宣教要旨「神が人を愛している」~二人の息子の物語~
大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫 2019/03/17
聖書:ルカによる福音書15章25節~32節(p139) 招詞:詩編23編6節
今朝は「二人の息子の物語」の後半25節から、兄息子の話に焦点を当てます。兄弟の父親は、弟息子が帰って来たとき、彼がまだ遠くにいるのに見つけて走り寄っていきました。 このときの、父親の、弟に対する大きな歓迎ぶりに怒った兄は、宴会が行われている自分の家に入ろうとしませんでした。しかし父親は、弟のときと同じように、自分の方から家を出て兄息子に向き合っていきました。 今朝はこの物語から、何よりも私たちを追い求める神について、「神が人を愛している」との思いに導かれています。
研究者によりますと、「弟と兄の物語」二つの物語が合わせて語られる場合には、後の方に重心があると云われます。従ってこの物語は、「兄息子の物語」なのです。
それでは「兄息子とは誰」でしょうか。そのように教えられつつ15章全体を読みますと、イエスの語られた三つの例え話は、ひとまとまりの話だと、あらためて気づかされます。
最初に主イエスは「見失った一匹の羊」の話をしました。百匹の羊のうちの一匹がいなくなった。その持ち主は他の99匹を残しておいて、いなくなった一匹を探し回らないだろうか。持ち主は、野原を隅々まで探し、失った一匹を見つけた。友達や近所の人を呼び集めて、「一緒に喜んでください」と言った。神の国の喜びとはこのようなものだ。
第二の例え話は、「乙女が無くした銀貨」の話です。
ドラクメ銀貨10枚のうち1枚をなくしてしまった乙女がいた。10枚揃っていないと価値がないのです。これが見つかった時も、友達や近所の女性たちを集めて、「一緒に喜んでください」と言うに違いないと主イエスは言われました。面白いことに、最初に失ったのは100匹のうちの一匹、1パーセントを失ったのです。次は10枚のうちの1枚。ここでは10パーセントを失いました。そして次第に比率が大きくなっていきます。
第三の例え話は、二人の兄弟の物語です。まず、二人のうちの一人が失われます。従って50パーセント失ったのです。とても興味深い話の構成になっています。
主イエスは、父なる神が、失われた者が帰って来ることを、どんなに待ち望んでおられるのかを、これでもか、これでもかと、1パーセント、10パーセント、50パーセントと、このような三つの物語にして話しているのです。
ここで少し気になることがあります。初めの二つの例え話の喜びようは、「友達や近所の人たちを集めて、一緒に喜んでください」とあります。果たして、そのようなことまでして喜ぶことなのでしょうか。三つ目の例え話「失った弟息子が帰って来た」という段落では、盛大な宴会を開く父親の歓迎ぶりが気になります。兄息子には一切相談せず、最大級のもてなしを始めてしまったのです。この日の父親のやり方、これも気掛かりです。状況を知った兄息子の憤(いきどおり)は、弟に対する以上に、激しく父親に向けられていきました。そこで、益々問われるのは、この「兄息子とは誰か」ということです。
兄息子の関心は、あくまで忠実に仕えてきた自分にあります。自分は正しく生きてきたという誇りにあります。居なくなっていた弟が帰って来たときに、そのことがはっきりとしてきました。ある方は、「神にとって、向き合うその人物が、恵みとしてどう受け止め、どのように行動しようと問題ではない。神はひたすらその人物に関わり、愛を注いで行かれるお方である」そのように語っていました。
今朝は招詞で、詩編23編6節をお読みいただきました。
ここに「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」との言葉があります。
この詩編23編の詩人は、「神は、いつもわたしを追いかけるお方だ」と、最後に特徴のある言葉で告白しています。自分は、人生のさまざまな局面で、真剣に神に向き合い、乗り越えて来たと自負してきたが、最後にもう一つの発見をした。自分が神と向き合い、自分が神を求めてきたように思っていたが、実は、神の方が自分を追いかけていて下さっていたのだと発見するのです。
6節の言葉に触れて、確信を持って行動したユダヤ人の教師であり哲学者とも呼ばれる人物がいました。 A.J.ヘッシェル(1907-1972)というその人は、ポーランドに生まれ、家族や知人のほとんどをホロコーストで失ってしまいましたが、自分一人がアメリカに亡命し、生涯にわたってユダヤ教神学校で教鞭をとりました。そのような過酷な運命の中で自分を支えたのは、主なる神の存在だったと言っています。迫害されるユダヤ人と運命を共にし、その救に心砕いてくださる主なる神を身近に感じて耐えられたと言っていました。
ヘッシェルの半生の多くの時間を占めたのは、同じ神を礼拝するユダヤ教徒とキリスト教徒が繋がるようにと活動したことです。そのことを象徴するように、1960年代、アメリカの公民権運動では、キング牧師と腕を組み、先頭に立って行進していたことに現れています。「わたしを追いかける神」とヘッシェルは表現しています。
A.J.ヘッシェルはユダヤ教徒とキリスト教徒を、次のように捉えていたのかもしれないとわたしは思います。ユダヤ教の立場から見て、キリスト教徒は「弟息子」である。その弟息子は放浪の末、父の憐みのもとに、自分を再発見することができた。
一方で、ユダヤ教徒は、自分こそ神の憐みを受けるのにふさわしいと思いあがる「兄息子」ではないか。彼は、父の憐みの中で生きながら、憐みによって生かされていることに気付かなかった。実は自分も弟と同じ、失われた者となっていることに気付けなかった。
わたしたちの神はそのどちらにも、同じ思いで、愛をもって向き合ってくださるお方だと知ってほしい。ヘッシェルは、そのように願って、ユダヤ教とキリスト教をつなぐ行動をしていったのだと思いました。
わたしたちは、どんなに信仰生活を重ねてきても、神に赦されて、はじめて生きることが出来る者なのだということを忘れてしまうなら、兄息子と同じ経験をすることになります。「二人の息子の物語」は、失われている者を徹底して探しだし、100%の祝福の中に連れ戻して、一緒に喜びを分かち合おうとされる、愛に満ちた神を伝えています。
そして主イエスご自身、この物語を語られた後、父親の行動を、ご自分の全存在をかけて貫いて行かれました。その行動が主イエスの十字架に向かうお姿です。
主イエスは、わたしたちのために、ご自分を0(ゼロ)にして、わたしたちがすべて、神さまの喜びの中に入るようにしてくださいました。主イエスの父なる神こそ「わたしたちを真実に愛して下さる」お方です。
この一週も、わたしたちに仕えくださった主イエスを信じ、従って行きましょう。