祝福し合う関係性を築く基礎

「祝福し合う関係性を築く基礎」 一月第二主日礼拝 宣教 2022年1月9日

 ペテロの手紙Ⅰ 3章8〜18節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。新しい年に入って2回目の主の日、日曜日の朝を迎えました。今朝もこのように礼拝堂に集まり、またオンラインで共に礼拝をおささげできて、本当に感謝です。この幸い・恵みを与えてくださる神様とイエス様に心から感謝と賛美をおささげいたします。

この1週間で、コロナ変異株の感染陽性者数が爆発的に全国で増加しています。医療現場の最前線におられる感染症専門家の教会員I兄弟は、1月下旬には必ず感染者数は増加すると言っておられましたので、第6波が来ることは覚悟していましたが、想像を絶するほど、あまりにも早いペースで感染拡大、市中感染が広がりを見せていますので、非常に驚いています。

「第6波が収まるまでしばらく対面式の礼拝をお休みし、オンラインで礼拝をおささげします」というご連絡を複数いただいており、賢明なご判断だと思います。今日の午後に臨時執事会を開いて今後の方向性を討議しますが、皆さんとご家族の健康が何よりも大切ですし、オンラインでも神様に礼拝をおささげできますので、どうぞご自分が最も安心できる方法をお選びください。教会も方針が再度固まり、諸集会の持ち方に変更が為されれば、メールや教会ホームページでお知らせしますので、どうぞご安心ください。今日は礼拝後に2022年度の執事を選出する総会を開きますし、1月から3月は年度末ということで新年度へ向けて準備が進められる時期ですので、教会の歩みが守られるようにお祈りいただきたいと思います。

さて、感染防止対策はとても大切なことではありますが、事務的な話はそれぐらいにして、少し砕けたお話を一つしたいと思います。新年早々、牧師がまた何か変なことを言っていると聞き流してくださっても結構ですが、傾向として、人はどうでも良い話に聞く耳をしっかり立て、大切なことが語られる時には心地よく眠ってしまうということが見受けられますので、できれば今朝はどちらの話にも聞く耳を立てていただければたいへん嬉しく思います。

さて、皆さんの年始はいかがであったでしょうか。ゆっくりされたでしょうか。私は、とにかくたくさん歩きました。3日から6日まで、散歩で4万5千歩ぐらい歩きました。1日に1万8千歩ほど歩いた日もありました。その時に映画館の前を通ったのですが、上映されている映画のポスターが大きく掲げられていて、そこに書かれている言葉を読んで驚きました。なんと書いてあったと思いますか。すごいです。「呪い合え、全てを懸けて」とあったのです。

「呪い合え、全てを懸けて」 すごいと思いませんか。アニメ映画のタイトルは漢字が難しくて読めなかったのですが、キャッチコピーが「呪い合え、全てを懸けて」です。私はビビッと感じました。「これは良いぞ。今度の宣教の導入に使える!」とわたしの心は躍りました。なぜ心が躍ったかと言いますと、前々から今朝の宣教のテーマは「祝福し合う」ということがわたしの頭の中にあったからです。わたしは、「これはいける!」と思い、喜びました。

現代では、「呪い合う」ということはないと思います。非現実的です。しかし、私たちの日々の営みの中、人間関係の中では、日常的に裁き合う、競い合う、争い合う、妬み合う、奪い合う、むさぼり合う、罵倒し合う、怒り合う、バカにし合う、攻撃し合う、無視し合う、批判し合う、責任を押し付け合うことなどが繰り返されています。ハラスメント、裏切り行為、嫉みや憎しみ合いで満ちています。ある意味、それらが「呪い合う」ということなのかもしれません。知らず知らずのうちに、呪い合っている、痛みつけ合っているのかもしれません。

しかし、そういうことをわたしたちの「全てを懸けて」、わたしたちの全神経を集中させて、全てを投げ捨ててでもやって良いはずがありません。そんなことをする人は明らかに理性を失っています。しかし、人にそうさせているのは全て罪であり、悪の力です。わたしたちの心を、良心を破壊し、人間関係を木っ端微塵にしようとする大きな力が確かに存在し、わたしたちはその力に苦悩します。しかし、だからと言って、目には目を、歯に歯をという論理は絶対に間違っています。イエス様はそのようなことをわたしたちに教えておられません。

確かに、わたしたちの力ではどうすることもできない大きな力、圧倒的な力が存在し、不条理な苦しみや痛みや悲しみを多くの人々が経験します。しかし、それらは人の罪と悪の力から出たことであって、決して神様から出たものではありません。聖であり、正義であり、愛の神様、喜びと平安と希望の源である神様から、破壊的な苦しみが来ることはありません。神様から来るのはすべて良いものばかりです。「神は愛である」と聖書に記されています。

今朝は、ペトロという使徒が書き記した手紙から神様のみ言葉を共に聴いて参りたいと願っていますが、この手紙は激しい迫害を受けているクリスチャンたちに書き送られたものです。苦難の中に置かれているクリスチャンたち、イエス・キリストを救い主と信じ、主の言葉に聞き従って生きる人々を励ますために、キリストを通して神様から与えられた信仰にしっかり留まって生きるように、力づけるために書かれたものです。つまり、先ほど幾つか言い連ねました、罪にある人々から不公平に裁かれ、妬まれ、罵倒され、非難され、バカにされ、攻撃され、不当な扱いを受けている人々が、それでも主イエス様を救い主と信じ、主に希望を抱いて生きることができるように、励ますために書き送られました。

また、この手紙の土台には、イエス・キリストの苦難があります。つまり、日々の生活の中で大きな苦しみの中で、希望を抱けず、のたうち回っている人々を救うために、イエス様はこの地上に来られ、その苦しみの原因である「罪」という問題を解決するためにイエス様が十字架の道を歩まれ、わたしたちの身代わりとなって十字架上で贖いの死を迎え、わたしたちの罪を清めるためにその命を捨ててくださったという主イエス様の苦しみがあります。この救い主の死によって、わたしたちは罪から解放され、救いの道、祝福への道が開かれているから、決してイエス様から離れてはいけない、イエス様につながり続けなさい、イエス様に留まり続けなさいとペテロは苦しみの中にいる人々を励ますのです。

さて、2020年から2年も続くコロナパンデミックの中、わたしたちの心は疲れ果て、弱り果てています。「わたしたち」と一括りにすると失礼になると思いますが、わたしは自分の心が正常でないことが、自分の一瞬の言葉使いであったり、考えであったり、感情であったり、自分のふとした振る舞いを見てよく気付かされます。皆さんはいかがでしょうか。

自分のことや家族のことだけで精一杯で、なかなか他のことに手が回らない、他の人のことを思いやれない、心を配ることや忍耐することが難しくなっています。心がバラバラのようです。しかし、それは神様の御心、願いではありません。わたしたちの心が長い不安と戦い、忍耐の上に忍耐を重ね、その結果、心が弱ったゆえにそうなっているのです。

それでは、神様の御心とは何でしょうか。また、どうすれば弱った心に元気を取り戻すことができるのでしょうか。コロナパンデミックの中、こんなにも長く続く不安、恐れ、苦しみという暗いトンネルの中を通らされているのに、神様の御心があるならば、その御心のままに神様がさっさとしてくだされば良いのに!と、一瞬ムッと来る、カチンと来るかもしれません。その気持ちもよく分かりますが、それはサタンからの罪の誘惑、罪の香りです。

それでは、つい先日始まった新しい2022年をどのように生きてゆけば良いのでしょうか。神様の御心に従って生きるとはどういうことでしょうか。その答えは聖書にあります。ペトロの手紙Ⅰ・3章の8節を読みましょう。「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」とあります。神様の御心は、わたしたちの心を一つにすることです。

しかし、何を土台に一つになるのかという疑問が浮かび上がると思いますが、その土台はイエス・キリストです。わたしたちが自分ではなく、イエス様に集中する時、イエス様の十字架に目を注ぐ時、わたしたちは一つになれます。わたしたちの心が主イエス・キリストによって一つにされたならば、主がわたしたちを助けてくださり、わたしたちが同情し合い、兄弟姉妹のように愛し合い、お互いに憐れみ深く、謙虚に生きることができるようにわたしたちを変えてくださいます。イエス様ご自身がわたしたちに対して同情してくださり、愛してくださり、憐れみ深く、謙虚に生きられた方であり、確かな模範を示してくださいました。

ちょっと横道に逸れますが、同じ手紙の2章の20節の後半から24節を読みたいと思います。

「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅かさず、正しくお裁きになる方(神様)にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

これは旧約聖書にあるイザヤ書53章からの引用です。イエス様がわたしたちの信仰の土台であり、模範であるのです。信仰深い人ではなく、イエス様お一人です。

ですから、ペトロはこう励まします。3章9節。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」とあります。これはルカ福音書6章27節以下に記録されているイエス様の言葉を反映していると考えられますので、また後でルカ6章をお読みいただければと思いますが、今朝の宣教の大きなポイントがここにあります。すなわち、わたしたちは互いに祝福し合うために神様によって生かされ、祝福し合う者としてイエス様に召されているということです。

罪によって日々破壊され続ける人間関係を御心に適った関係性に戻す方法は一つしかありません。それはイエス様に集中し、イエス様から神様の愛を日々受け取り、神様の愛で祝福し合うしか方法はないのです。「祝福を祈りなさい」とあります。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されている」とあります。みんなが神様の愛と祝福を受け継ぐべきであり、そのために生かされているのです。お互いを傷つけ合い、悩まし合うためではないのです。「全てを懸けて、祝福し合う」、それが神様の御心です。

10節から12節の言葉は、詩編34編13節から17節をリフレイズしたものです。新改訳・口語訳聖書ですと12節から16節になりますが、ここに祝福する者として召された者の生き方が記されています。読んでみましょう。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

家族や周りの人たちを祝福したいならば、まず神様に祈り求めなさいと励まされています。祝福の源である神様に祝福を祈り求める時、私たちは人を呪うものではなく、神様の愛の力によって「祝福する者」として変えられて行きます。

14節後半から15節前半に、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」とあります。イエス様に助けられて、わたしたちは互いに祝福しあうことができます。イエス様につながり続けることが大事です。

最後にもう1点、15節後半から16節前半です。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」とあります。神様の愛を、イエス様を証すること、わたしたちが抱いている希望を分かち合うことが「互いに祝福し合う」ことであり、その基礎・土台は救い主イエス・キリストにあるのです。

これが主なる神様の御心です。この1年も、神様の愛に生かされ、イエス様とご聖霊に助けられて祝福し合いましょう。