神が約束された聖霊の働き

「神が約束された聖霊の働き」 六月第一主日礼拝 宣教 2025年6月1日

イザヤ書 32章15〜20節     牧師 河野信一郎

おはようございます。6月の初日の朝を迎えました。この主の日に、このように礼拝堂に招かれ、皆さんと共に礼拝者とされている幸いを神様に感謝いたします。ゲストの皆さん、大久保教会へようこそ。心から歓迎します。昨日は、冷たい雨が朝からずっと降り続け、冬の終わり頃に舞い戻ったかのようでしたが、今週水曜日あたりからまた暑くなる予報です。寒暖差が激しいため、体調を崩しやすくなりますので、どうぞ気をつけてお過ごしください。

 

さて、先週25日の夕礼拝で大変感謝なことがありました。約半年ぶりに、新しい来会者が2名も与えられました。お二人とも教会を探しておられるそうですが、そのうちのお一人はずっと前から夕礼拝のライブ配信で出席くださっていたそうで、一大決心をして大久保教会に来てくださったと聞きました。夕礼拝の配信をしてくださっている方から聞きましたが、約8名の方々が毎回ライブ配信で夕礼拝をおささげくださっているそうです。何処に住まわれるどなたが礼拝に出席くださっているのか皆目見当がつかないのですが、そのうちのお一人が勇気を振り絞って今回来てくださったと聞いて、聖霊の働きに感動しました。皆さんの中にもライブ配信で夕礼拝に出席くださっている方がおられると思います。心からありがとうございます。今後も朝の礼拝と夕べの礼拝のライブ配信が用いられ、一人でも多くの方々の救いのために、信仰生活の祝福となりますように、また奉仕者のためにもお祈りください。

 

さて、来週8日の日曜日の朝の礼拝は、ペンテコステ礼拝としておささげします。イエス様は、天に上げられる前、弟子たちにエルサレムに留まって神様が約束されていた聖霊を待ちなさいとお命じになりましたが、その言葉どおりに神の霊が弟子たちの上に降り、聖霊に満たされてキリスト教会が誕生しました。今月はキリスト教会の誕生を祝い、7月は大久保教会の60回目の誕生日をお祝いしますので、8日の礼拝にもどうぞご出席ください。

 

さて、メッセージに入る前に、もう一つだけ、とても大切なことを皆さんと分かち合っておきたいと思います。皆さんも各種報道ですでに知っておられると思いますが、先週5月28日に、自然豊かな美しい国スイスにあるブラッテンという人口300人の村に溶けた氷河が崩れ落ち、大量の土石流に飲み込まれてしまうというニュースがありました。写真を用意しましたが、このようなのどかな村が一瞬にして埋もれてしまいました。温暖化によって氷河に関連する大規模な自然災害が世界各地でも相次いでいますが、このブラッテン村では、これだけの甚大な被害があったにも関わらず、驚くべきことに、299人の村民は助かり、行方不明者は1名ということです。何故そのような奇跡のようなことが起こったのでしょうか。

 

その地方の災害対策当局が土石流の危険があると村民全員に呼びかけて、その警告に応じて5月19日までに避難していたからだそうです。村民の命を守る役目のある行政と専門家たちがしっかりとその役目を果たして警告を発し、村民たちもその警告に従ったので、住宅や村全体などを失いましたが、最も大切な村民の命と家畜たちの命は助かったのです。避難した19日から24日までは本当に大きな土石流が発生するのかと懐疑的な部分もあったと思います。しかし、25日に村民は災害対策当局が正しかったと喜び、感謝したでしょう。そして、避難すると判断した自分たちは間違っていなかったと胸を撫で下ろしたことでしょう。

 

スイスからほど遠い日本に住むわたしたちは、この村で起こった驚くべき実例から何を学ぶべきでしょうか。わたしたちクリスチャンは、キリスト教会は、このことから何を学ぶべきでしょうか。学ぶべきことは数多くあると思います。まず地球温暖化の責任はわたしたちにあることを認め、悔い改めて、これ以上の自然破壊が起こらないように努力しなければなりません。政治家と行政は、研究者たちと全面協力をし、防災のために最大限の働きを成し、国民の命の安全のために働かなければなりません。国民は行政などを通して発信される研究者たちからの警告に耳を傾けなければなりません。自然の力を侮ってはいけないのです。

 

わたしたちクリスチャンとすべてのキリスト教会の果たすべき責任とは何でしょうか。それは、わたしたちが生きる地域社会に出て行って、すべての人たちにイエス・キリストという神の言葉を、神様の愛を分かち合うことです。イエス様の言葉には慰めや励ましもたくさんありますが、神様に立ち帰るようにとの招きの言葉、悔い改めに導く言葉、警告のような言葉もたくさんあります。人々に心地よい言葉だけでなく、わたしたちには罪という弱さがあること、神様に立ち帰る必要があるという聞く人々にとって耳障りな言葉も分かち合う必要があります。しかし、それらの言葉の根底には神様の愛があるのです。わたしたちを含め、すべての人が神様の言葉に耳を傾けなければ、取り返しのつかないことがあるのです。神様の言葉、イエス様の言葉の力をわたしたちは決して侮ってはならないのです。

 

自分たちの村、自分たちの生活を後にして避難することは困難であったと思います。苦渋の選択であったと想像いたします。わたしたちも、わたしたちの周りの人々に同様な警告があった時、すべてを捨てて避難する決心をすることは大変難しいと思います。多くの人々は、そのような自然災害や恐ろしいことが起こらないように願いながら、不安を抱えながら日々生きるわけです。しかし、命をも失う危険が着実に迫り来ているのに、本当に避難しなくて良いのでしょうか。それもみんな「自己責任」なのでしょうか。もし各自の自己責任であれば、この人は警告に聞き従ったので助かったけれど、この人は従わなかったので死んでも仕方がないと割り切ってよいのでしょうか。神様はそのように割り切られるのでしょうか。

 

いいえ、神様はわたしたちが一人も滅びないで永遠の命を得るために、独り子イエス・キリストをわたしたちのもとへお遣わしになられました。この愛する御子を救い主として派遣し、わたしたちの罪を、咎をすべてこの御子に負わせて、十字架で贖いの死を迎えさせたのです。そのようなことをする親がいるでしょうか。神様は、わたしたちを造られ、命を与えてくださいました。それは、わたしたちが神様の愛の中で永遠に生きるためです。しかし、わたしたちが無意識の中で犯した間違い、また意識的に犯してきた罪がわたしたちを蝕み、心も身体も罪に飲み込まれ、死の中に埋もれてしまう永遠の闇を経験する危険が生じました。そのわたしたちを神様は憐れんでくださり、イエス様を与えてくださったのです。

 

イザヤ書32章を最初から読んでゆきますと、1節から8節までですが、一人の王が正義をもってその国を統治し、その高官たちが公正をもって国民の命と生活をしっかり守るということが預言されています。これはイエス・キリストが王としてこの地を治め、キリスト・イエスを主と告白し、服従する者たちが忠実に王に仕え、誠実に国民に仕えて働くことが記されています。しかし、同時に、その地には神をも無視し、愚かなことを思い、災いを企む人々が生活に飢え渇いている人たちを苦しめるということも記されています。

 

9節から14節を読みますと、目の前の煌びやかな物に心が魅了され、将来に向けて何も備えをしない人々、その日暮らしの人々の生き様が預言的に記されています。しかし、そのように神様の言葉にいっさい耳を傾けない人々に災難が起こります。自然災害でぶどうの収穫がいっさい無くなり、突然の事態に慌てふためくのです。ぶどう畑は茨などで覆われて収穫できません。町の賑わいは消え去り、丘は野の動物が草を食む所となってしまうのです。神様を畏れず、神の言葉に聞き従わず、自分勝手に生きているので、自分ではどうすることも出来ないほどの問題に直面する時、生きる目的も意味も希望もすべて失ってしまうのです。

 

神様は、預言者イザヤを通して、「わたしに立ち返って静かにしていれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、わたしに信頼すれば、あなたがたは力を得る」と30章15節で悔い改めるように仰せられました。しかし、「あなたがたは、これを望まなかった」と神様は言われます。しかし、憐れみに満ちた神様はわたしたちを愛しておられ、わたしたちが滅びることを望んでおられません。ですから、イエス・キリストという救い主を、王の王をお遣わしになり、神の愛の宣言、十字架の死、復活という救いの業を成してくださったのです。

 

このイエス様が、愛する弟子たちに「父なる神が約束された聖霊があなたがたに降り、その聖霊に満たされる時を待ちなさい」と命じられましたが、まさしくイザヤ書32章にある神様の約束が果たされる時が来たのです。15節と16節に「ついに、我々の上に霊が高い天から注がれる。荒野は園となり、園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。」とあります。イエス・キリストの言葉に聞き従う者たち、弟子たちに神の霊が豊かに注がれます。何のために注がれるのか。聖霊に満たされて、イエス・キリストの福音を告げ知らせ、神様の愛を地の表に生きる人々と分かち合うためです。

 

わたしたちに聖霊が注がれるのは、王の王であるイエス様の僕として主に忠実に仕え、人々に誠実に仕えるためです。聖霊に満たされたわたしたちが神様の愛を分かち合うことで荒れ野に公平が宿り、神様の正義によって荒れ地が園に変えられ、園が神様の平和の中で森となってゆき、その地に生きる人々がぶどうやたくさんの食べ物で祝され、満たされるのです。

 

聖霊が注がれる時に、救いの確信が与えられ、神様とイエス様との信頼関係がさらに強まり、愛の中に生かされている中で心が癒されてゆき、神様にしか与えることができない喜びと感謝の思い、平安が与えられ、生きる力が与えられてゆきます。しかし、神様の愛と赦しを受け取らずに自分の力で幸福を求めて生きて行こうとする人は、今は大きな森、素晴らしい町に生きていても、そこに雹が降り、町は大いに辱めを受けると19節にあります。

 

20節に、「すべての水のほとりに種を蒔き、牛やろばを自由に放つあなたたちは、なんと幸いなことか。」とあります。イザヤ書1章3節を読みますと、「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。」とあり、牛やろばは主人、つまり神様の愛・恩を忘れない動物の代表として記されています。聖霊で満たされると、わたしたちは神様とイエス様に愛されていることを日々体験することができ、心から主に仕えて生きる者とされるのです。わたしたちの力ではなく、これも神様の力、聖霊の力なのです。