける。羊飼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」とあります。羊飼が羊の事をよく知っているのと同様に、羊たちも羊飼をよく知っていて、その声を聞き分けることができるのですが、私たちは主イエスのことをどれだけよく知っているか、またもっと知ろうとどれだけ求めて頑張っているかが問われています。ですから、日々の生活の中で、主を慕い求め、主の声を聴くように聖書を読み、祈り、主に思いをはせる時を持ってゆきましょう。
最後に16節を読みましょう。そこには、「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼に導かれ、一つの群れとなる」とあります。この「囲いに入っていない他の羊」とはユダヤ人以外の異邦人クリスチャン、つまり私たちのことです。私たちを救うために、私たちを一つの群れとしてくださるために、主イエスは十字架で命を捨てて下さったのです。
大久保教会には、日本人以外に、スウェーデン人、韓国人、アメリカ人、中国人の在日の方々が兄弟姉妹として加えられ、共に日本語で礼拝をおささげしている教会です。また、民族以外にも、社会的階層の相違を超え、性別や年齢を超えてキリスト・イエスによって一つの教会とされています。そのような教会に大久保教会がなることが神の御心なのです。そのような教会になるために、私たちは集められています。そのために主イエスは十字架への道を歩まれ、十字架上でその命を私たちに与えてくださったのです。そのことを覚えつつ、この受難節を過ごしてまいりましょう。