真理に従って生きよ

「真理に従って生きよ」 六月第四主日礼拝宣教 2021年6月27日

 テモテへの手紙Ⅱ 3章1節〜5節      牧師 河野信一郎

 おはようございます。なんと感謝な光景でしょうか。今朝は、詩編133編1節のみ言葉を礼拝への招きの言葉として聞きましたが、「見よ、兄弟姉妹が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」という言葉どおり、わたしの目の前に大久保教会の兄弟姉妹たちが礼拝者としておられる。形容しがたい喜びです。本当に感謝です。今日は雨が降り出し、久しぶりに教会に来ることは大変であったかもしれませんが、一つの場所に一緒にいることができることは、恵みであり、喜びです。ご一緒に礼拝をおささげできる恵みを主に感謝いたします。

さて、緊急事態宣言が解除されても、東京の新規感染者数は減少するどころか増加していて、街に繰り出す人々の数も日に日に増えています。ワクチン接種のスピードは実際に早まっているのか分かりませんが、様々な事情で教会に戻られることを我慢されている方々、躊躇されている方々、どうしても戻れない方々がおられます。様々なご事情で今朝もオンラインで礼拝に出席くださっている方々がおられますが、心から歓迎します。そのような大切な皆さんが1日も早く教会に戻って来ることができるように、また大久保教会の礼拝に出席したいと願っておられる方々が出席できますように、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。

さて、今朝の礼拝では、皆さんにお祈りいただきたいことが三つあります。時間の関係上、教会員の皆さんに配信しています第二部でお伝えすることも考えましたが、いつもオンラインで礼拝にご出席くださり、教会の働きのために祈り、応援くださっている方々にもぜひ覚えて祈っていただきたいと思い、礼拝の中で分かち合うことにいたしました。

一つ目は、今日から来週4日の日曜日まで過ごす神学校週間の事です。神学校週間の詳細は礼拝の第二部でアピールがありますからお話ししませんが、現在の日本の牧師の数、神学校で学んでいる神学生の数、そして神学生たちを支援する献金額がこの10年で軒並み減少しています。それはとても緩やかな減少幅ではなく、真っ逆さまにダイブして落ちている状態です。冗談ではありません。5年、10年先は本当に厳しく危険な状態に足を踏み入れています。

二つ目の祈りのリクエストは、8月から開始しようと準備している宣教の新シリーズのためにお祈りいただきたいという事です。8月から11月まで、旧約聖書の「ネヘミヤ記」を13回から14回にわたって、もしかしたら待降節(アドヴェント)までずれ込むかもしれませんが、ご一緒に聴いてゆきます。夕礼拝では裵宣教師がサムエル記上をテキストにシリーズで分かりやすくメッセージしてくださっていますから、今夜5時からの夕礼拝にも出席いただきたいと思いますが、わたしが旧約聖書からシリーズで宣教するのは極めて珍しい事です。大久保教会の牧師としての22年間で、旧約聖書の一定の書を宣教でシリーズ化したのは、出エジプト記とルツ記とヨナ書、そして祈祷会で3年かけて聴いた詩編ぐらいです。

現在はコロナと一緒に生きなければならないwith Coronaの時代ですが、次に来るafter Coronaの時代を見据えて、大久保教会の今後をどのように皆さんと力を合わせて再建築してゆくべきなのか、教会の体力をどのように回復してゆくべきなのかをネヘミヤ記を通して神様から聞いてゆきたいと願い、準備に入っています。どうぞ聖書から神様の御心が語られ、真理が語られ、聞く皆さんの心に神様の愛と励ましが語られ、救い主イエス・キリストを通して与えられる平安と希望と勇気が語られますよう、ぜひ覚えてお祈りいただきたいです。

三つ目のお願いは、大久保教会の初代牧師で、先週20日に天に召された保田井建先生のご遺族のために主の慰めをお祈りしていただきたいという事です。保田井先生は、滋子夫人と一緒に大久保教会の牧師として1964年から1977年まで13年間懸命に、誠実にお働きくださり、教会の基礎を据えてくださいました。今朝は保田井先生のお写真を少し準備いたしました。

最初の写真は、伝道所の時代であった1964年から1965年のもので、バプテスト会館で礼拝をささげていた時の集合写真です。最初に福音の種まきをしてくださったハロウェー宣教師も写っています。次の写真の左側は献堂された教会前に立たれる先生と、右側は按手礼式の時の写真です。次の写真は1960年代後半から1970年代前半の家族写真です。

1977年から2001年まで調布バプテスト教会の牧師として働かれ、2001年から東熊本教会の牧師として働かれました。次の写真は2012年の東熊本教会でのクリスマスの時の写真です。2016年4月14日に熊本地震が発生し、東熊本教会も被災しました。その時の礼拝堂の写真が次の写真で、その次の写真は被災された当時の保田井先生のお写真です。

保田井先生は、1961年から59年間、4つの教会(青森、大久保、調布、東熊本)で牧師として主に仕えられました。東京バプテスト神学校の事務長としても2001年までずっと仕えてくださいました。わたしたちの多くが先生と最後にお会いしたのは2005年の大久保教会の40周年記念礼拝の時であったと思います。とても力強いメッセージを語ってくださいました。この地上で保田井先生にもう一度お会いしたかったですが、わたしたちには天国での再会が約束され、希望として与えられています。ですから、今は滋子夫人とご遺族のために祈ることがわたしたちに託されている働きだと思います。どうぞ覚えてお祈りください。

さて、6月は使徒パウロが愛する弟子テモテを励ますために書き送った手紙をテキストに神様からの語りかけを共に聴いていますが、わたしたちの人生において、その日々の生活の大部分を占めているのは人間関係です。そしてその人間関係の中で、特に教会の信徒同士の関係性の中で「互いに励まし合う」ことがいかに重要なことであるのかをわたしたちは学んでいます。人間関係というものは実に複雑なもので、わたしたちができるだけシンプルに関係性を築きたくても、相手の人が屈折した環境の中で育った過去や非常に過酷な体験をしていたりすると、良い関係性を構築しこうとどんなに頑張っても、かなり難しいと感じてしまうことがあります。どうして物事をいつもそうネガティブな方向に捉えるかなぁ、どうしてもっと素直になれないのかなぁ、もっとシンプルに考えられないかなぁと忍耐力が試されます。

テモテが牧師として仕えていたエフェソの教会には経済的に富む人、それゆえにとても傲慢な人、協調性のない人、不道徳な生活をする人もいたようで、そのような人たちを牧会し、一緒に教会形成をし、キリストの福音を地域の人々と分かち合ってゆくことがとても困難に思える状況にあったようで、何度も涙を流し、くじけそうになることもあったようです。

皆さんも日々実際に体験されているように、人生は山あり谷ありで、平坦な道はなく、その中で最もややこしく、心に最も大きな負担がかかる人生のチャレンジは人間関係です。とてもしんどい。だからと言って、人里離れた土地で誰からも干渉されないで生きてゆくことがベストでしょうか。独り無人島で生活するのが最も気楽な人生でしょうか。確かに自分の観点から考えれば、それが理想かもしれませんが、わたしたちに大切なのは、自分の観点から自分の人生を見るのではなく、わたしたちを造られ、愛を持って生かしてくださっている神様がわたしたちにどのように生きて欲しいかという御心を知り、その御心に沿って、神様に信頼して、自分の人生を1日1日重ねてゆく、そのように生きてゆくということです。

わたしたちを愛し、生かしてくださっている神様は、わたしたちがいま生かされている場所に置いてくださっています。それは一時的かもしれませんし、20年、30年、半世紀というスパンのことかもしれませんが永遠ではありません。そして神様にはわたしたちを今の場所に置かれる目的と理由、大きな計画があるのです。わたしたち一人一人に持たれる神様の御心、それはわたしたちが置かれている場所で良い実を結んで生きるということです。良い実とは神様の喜ばれる愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という霊の実です。

わたしたちが置かれている場所、家庭や職場や学校やサークルやコミュニティの中で、これらの霊の実を結ぶことはわたしたちの力だけではできません。神様の力と助けが絶対必要ですが、その力を神様から受けるために必要なのは、イエス・キリストを救い主と信じて、その主の御手を握りしめて絶対に離さないこと、つながることです。イエス様は、「わたしにつながっていなさい」と常にわたしたちを招いておられます。わたしたちが人間関係に苦しむ時、痛む時、涙する時に決まって共通しているのは、イエス様の手を離してしまって自分の知恵と力と経験だけで上手くやろう、切り抜けようと頑張ってしまっているということです。

皆さん、弱さや欠けのあるわたしたちがどんなに頑張っても、その弱さや欠けは決して補われないのです。愛と赦しと強さ、喜びと平和と希望の源である神様につながっていなければ、どんなに頑張っても底蓋がないバケツで水を組むのと同じなのです。わたしたちに大切なのは、まずイエス様につながり、そしてイエス様を通して神様につながることです。「わたしにつながり、父なる神様につながりなさい」という主イエス様の言葉が福音、よき知らせであり、救いへの招きなのです。このイエス様につながることで神様の喜ばれる実をいま置かれている場所で結ぶことができるようになる、恵みのうちに神様が聖霊を通して実を結ばせてくださるのです。ですから、わたしたちは神様の側に立ち続ける必要があります。神様を自分の都合の良い側に引き込むことはできません。わたしたちが神様のもとに立ち返るのです。

苦闘しているテモテを息子のように愛している使徒パウロは、テモテに対して、「常に神様の側に立ち続けなさい」と励まし続けます。「純真な信仰を持ち続け、イエス・キリストの福音のために生きなさい、それが主から受けたあなたの使命だ」と励まします。「福音のために苦しみを忍びなさい、主は必ず顧みてくださる」と励まします。パウロ先生は、「福音」という言葉と「福音のために」という言葉をこの手紙の中で繰り返します。「あなたは真理の言葉を正しく伝える者となるために主に召されたのです。真理に固く立ち止まりなさい」とテモテに励まし、そのために「すべての不義から身を引きなさい」と厳かに命じます。「真理に逆らって生きてはならない。真理に従って生きなさい」と励まし続けます。

今朝の聖書の箇所、テモテへの第二の手紙3章1節に「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい」という言葉があります。「終わりの時には困難な時期が来ると知りなさい、今から十分に気をつけていなさい」ということですが、今朝のテキストではない6節を読みますと、「彼らの中には、他人をたぶらかす者がすでに入り込んでいる」とありますので、この困難な時期というのは決して将来的なことではなく、現実的に今起こっていることなのだと理解する必要があります。つまり、終わりの時はすでに来ている、困難な時期はすでに来ていて、その中にあなたは置かれているのだとパウロ先生はテモテに言うのです。

約2000年前から終わりの時、困難な時期は続き、世の中は罪に満ち、様々の情欲に駆り立てられている時代を送る中で多くの人々が苦しみ、痛み、悲しみ、絶望という暗闇の中を生きている。しかし、その世に神様は救い主イエス・キリストをお遣わしになり、イエス様はわたしたちの罪のために十字架上で贖いの死を遂げてくださり、このイエス様を神様が甦らせ、死に勝利し、永遠の命への道をわたしたちに備えてくださった。これが「福音」であり、「真理」である。福音とはイエス・キリストであり、真理もイエス・キリストです。この救い主、真理に従って生きなさいとパウロ先生はテモテを励まし、わたしたちを励ますのです。

真理に逆らわず、真理に従って生きるために必要なことは何であるのか。それはイエス様だけを見上げて、イエス様に聴き従うことです。終わりの時代には、2節からあるように、「人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れ無くなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい」と忠告されています。こういう人々を避けなさい。遠ざかりなさいと命じられています。

神様の愛と赦しと平安の中で生きるためには、避けるべきことがわたしたちの周りにはあります。特に人間関係の中にあります。しかし、そのような人間関係を良くしたいという気持ちもわたしたちの心の中にあるのではないでしょうか。それではどうしたらよいのでしょうか。まず、イエス様を信じて、この方を見上げて、この方の言葉と導きに従って生きることを信仰をもって選び取ることから始まります。そこからすべての祝福が始まります。