神に知られている者

「神に知られている者」 8月第四主日礼拝   宣教 2020年8月23日

 ガラテヤの信徒への手紙 4章8〜20節    牧師 河野信一郎

おはようございます。8月も第四の主日を迎えました。今朝、この礼拝堂で、またインターネットを通してオンラインで、ご一緒に礼拝をおささげできる幸いを、その幸いを与えてくださる神様に心から感謝し、その御名を心から誉め称えます。

今日は、この朝の主日礼拝と夕方5時からの夕礼拝がささげられます。本当に感謝です。今夕は、裵讃植宣教師がサムエル記上からメッセージを語ってくださいますので、どうぞご出席かオンラインで参加ください。ご参加できない場合は、ぜひお祈りに覚えていただき、主のご臨在と祝福がそこにあるようにお祈りいただきたいと思います。

昨日、日本バプテスト連盟から発送物が届きましたが、その中に「礼拝さいこう」という宣教部・教会音楽室からのニュースレターが入っていました。このニュースレターは、連盟ホームページからもお読みいただけますので、アクセスしてお読み頂ければと思いますが、今回の特集は「新型コロナウイルスに直面した諸教会は、どのように対応し、どのように礼拝を取り扱ったのか」という非常に興味深いテーマになっていて、北は札幌、南は長崎までの8教会が「礼拝」ということに関してどのような対応と取り組みをしたのかという経験が「事例」として紹介されています。どの教会の対応が良くて、どれが悪かったのか、ということでは決してありません。それぞれの教会が、その役員会・執事会、牧師たちが神様に祈り、主の導きを仰ぎ、それぞれ礼拝者の健康と命を優先的に考え、判断したことの紹介です。5部コピーいたしましたので、お持ち帰りになってお読みいただき、次回お戻しくださればと思います。先ほどお伝えしましたように、連盟ホームページでもお読みいただけますので、オンラインで礼拝をおささげくださっている方々は、そちらを検索していただき、お読み頂ければと思います。

一昨日、わたしはアメリカのニュースでツウィンデミック(Twindemic)という言葉を初めて聞きました。ツウィンとは双子の意味ですが、今年の冬はコロナウイルスとインフルエンザウイルスの二つの感染・パンデミックを経験する可能性が非常に高い、だから9月頃にはインフルエンザの予防接種をした方が良いということでした。これから冬にかけてツウィンデミックを経験するかもしれないという心づもりで、手洗い、うがい、マスク、ソーシャルディスタンスを心がけて、拡大しないようにみんなで一緒に祈りつつ、感染予防に取り組んでゆきたいと思います。

さて、今朝も神様のみ言葉に信仰の耳を傾けて聴いてゆきたいと思いますが、いま大久保教会がシリーズで読み進めていますのは、ガラテヤの信徒への手紙です。今日は4章8節から読み進めてゆきますが、1章から4章7節までの学びをたった1節で要約しなければならないという場合、3章26節が最もふさわしいかと思います。このように記されています。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」 何度も強調しますが、「あなたがたは『皆』」という言葉が重要です。イエス・キリストを救い主と信じるすべての人は「もれなく神の子です」という祝福の宣言です。またここに「信仰により」とあります。わたしたちに「信仰」を与えてくださるのは他でもない神様であり、主イエス様です。つまり、ガラテヤのクリスチャンたちは、そして今日を生かされているわたしたちは皆、神様に愛されている存在であり、イエス様に堅く結ばれている存在であり、イエス様に結ばれている者はもれなく、すべて神の子なのですと力強く宣言されている訳です。わたしたちは、イエス様を救い主と信じる信仰へと、この恵みへと今朝も招かれているのです。この恵みを喜び、感謝し、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして礼拝をおささげして参りましょう。神様を礼拝し、主イエス様を喜ぶことは、わたしたちの生きる力なのです。

さて、今朝は4章8節から20節を通して、「神に知られている者」という主題で宣教をさせていただきますが、この箇所は8節から11節、そして12節から20節と二つに区分することができ、「神に知られている者」という宣教主題は9節からとったものです。ご一緒に8節から読み進めて参りましょう。

「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました」とあります。異邦の国のガラテヤという地方に生きる人たちは、使徒パウロたちからイエス・キリストの福音を聞き、イエス様を救い主と信じた異邦人クリスチャンたちです。この人たちに対して、「あなたがたはかつて、本当の神の存在を知らないまま、神ではないその土地の神々に奴隷のように仕えていました」とパウロ先生は云うわけです。

皆さんの中に、あなたを造り、あなたを愛しておられる神様を知らないまま、神ではないお金や社会的地位や名声、楽しいこと、自分の心を和ます物質的なものに心奪われて、そう云うものに奴隷のように仕えている方はおられないでしょうか。生きてゆくだけで精一杯という方もおられると思います。信じるものなんて何もないと感じておられる方もおられるかもしれません。しかし聖書には、あなたを、わたしたちを造り、愛し、わたしたちが神様の許へ立ち返ることをひたすら待っていてくださる神様がおられ、わたしたちを罪の奴隷という身分から解放し、神の子として再び神様につなげてくださる為にその命を捨ててくださった救い主イエス・キリストがおられると記されています。

「あなたがたはかつて本当の神、生きた神、愛の神を知らなかった」。しかし、9節ですが、わたしたちのもとに神様から遣わされたイエス様によって、「今は神を知っている」とパウロ先生は言い、「いや、あなたがたは、むしろ神から知られているのだ」とパウロ先生は言うのです。人類史上、この世界の中で、神様に知られていない人は誰一人もいません。みんな、神様に知られています。何故ならば、神様がわたしたち一人一人をお造りになられ、命を与えてくださったからです。しかし一番の問題は、その事実を多くの人たちは知らないと言うことです。神様に造られ、愛され、知られている存在であることを知らないで、先ほど申しましたありとあらゆる目の前に輝く麗しいものに心が奪われ、神様に心を閉じてしまっていると言う、これは確かに悲劇です。しかし、もっと大きな悲劇があります。それは、イエス様を通して本当の神様を知ったのに、いや神様に知られているのに、その神様からまた離れて自分の力によって生きようとすることです。

「あなたがたは神様に知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とパウロ先生はいいますが、この「奴隷」というのは以前の異邦人の神々の奴隷ではなく、今回はユダヤ教のモーセの律法を守って生きる奴隷という意味です。10節に「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」というのは、異邦人がユダヤ教の暦までも取り入れ、ユダヤ教の祭りを祝うということで、ユダヤ教の習慣にもがんじがらめになるということです。

主イエス様を信じることによってイエス様につながり、奴隷のような思いから解放され、心が自由にされたのに、どうしてまた心が奴隷のようになる生活に逆戻りしようとするのですか、どうして神様の愛、憐れみ、恵みを無駄にするのですか。あなたがたのこれからの歩みが本当に心配です。その心配は「恐れ」と同じぐらいですとパウロ先生は訴えるのです。

なぜパウロ先生はそこまでガラテヤのクリスチャンたちのことを心配するのでしょうか。それは、彼ら彼女らを自分の子どものように深く強く、時には激しく、心から愛していたからです。パウロ先生は19節でガラテヤのクリスチャンたちを「わたしの子供たち」と呼んでいます。心が張り裂けそうになるぐらいに彼らを大事に思っていたのは、彼らがイエス・キリストを信じる信仰によって神様の子とされているからだけでなく、彼らを我が子として愛していたからです。

そのように彼らを愛するようになった経過や理由は13節から15節に記されていますが、路頭に迷う危険にある我が子を放っておく親がいるでしょうか。光から闇へ、喜びから苦しみへ、安らぎから苦労へ自分からわざわざ飛び込んでゆく子どもを力づくで止めない親がいるでしょうか。子どもの幸せを願い、その幸せを助けるために生きることが親の責任であり、使命です。子ども幸せのためなら、親は苦労をいといません。

しかし、子どもたちの心が自分たちからどんどん離れていくことは大きな悲しみです。ましてや、イエス様から離れ、神様の祝福から離れようとしていた子どもたちのことを聞くことはパウロ先生にとって大きな苦しみでした。パウロ先生は、あなたがたがイエス様につながり続け、「キリストがあなたがたの内に形作られるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と19節で言っています。苦しみをいとわない、と。

神様は、わたしたちを罪から、永遠の死の苦しみから救うために、わたしたちを神様に再びつなげ、神の子として祝福するために、御子イエス様を十字架に架けられたのです。この神様の犠牲、イエス様が与えてくださった命によってわたしたちは新しい命が与えられ、その命は永遠に続きます。

パウロ先生は、12節で、ガラテヤの兄弟姉妹たちに一つのお願いをします。「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟姉妹たち、お願いします」と。これは、「ユダヤ人であるわたしがモーセの律法を捨てて、イエス様のみを信じる信仰に生きる決心をしたように、あなたがたもモーセの律法を守ろうと自分の努力、力に頼らないで、自分の力で救いを得ようとしないで、ただイエス様を救い主と信じてください。神様の憐れみだけをそのまま受けてください」という願いです。「わたしは自分の力だけで生きることを止めました。あなたがたもわたしのように、神様の愛、憐れみにより頼んで生きてください」という願いです。「わたしは罪人です。そして救い主イエス様が必要です」と認め、信じていますから、あなたがたもそのように自分の弱さ、罪を認め、イエス様だけを求めてください。救い主と信じて、従い続けてください」という願いです。

わたしたちに必要なのは、イエス・キリストを通して神様を知ることです。イエス様を通して、わたしたちが神様から知られている存在であることを知り、信じることです。わたしたちを造り、愛し、生かしてくださる神様に感謝し、恵みを喜び、主の平安の中に生かされてゆきましょう。

そして、なぜ神様はわたしたちを造り、イエス様によって罪から救い、今生かしてくださっているのかということをみ言葉から共に聴いてゆきましょう。聖書にその答えが、記されています。ご一緒に、神様のみ言葉を読み進め、み言葉に聞き従ってまいりましょう。