「神から与えられた人生を喜ぶ」 九月第二主日礼拝 宣教 2023年9月10日
コヘレトの言葉 5章17〜19節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も皆さんと共にこの会堂に集い、賛美と礼拝を神様におささげできる幸いを救い主イエス様に感謝いたします。いかがお過ごしでしょうか。コロナ感染やインフルエンザの感染などが広がりをみせ、感染者数も増えています。これからもお互いの命と生活のために感染防止に努め、いつもお互いの健康と生活のために祈り合いましょう。
さて、今朝は5月にS宣教師一家に誕生したW君の献児式が後でありますが、その前の余興ということで、皆さんに一枚の写真をお見せしたいと思います。はい、この写真、どのような状況下の写真だと思われるでしょうか。これは今から56年前の1967年5月28日に撮られた写真で、誰かの献児式の時の写真です。お恥ずかしながら、この赤ん坊は生後7ヶ月のわたしです。OS先生が四日市教会にいらした時に祝福のお祈りをしていただいた時の写真を母に無理を言って昨日メールで送ってもらいました。
次の写真は、礼拝と献児式の後に撮った教会員の皆さんとの集合写真で、すでに天に召された方々も多いですが、懐かし方々のお顔が見えます。今でも親しい交わりを持たせていただいている方々もこの写真の中におられますが、この方々がわたしの両親が神様の御前にわたしをささげ、神様の御心にそって、愛と祈りをもってわたしを育ててゆくと神様に約束をした時の証人であり、わたしを愛し、わたしの成長のために祈り続けてくださった方々です。わたしも当時は小さくて可愛いかったですね。今ではこのような髭面で、お腹が出ているおじさんになりましたが、両親をはじめ、数え切れないほど多くの方々の愛と祈りによって、ここまでの成長が与えられ、大久保教会の牧師として今ここに立たされています。
教会では11月に「こども祝福式」をもち、教会に与えられている子どもたちの健康と成長のためにお祈りをしますが、「子ども祝福式」と「献児式」は何が違うのでしょうか。献児式のことを英語では「The Baby Dedication」と呼びますが、どちらかと言えば、献児式の主役は子どもではなく、その両親です。家庭に誕生した子どもは神様から授かった賜物であることを認め、それを恵みとして喜び、感謝し、聖書に記されている神様の御言葉、御心に沿って子どもを育んでゆき、神の愛をもって子どもを教育してゆくことを会衆の前で神様に約束する、そして神様の愛と助けと導きという祝福を求めてゆくことが献児式の目的です。
住み慣れたアメリカと家族から離れ、日本という異国へ宣教師として派遣されてから約18ヶ月、ご夫妻の日本語は日々上達していますが、それでも5歳のEちゃんを公立の幼稚園に通園させ、生まれたばかりのW君を育てながら勉強をするのも大変でしょう。ですから、この献児式に参列するわたしたちは、子どもの成長のためだけを祈るのではなく、その両親の上に主の励ましと知恵と愛が豊かに注がれ続けることを祈ることがわたしたちの光栄な責任であることを覚えてください。幼い子どもがイエス様と同じように知恵が増し、背丈も伸び、神と人から愛され、成長してゆく中で神と人を愛し、仕える者となるように祈り、愛し、見守ることが教会の責任です。この後、ご一緒に神の祝福を祈りましょう。
さて、喜ばしいこと、感謝なこともありますが、金曜日の台風13号と線状降水帯による豪雨で被災した千葉の南房総半島、茨城、福島の方々を覚えて祈ります。また昨日の大地震で1000人以上の死者、1000人以上の負傷者を出し、過去にない甚大な被害を受けたモロッコの被災地にある方々、今もずっと救助を待ち続いている方々の叫びを覚えて祈ります。1ヶ月前に大火事で街全体がほぼ焼け尽くされたハワイ州マウイ島ラハイナ地区の方々の痛みや怒りを覚えます。アメリカの同時多発テロから明日で22年を迎える遺族たちの未だに癒えない深い悲しみ、失望感を覚えます。戦争が続くウクライナとロシアで夫や息子、兄弟や友を失って悲しみ苦しんでいる家族たちの大きな痛みと不安を覚えます。福島第一原発の処理水放出をめぐって苦しんでいる漁業関係者や風評被害を受けている人々の苦悩を覚えます。わたしたちの知らない場所や土地や国々で、厳しい迫害にあっている人たちがおられます。
先日見ていたテレビの報道番組で福島の住民やラハイナの住民が「政府はウクライナの支援ばかりして自分たちを助けない、自分たちは無視されていると不満を爆発させている人々の荒々しい声を聞きましたが、首相や大統領をはじめ日本と世界と政治家たちは自分たちの保身のために忙しいようです。涙し、途方に暮れている人々を気にかけません。心配しません。それなのに、そういう人たちが教会で礼拝したり、神社で参拝したり、戦争や災害の犠牲者たちに花を手向けている姿をテレビで見ると、コヘレトの言葉が激しく迫ってきます。
4章17節、ある聖書訳では5章1節となりますが、コヘレトの「神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は供え物をするよりも、聞き従う方がよい」という言葉がフラストレーションと一緒に強く迫ってきます。怒りを通り越して呆れてしまい、虚しさが湧き上がってきます。非人道的な悪を行なっているのに、国民や世界中の人々に対して真実を隠し続け、欺き続ける。自分たちが国民を虐げているのに、権力を持つ人々はそのようなに思いもしない、罪の自覚も、罪悪感もなく、何食わぬ顔で礼拝やミサに集い、聖餐式にも列席しようとする。そういう見せかけだけの信仰者たちに対して、コヘレトは「神殿に通う足を慎むがよい」と警告をしています。
コヘレトは、5章6節まで、神を畏れているようでまったく畏れていない人々、信仰者の日常生活、教会生活、信仰生活の鋭く批判しています。祈る時も言葉数が多くてだらだら祈る。証しする時も言葉数の多い、ポイントが定まらない証しをする。交わりの時も神様のことが話題の中心でなくて、世間話や噂話や悪口であったりする。例えば、3節から5節では、神様を信頼し、神の言葉に聞き従いますと約束しておきながら、その約束を果たさないのであれば、最初から約束すべきでなかった。何もかも捨てて、すべてを委ねて神様に、イエス様に従うと誓いを立てたなら、その誓いをきちんと果たしなさい。あなたの口があなたの身を滅ぼすことにならないように、信仰の帯をちゃんと締め直し、神を畏れ敬いなさいと言われているようです。1節の「神は天にいまし、あなたは地上にいる」という言葉は、神を畏れる者は地上において主から委ねられた責任をしっかり果たして生きるべきだとコヘレトは言っているのだと思います。未成熟で無責任な信仰者が多いことを指摘していると同時に、そのような信仰生活、教会生活をしないように叱咤激励していると読めます。
さて、コヘレトの言葉の4章と5章は、痛烈な社会批判の箇所です。5章7節は、当時の政治を司る官僚たちとその官僚制度への批判であり、今日にも共通する鋭い批判です。「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら 身分の高い者が、身分の高い者をかばい 更に身分の高い者が両者をかばうのだから」とあります。国民のために、国益のために身を粉にして働いているのではなく、自分たちの利権や富のためだけに働く政治家が多いということです。公正な裁きがまったくなく、神様の御心に沿った正義が欠如しているということです。政治家に大切なこと、それは「耕地を大切にすること」、つまり国民の生活を第一に考えるということです。
続く9節から16節で、コヘレトは、主なる神様を愛するよりも、この地上の富を愛する人たちがいかに不幸な人たちであるのかを指摘しています。9節から11節を読んでゆきますと、金銀を愛する者は金銀に飽くことなく、富を愛する者はどんなに富を得ても満足しないで貪欲に拍車をかける。財産が増せば、それだけを狙ってまとわりつく者たちが増え、富があっても何の喜びもない。金持ちは自分の財産への執着が強すぎて、夜の間に盗まれはしないかと不安に襲われてよく眠れない。しかし、労働者たちは一日中勤勉に働くので、「満腹していても、飢えていても」、心地よく眠れる。どちらが本当に幸せなのでしょうか。
幸せな将来のために、子どもたちのために、老後のために、若い時から投資をして資産運用をする人が大勢おられますが、続く12節と13節には、そのような投資に失敗した人のことが短く記されています。現代に通ずる内容となっていますので、読んでおきましょう。「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。下手に使ってその富を失い。息子が生まれても、彼の手には何もない」とあります。
神様から与えられたこの命、与えられているこの体、時間、能力といった多くの恵みをわたしたちは神様の御心に沿わない所に投資運用しているのではないでしょうか。神様の思いに一致しない投資は神様に祝福されないので失敗に終わり、虚しく、不幸な結末になるということをコヘレトはわたしたちに教えようとしているのではないでしょうか。神様から与えられたもの、授かったもの、委ねられたすべては、神様の栄光のために、そして社会の中で弱く小さくされている人たちのために用いることは神様が喜ばれるだけでなく、わたしたちがそこに生きがいや喜びや充実感を感じられる祝福になってゆくのではないでしょうか。
14節をご覧ください。コヘレトはヨブ記の存在を知っていたのでありましょう。ヨブ記の言葉に共通することが記されています。「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない」とあります。この地上での富を求め、頑張ってそれを一代で得たとしても、この地上を去る時が必ず来るのです。そうであるならば、倉の中に富を納めることをやめて、その富を有効活用することに全力で取り組んだほうが賢明ではないでしょうか。
もし神様を愛しているならば、神様が愛しておられる人々のために持ち物を主にささげ、それを分かち合い、主に用いていただくほうが良いのではないでしょうか。一生懸命に働いて稼いで貯めた富が、この地上に残す遺産が、国に没収され、国の金庫に入り、それが強欲な政治家や権力者のためだけに用いられるよりも、神様の愛を必要としている人々、虐げられ、涙している人たちのために用いられるほうが良いのではないでしょうか。
さて、コヘレトの痛烈な社会批判は17節から19節の言葉で締めくくられていますが、興味深いことにこの宇宙と世界の中で最も偉大なる存在、創造主、すべてのすべてを支配される方を認める「神」という言葉が4回用いられていますので最後に読んでみたいと思います。
「見よ、わたしの見たことはこうだ。『神』に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。『神』から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは『神』の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。『神』がその心に喜びを与えられるのだから。」
たとえ短い人生であったとしても、その人生は『神』から与えられた人生であるということ、すべての富や財産、ここでは命や体や時間や能力と言った恵みは『神』から与えられたもの、すべては『神』からの賜物、すべての喜びや感謝の源は『神』であり、愛をもってわたしたちを守り導いてくださる神様がいつも共にいてくださり、必要を満たしてくださるから大丈夫という神様への信頼、信仰がわたしたちに大切であることを教えてくれます。
コヘレトは、今朝わたしたちにこのように言います。「確かに現実は厳しい。社会は歪み、人間が作り出す悲惨な状況、荒れ狂う嵐は続き、迷いや悩みは絶えず、やるせなさにため息をついてしまう。しかし、衣食住といった日常生活の中に神様からの恵みが限りなく多くある。日々の小さいこと、当たり前のように受けているものの中に神様からの愛と恵みが必ずあるから、その恵みを数えてみなさい。そしてその恵みを日々感謝して、喜んで歩んでゆきなさい」と励まし、わたしたちを真の幸いへ招くのです。19節の「神がわたしたちの心に喜びを与えられるのだから」という言葉を心に蓄え、主に信頼して歩みましょう。主に感謝いたします。