「神との和解をもたらす救い主」 十二月第一主日礼拝 宣教 2023年12月3日
ローマの信徒への手紙 5章6〜11節 牧師 河野信一郎
おはようございます。早いもので、2023年も12月に入り、今日から待降節・アドベントが始まりました。今年も、素敵なアドベント・クランツを教会の姉妹が心を込めて作成してくださり、ろうそくに灯りが一つ点りました。今朝の礼拝では、他の姉妹がお花を生けてくださいました。クランツも、生花も本当に素敵です。ありがとうございます。アドベント・クランツについては、わたしが忘れなければ、来週お話しできればと思います。
アドベントとは、ラテン語の「来る」という意味で、イエス・キリストがこの地に来臨した意味を思い巡らしながら、救い主の降誕を祝うクリスマスに備える期間です。アドベントは11月30日にいちばん近い日曜日から始まり、その年のクリスマスが何曜日になるかによって、22日間から28日間になります。今年は今日12月3日から24日までの22日間になります。そのような今年のアドベントの初日の朝を皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる恵みを神様に心から感謝いたします。皆さんも嬉しく思いませんか。
さて、今朝もメッセージに入る前に、二つのことを皆さんと分かち合い、お祈りいただきたいことがあります。一つはとても嬉しいこと、もう一つは祈りの要請です。まず嬉しくて感謝なことからシェアしましょう。2020年1月からコロナ・パンデミックになってから4年間、イースターも、クリスマスも、みんなで祝会を開くことができませんでしたが、今年は24日のクリスマス礼拝の後に祝会を開きます。食事は持ち寄り(potluck party)になりますが、持ち寄ることが難しい方、いっさい心配ありません。教会でも食べ物・飲み物を十分に準備しますので、ぜひ今年のクリスマス礼拝と祝会にご参加ください。祝会の後ですが、午後4時からクリスマスイブ礼拝をおささげします。どんな素敵な一日になるでしょうか。とても感謝で感動的な1日になると信じています。恵みの主に期待します。だいぶ寒くなってきて、風邪を引きやすくなってきていますので、互いの健康が守られて、共に今年のクリスマス、救い主イエス様の御降誕を喜び、祝うことができるように、一緒に祈りましょう。
さて、次は祈りの要請です。皆さんに心を尽くして、わたしと一緒に祈っていただきたいことがあります。どうしても皆さんの祈りが必要なのです。実は、数日前に、わたしにとって心が苦しくなる知らせが牧師仲間からありました。プライバシーがありますので、お名前や詳細をお伝えできませんが、40代の若い牧師が大きな病を得て、これから検査があり、大きな手術が必要ということです。彼は、若いだけでなく、とても賢く、思いやりがあって、誰に対しても誠実で、機敏で、能動的で、私は彼がこれからのバプテスト連盟を引っ張って行く人材だと常々思ってきました。
彼の趣味は、雪かきと献血です。大雪が降ると、隣町の小さな教会に出かけて行って、朝からずっと雪かきをしてあげて、次の日の日曜日の朝に高齢の方々が礼拝に集えるように備えをするような、本当に優しい人です。年齢的にはわたしよりもずっとずっと若いけれども、わたしは彼を心から尊敬しています。心から期待しています。
その彼が、大きな病を得ました。そして検査している段階で、他の病気が見つかりました。今週から入院をして検査を受け、来年早々に手術を受けることになりました。その知らせを聞いて、わたしの心は張り裂けそうになりました。選りに選って、何故彼なんだろうか。神様とイエス様を愛し、教会を愛し、人々のために心から仕える誠実な彼が何故大きな病を得て、わたしのようなチャランポランな人間がピンピンして健康なのだろうか。どうしてですか、神様?と、神様の思いを知りたいと思うほどです。しかし、わたしたちは、それでも愛と憐れみの神、全能なる神様に信頼しなければならない。
わたしにできる唯一のこと、それは彼の癒しのために毎日彼と家族とその教会を覚えて、心を尽くして神様に祈ることだけです。神様が必ず癒しと勝利を与えてくださると信じて救い主イエス・キリストの御名によって祈るだけです。わたしは彼に、「祈り続けます。約束します」と短くメールしました。この祈りに大久保教会の皆さんにも加わっていただきたい。この世には霊的戦いがたくさんあります。時に敗北感を味わい、虚しさを感じる時もあります。しかし、どんな時も主の御心が成るのです。苦しみや悲しみは、主にあって失望に終わりません。どんな時も、主なる神様に信頼しなければ、本当の平安を主イエス様から受け取ることはできません。主に信頼して、主にすべてを委ねて祈り、主の時を待つ、それがわたしたちのアドベントではないでしょうか。主に信頼する者に、主の憐れみが注がれます。皆さんにも祈ることがたくさんあると思いますが、ぜひこの若い牧師と家族と教会のためにお祈りください。
さて、今年のアドベントシーズン、そしてクリスマスに、何をテーマに神様の愛を皆さんと分かち合うべきか、求めている時に「和解」という言葉が心に迫ってきました。今、世界を見渡しても様々な衝突が数え切れないほどあります。民族、国家、宗教グループ、政党でも右派左派・保守とリベラルの衝突があります。亀裂がますます拡大し、修復不可能に見えます。社会的格差もどんどん広がっています。個人的なプライベート部分でも、夫婦間、家族間、職場や近所との付き合いにおいても衝突が繰り返し起こり、価値観の違いがより一層鮮明になってきて、人間関係の修復はもう不可能だ、関係性を切ってしまったほうが賢い選択だと思いがちです。多くの場合、そのような選択・判断は「神様抜き」で行われ、わたしたち人間は愚かな間違いをずっと繰り返すのです。
では、どうして人は愚かな判断と間違いを繰り返すのでしょうか。皆さんの中には、「いや、自分は正しい。絶対的に正しい。相手が完全に間違っているんだ。相手が変わらなければいけないんだ」という思い込みをしている方も、もしかしたらおられるかもしれません。そういうプライドが高くて、愛と思いやりがなくて、傲慢な人たちがぶつかり合うから、憎しみが増し続け、苦しみ、痛み、悲しみが続くのではないでしょうか。平和などファンタシー・おとぎ話だと思い込んでしまうのではないしょうか。
もう一度尋ねます。どうして人は、わたしたちは、何度も、何度も、愚かな判断と間違いを繰り返すのでしょうか。なぜ責め合い、見下し合い、裁き合うのでしょうか。根っこはたった一つです。原因は一つです。神様との平和が無いからです。神様との平和が無いから人々との平和もないのです。自分の心の中にも平安がないのです。いつも周りの人たちの顔色をうかがったりし、自分の価値観と近い人とは仲良くして、正反対の人とは付き合わない、声もかけない、無視するか、攻撃するかのどちらかです。神様抜きに生きるからです。神様を畏れないからです。自分が自分の神になっているから。頼れるのは自分と金だけだから。
「和解」、英語ではreconciliationと言います。この言葉の意味は、平和の回復、英語ではthe restoration of peaceとなります。つまり、神様との平和の回復、隣人・人々との平和の回復、すなわち自分の心の回復が必要であり、それがない限り和解はなく、真の平和はないのです。この平和を得る方法はわたしたちにはありませんでしたが、神様が憐んでくださって、御子イエス・キリストをこの地上にお遣わしくださったのです。それは右でもない、左でもない、保守でもリベラルでもない、神様の道・神様の愛を示す方法なのです。その神様の愛が、今朝わたしたちに与えられているローマ書に記されている御言葉なのです。もう一度、わたしたちの目と耳を、心を御言葉に向けましょう。
「6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
わたしたちは知らなければなりません。心に刻まなければなりません。わたしたちがまだ弱く、罪にあった時、この不信心なわたしたちのために、わたしたちの罪ゆえに、神の御子であるイエス・キリストが十字架に貼り付けにされて死んでくださったこと、その尊い神の命を与えてくださり、わたしを、わたしたち一人一人を救ってくださったことを。
この箇所には、わたしたちが罪人であった時と救われて恵みのうちに生かされている今の状態がコントラストされて記されています。弱かった過去と主にあって強さが与えられている今。不信心な頃と恵みによって信仰が与えられている今。罪人であった生活とイエス様によって義人とされて恵みのうちに生かされている今。神様の怒りの中にあった頃と神様との平和が与えられている今。神様の敵であった頃とイエス様によって和解が与えられている今。滅びに向かっていた頃と永遠の祝福へ向かっている今。
その今が与えられているのは、主イエス様がわたしたちのために死んでくださり、その血潮によってわたしたちを義とされ、神の子としてくださっているからです。神様に一方的に愛され、赦され、恵みへと招かれ、生かされていて、この愛と恵みに感謝と喜びをもって応えて生きてゆくことが信仰に生きることなのです。
「神との和解をもたらす」という主イエス様の御業は、私たちが本来いるべき場所へ戻してくださり、再び神様につなげてくださり、神の子としてその愛の中で生かしてくださる御業なのです。「和解」という主イエス様の御業は、罪によって壊れて失われてしまった秩序をもとの正常な場所に正常な形で戻し、神様との平和を回復させ、その回復の中で自分が自分を取り戻せ、家族や隣人との関係性を回復させるという業なのです。「和解」という主イエス様の御業は、私たちを神様に再びつなげ、神の子としての身分を回復して復帰させるという業です。そのために主イエス・キリストはこの地上に来てくださり、十字架上で贖いの死を遂げ、その命を私たちに与えてくださったのです。
少し話しを変えますが、3節でパウロ先生は「(わたしは)苦難をも誇りにしています」、「苦難をも喜びます」と宣言しています。皆さん、イエス様を信じたら、バラ色の人生が待っている訳ではありません。イエス様を知らない人たちが歩むいばらの人生を同じように歩むのです。山あり谷ありの人生、紆余曲折の人生を歩むのです。イエス様を知らない人たちよりももっと大変な人生です。サタンが常にわたしたちから信仰を、喜びと平安と希望を奪い去ろうと常に誘惑と攻撃をしてくるからです。しかし、イエス様を救い主と信じる者たちの歩みには違いがあります。それは主イエス様がいつも共に歩んで、共に生き、神様へと導いてくださるという約束があるからです。
人生の苦難の大部分はわたしたちの罪によってもたらされますが、しかしその中にも神様のご計画がしっかりあるのです。苦難を通して私たちに忍耐することを教え、私たちを神様の御心に従って生きる者へと造り変えてくださいます。それが「練達」なのです。罪にあるままでは神様のおられる御国へは入れませんので、苦難を通して造り変えられ、練達した者とされて永遠の命を待ち望む希望と確信が与えられ、喜びに満たされてゆくのです。
私たちの生活には望まない苦しみ、避けたい衝突があり、毎日が葛藤の連続です。しかし、苦難の中にあっても、主にあって希望を持ち、主の愛を喜ぶ者として生きるのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストを通して神様との和解が与えられているからです。もし皆さんの中にまだ神様との和解を得ていない、神様と和解したい、自分のこれまでの間違いを神様に謝りたい、自分の罪を赦してほしい、神様の愛と救いが欲しいという強い思いが与えられている人は、心を開いてイエス様を救い主と信じましょう。このイエス様が、わたしたちに罪を認め、悔い改めへと導き、「神様、ごめんなさい」と言える勇気、信仰を与えてくださるのです。信じましょう。喜びましょう。感謝しましょう。祈りましょう。