「神が喜ぶいけにえ」 宣教要旨 7月第三主日・神学校日礼拝 石垣茂夫副牧師 2015/07/19
聖書 フィリピの信徒への手紙4章15~18節
4:18 わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
今朝の「神学校日礼拝」には、東京バプテスト神学校音楽科生の中川智己姉妹(多摩川キリスト教会員)がお心のこもった証しと素晴らしい賛美(フルート演奏)を携えてお仕えくださいました。姉妹のれ献身の思いが強、められ学びの時が祝されて、神さまに用いられる器とさせて頂けますようにと、わたしたちも祈りに覚えてまいりましょう。
姉妹が所属する教会は、最近のことですが、インドネシア宣教として前任の野口日宇満・佳奈線宣教師を送り出した教会でもあります。丁度、使徒パウロには、フィリピの教会が母教会ようになってその宣教を支えたように、多摩川教会もそうした母教会としての働きを、継続してなさって行かれることでしょう。
15節に「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。」とあります。どれくらいの年月を支え続けたでしょうか。フィリピの集会の成立を見届けてフィリピを出発して以来、なんと、パウロの宣教を、具体的に支援し続けたのは、フィリピの教会ただ一つであったというのです。
16 節には、「また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」とあります。
「窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」と書かれています。パウロはこのようにして励まされ、支えられて宣教を続けてきたということを心に留めましょう。
17節に「 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。」とあります。「あなたがたの益となる」とは何のことでしょうか。
この17節は、フィリピ教会(集会)からの贈り物を、なぜ自分は受け取るのかと、パウロがその理由を言っている言葉なのです。パウロは、福音宣教の見返りに報酬を受けるということには、大変慎重な人でした。可能な限り報酬を受け取ることを避けてきました。パウロは当然受けられるその権利さえ断(ことわ)って、テント造りをして生活費を捻出(ねんしゅつ)するような人でした。
しかしパウロは、フィリピの人たちの献金だけは、敢えて受け取りました。パウロの思いの中には、彼らからの献金を受け取ることによって、フィリピの人たちの喜びをも受け止め、共に、福音宣教に携わっているのだと伝え、彼らの信仰の完成を祈っていたと思われます。
フィリピの教会の規模は小さく、決してゆとりのある教会ではなかったということです。
彼らは、パウロが伝えた、「神が、生ける御子キリストを惜しまずに自分たちの救いのために与えた」という出来事に突き動かされて、福音を伝えたい願い、パウロと共に、喜んで神に仕えようとしていたのです。
わたしどもの歩みも、神に喜ばれることを目指したいと思います。神に仕える事を自分の喜びとする者でありますように、この1週の歩みを導かれて参りましょう。