「神による回復の約束」 十一月第五主日礼拝 宣教 2025年11月30日
エレミヤ書 30章1〜11節 牧師 河野信一郎
おはようございます。教会の皆さん、お帰りなさい。11月の最終日の朝を迎えました。今朝も皆さんとご一緒に神様に礼拝をおささげすることができて感謝です。今朝から今年のアドベント・待降節が始まりました。子どもメッセージの中でも分かち合いましたように、この期間、クリスマスという主イエス様の誕生をお祝いする心の準備を能動的にする信仰、そしてイエス様の再臨を積極的に待ち望む信仰へと導いていただきたいと願います。
さて、9月からシリーズで聴いて来ましたエレミヤ書のメッセージも今回で終了となります。これまでの12回のメッセージを通して、皆さんはどのようなことを神様から聴いてこられたでしょうか。先週はエレミヤ書42章に聴き、神様の言葉を聞いて従う人の祝福と聞いても従わない人には神の裁きがあるという大きな違いを聴きました。
このエレミヤ書は、神様との契約・約束を忘れてしまい、神様の言葉に聞き従わない南ユダ王国の人々、またイスラエル全体に語られた神様の裁きの言葉で満ちています。2章から6章には、南ユダ王国の罪と審判があることが宣言され、12章から20章にはユダの滅びの預言があります。26章から28章にはエルサレムの完全な滅びが預言されていて、読んでいて心が痛みます。また、神の言葉を人々へ忠実に語る預言者エレミヤも投獄されて死に直面する場面や苦悩するという理不尽な場面も多々あります。
さて、今回がシリーズの最終回となる中で、普段であれば、続く43章から最終章の52章の中から希望に溢れたメッセージを語るのだろうと思われてもおかしくないのですが、残念ながら、43章から52章には基本的にバビロンと諸国に対して神様の裁きがあるという預言しか記されてきません。心が締めつけられる内容が続くのです。
しかし、そのような中で、わたしたちにとって励ましとなるのが、51章46節の「お前たちは心挫けてはならない。この地で耳にするうわさを恐れるな。」という「心挫けてはならない」という言葉ではないかと思うのです。わたしたちが生きる今の世の中は様々な噂や憶測で報じられるニュースなどで満ちていますが、わたしたちに必要なのは、真実なる神様だけを信じて、救い主イエス様だけを見上げて、この主に信頼し続けて生きることなのです。
エレミヤ書は、1章から52章まですべてが神様の裁きの言葉ではありません。そのような厳しい言葉の中にも、「わたしに立ち返りなさい」という神様からの励ましであったり、神様の救いの約束が記録されています。新しい王・牧者が神様から与えられて、この人を通して救いが与えられる、長い捕囚の期間を過ごすことになるけれども、エルサレムへ再び戻されるという希望に満ちた言葉、回復の約束の言葉が30章から35章にも記されています。
エレミヤ書の中でも有名な29章11節、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」という言葉もあります。この言葉に慰めや励ましを受ける人も多いのです。しかしながら、平和の希望を神様から頂くためには、続く12節から14節にある「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」という神様の愛の言葉を聞き逃してはならないのです。
さて、シリーズ最終回の箇所として導かれたのが30章です。「慰めの書」と言われている30章から33章の最初の章です。この1節と2節に、「主からエレミヤに臨んだ言葉。『イスラエルの神、主はこう言われる。わたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。』」とあります。「わたしが語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。」と神様はエレミヤにお命じになられますが、巻物に書き記すというのは、その言葉が真実であるからという意味があります。神様が発せられる言葉はいつも正しいということです。それはつまり、ユダに対する神様の御心、ご計画ははっきり定まっているということです。
それは、ユダの人々が置かれている状況がどんなに厳しいものであっても、今日を生かされているわたしたちの現状がどんなに悲惨な、希望を見いだせない状況に置かれていても、神様は生きて働かれるということでもあるのです。それではユダが置かれていた厳しい状況とはどのようなことであったのでしょうか。4節から7節の前半までを読んでゆきましょう。
「次の言葉は、イスラエルとユダについて、主が語られたものである。主はこう言われる。戦慄の声を我々は聞いた。恐怖のみ。平和はない。尋ねて、見よ。男が子を産むことは決してない。どうして、わたしは見るのか。男が皆、子を産む女のように腰に手を当てているのを。だれの顔も土色に変わっている。災いだ、その日は大いなる日 このような日はほかにはない。ヤコブの苦しみの時だ。」とあります。非常に厳しい状況です。「イスラエル」とありますが、これは北王国イスラエルを指していて、この北王国は100年前にアッシリア帝国に敗れて捕囚の民となりました。その後、南ユダにも大きな危険が差し迫っています。
11節まで飛びますが、その後半を読みますと、「わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない。」という神様の言葉があります。南ユダ王国の人々が神様に対して犯した大きな罪は罪として罰すると神様は言われます。「罰せずにおくことは決してない」と神様は言われます。ですから、エルサレム陥落と神殿の破壊、70年間のバビロニア捕囚があるのです。神様は愛の神であられますが、罪を嫌う義なる神様でもありますので、わたしたちの罪をそのまま放置されません。悔い改めない者は神様の裁きがあるのです。神様の言葉を聞いて神様に立ち返る人は救われますが、立ち返らない人は罪に滅びるのです。
けれども、義なる神様は愛なる神様です。3節に戻ります。「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。」という救いの約束、繁栄の回復が与えられるという約束を神様は与えてくださるのです。
7節後半にも、「しかし、ヤコブはここから救い出される。」とあります。「ヤコブ」というのは、先に滅びた北のイスラエルとこれから裁かれる南ユダが再び一つの国とされてゆくという神様の壮大なご計画があるという意味合いでそのように呼ばれています。続く8節には、「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブを奴隷にすることはない。」とあります。
主なる神様は、どのようなご計画でイスラエルを再建されよう、再復興させようとしておられるのでしょうか。9節に、「彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデとに仕えるようになる。」とあります。神様には新しい王を立てるという計画があることが分かりますが、その新しい王とは油注がれた者イエス・キリストです。この救い主がわたしたちの王となるべくこの地上に神様から派遣されました。イスラエルも、そしてわたしたちも、この救い主を信じて従い続けるように招かれているのです。
10節から11節に、「わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと主は言われる。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。わたしがお前と共にいて救うと主は言われる。お前が散らされていた国々をわたしは滅ぼし尽くす。しかし、お前を滅ぼし尽くすことはない。わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない。」とあります。
ユダの人々が置かれている状況がどんなに厳しいものであっても、今日を生かされているわたしたちの現状がどんなに苦悩に満ちた日々であっても、希望を見いだせない状況に置かれていても、神様が「恐れるな。おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から救い出す。」と励まし、約束してくださり、その約束をイエス様によって果たしてくださるのです。
確かに続く12節以降を読みますと厳しい懲らしめを受けることがありますが、17節から神様の救いの約束があります。22節にこう約束されています、「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」と。この愛の神様がイエス様を通して、わたしたちを神の子、神の民として招いてくださり、愛と喜び、平安と希望を与えてくださるのです。イエス様の十字架の死と復活を通して罪の赦しと救いを与えてくださるのです。神様が約束してくださった救い主イエス様が今朝もわたしたちといつも共におられます。
