「神のもとへ行く道を備えてくださるイエス」 二月第四主日礼拝 宣教 2026年2月22日
ヨハネによる福音書 14章1〜14節 牧師 河野信一郎
おはようございます。ゲストの皆さん、大久保教会へようこそ。オンラインで礼拝をささげておられる方々、礼拝堂におられる皆さん、教会へお帰りなさい。2月最後の主日の朝も、この礼拝堂に共に集められ、礼拝者とされている幸いを神様に感謝いたします。
メッセージに入る前に短く3月の教会プログラムを案内させてください。来週1日の礼拝後に主の晩餐式が執り行われます。8日の礼拝は「3.11を覚える礼拝」としてささげ、東日本大震災から15年目を迎える被災地に仕える3つの教会を覚えて祈ります。支援献金のご準備をよろしくお願いいたします。15日の礼拝では、NS宣教師がメッセージをしてくださいます。22日の主日の午後には、防災フェスタがY教会で催されます。29日は教会定期総会が開かれます。一つ一つを覚えてお祈りくださり、出席ください。
さて、一昨日と昨日、我が家ではとても面白いことがありました。我が家には心優しい娘が神様から二人与えられていますが、そのうちの一人が、一昨日、わたしの好物のたい焼きをお店に1時間も並んで買ってきてくれました。しかし、彼女は帰宅してからあることを思い出しました。さて、次の日の夜、もう一人の娘が、これまたわたしが大好きなドーナッツを家族のために買って来てくれたのですが、家に入って来るや否や、「お父さん、ごめん〜。ドーナッツ買った後に気が付いた〜」と言って、わたしに謝ってくるのです。
彼女たちは、18日から受難節・レントに入ったことをすっかり忘れており、たい焼きとドーナッツを購入した後に、レントの期間、わたしが甘い物を口にしない事を思い出したのです。謝る娘をなだめながら、わたしは娘たちの優しさを神様に感謝しました。もう一人、優しい息子がいますが、彼はわたしの事を思って隠れて甘い物を食べているようです。しかし、それはそれで良いのです。父は父、息子は息子です。すべては神様からの恵みです。
皆さんに誤解していただきたくないのは、受難節・レントは、苦しみながら、自分を痛めつけながら過ごす40日間ではありません。目まぐるしい日々の中、生活のスピードを落として、一時停止ボタンを一日に何度か押して静まって、主に心を向けて御言葉に聴き、最重要なことに集中する期間がレントです。わたしたちに最重要なこと、それは神様がそのひとり子をわたしたちにくださる程にわたしたちを愛してくださり、わたしたちを人生の悩みや痛みや悲しみの源である罪から救い出すためにイエス様が十字架に架かって贖いの死を遂げてくださり、新しい命・永遠の命に生きる道を備えてくださったことを覚えることです。
レントの過ごし方は、わたしのように甘い物を食べないとか、断食するとか、映画を見ないとか、SNSをしないとか、色々ありますが、それらの目的は自分を懲らしめることではなく、わたしたちの身代わりとして十字架への道を歩まれたイエス様に集中することです。もしイエス様が十字架の道を歩まれずに死ぬことも、甦ることもなかったら、自分はどう生きているだろうかと立ち止まって考えてみる期間がレントです。イエス様の十字架の死と復活がなければ、世界は今とはまったく違った世界になっていたことでしょう。
さて、この2月は、「神の備え」というテーマで、創世記22章、詩編84編、マタイ福音書6章からメッセージをして参りましたが、今朝はヨハネによる福音書14章から、「神のもとへ行く道を備えてくださるのは、救い主イエス・キリストである」ということと、イエス様ご自身が神様へと続く道であり、真理であり、命であることを共に聴いて、それを信じて、主に従う者とされてゆきたいと願っています。イエス様が、わたしたちに最も必要なものを与えてくださる究極の供給者、プロバイダーであることをご一緒に聴いて参りましょう。
このヨハネ福音書14章は、1節の「心を騒がせるな」という弟子たちに対するイエス様の言葉で始まり、27節にも同じイエス様の言葉があり、この章はこの「心を騒がせるな」という言葉でサンドウィッチされた形になっています。
わたしたちにも心を騒がせることが日々の生活の中でも色々ありますが、その中の一つに愛する者との別れ、離別という苦しみへの不安・悲しみがあります。イエス様が弟子たちに「心を騒がせるな」とおっしゃられた理由は、ご自分がこれから十字架につけられて死に、弟子たちがしばらく失意のどん底を歩まなければならないと知っておられたからです。イエス様は、彼らの信仰がなくならないように励ましたかったので、「神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい」と言われます。
皆さんの中に、人間関係の難しさに悩んだり、仕事のことでストレスを感じたり、健康や経済的な不安があったりして、深い霧の中に置かれているような状態で、心が騒いでいるかもしれません。ほとんどの人が心のうちに悩み苦しみ、思い煩い、恐れを持っていると思います。しかし、そのようなわたしたちに対して、イエス様は、「心を騒がせるな。一人で苦しまないで、神を信じ、わたしを信じなさい」と励まし、主に信頼するよう招かれます。
主イエス様は、弟子たちに対して、「わたしはこれから十字架に架けられて死に、あなたがたと別れなければならないが、この別れにも理由、目的、意味があるのだ。あなたがたが地上での人生を終えた後に、永遠にわたしと共にいる場所を準備するために父なる神のもとに帰るのだ。用意ができたら必ず戻ってくるから、それまで神とわたしを信じて待っていなさい。必ず、あなたがたを迎えにくる」と約束されるのです。
イエス様は、4節で、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」とおっしゃいますが、弟子たちは主の言葉を理解することはできません。ですから、トマスが弟子たちを代表して「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と尋ねます。トマスたちは、ここで自分たちの理解力の乏しさを認めています。わたしたちにも分からないことが多々ありますが、分からないことは分からないと正直に言える素直さと謙虚さを持つことが大切だと教えられます。
そのような弟子たちの弱さをとがめることもなく、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とおっしゃり、「わたしがあなたがたを助け導くから、心を騒がせずに、わたしを信じて、わたしに従いなさい。」と励ましてくださるのです。
イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃいます。神様から遣わされたイエス様は、神の御もとからこの地上に来られた唯一のお方であって、地上に来た道も、神のもとへ行く道もイエス様しか知らないのです。ですから、神の御もとへ行き、永遠の命と祝福を受けたいと心から願うならば、イエス・キリストという「道」を歩んでゆくしか他に道はないのです。
イエス・キリストという「真理」が、神の御心をわたしたちに教え、この地上での人生をどのように歩むべきか、どのように生きるべきかをつぶさに教えてくださいます。この真理に導かれて歩む道の終着点が神様のおられる場所、永遠の「命」が授けられる場所です。ですから、神様のもとへ導く道であり、真理であり、命であるイエス様を信じて、主の道を歩んでゆくように、今朝わたしたちは主の愛と憐れみの中で招かれ、励まされているのです。
イエス様は、7節で「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言われますが、この言葉にすぐに反応したのはフィリポです。彼は「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足です」と言って、「神をこの目で見せて下さい」と願います。
それに対してイエス様は9節で「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言われ、10節で「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父なる神が、その業を行っておられるのである。」と言われ、11節で「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うことを信じなさい」と弟子たちを励まします。神様とイエス様のご意志と業が常に一致していること、その一体性を教えています。
さて、12節から30節までで、イエス様は弟子たちに対して3つの約束をしていますが、その最大の約束は、15節以降に記されている主イエス様の代わりとして、真理の霊・聖霊が与えられるというものです。そして、もう2つの約束が12節と13節に記されています。
12節に、あなたがたに「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとに行くからである。」という主の約束の言葉があります。これはイエス様のように病を癒したり、悪霊を追い出すような奇蹟を行うという意味ではなく、イスラエルから全世界へ出て行って、神の愛とキリストの福音を宣べ伝え、主イエスを救い主と信じる者にバプテスマを授け、イエス様につながる人々を弟子として訓練し、キリストのからだなる教会を建て上げてゆくという働きです。
そのために聖霊が弟子たちに、そしてわたしたちに降り、この聖霊から導きと仕える力を日々注がれるのです。そしてこの聖霊によって、わたしたちはイエス様の命令である福音宣教の業に臨むことができ、語るべき言葉がその都度与えられるのです。
もう一つの約束は、13節と14節にある、「主イエスの名によって願うことは何でも主イエスが叶えてくださる」という約束です。わたしたちは、主イエスの御名によって神様に祈り求めれば、神がその願いを叶えて下さると思い込んでいますが、ここではイエス様が叶えてくださると主は言っておられます。
これは、先ほどの「神を信じ、主イエスを信じなさい」ということと同じで、神様と主イエス様は一つなので、どちらに対して祈っても願いが叶えられるということです。ですから、心を騒がせている暇があれば、絶えず祈りなさいという祈りへの招きがここにあり、祈りに祝福が伴うと約束されているのです。しかし、注意すべきことは、どんな願いでも叶えられるということではなく、「主イエスの御名によって」とあるように、主イエスの御心に従って願い求める祈りを主は叶えてくださるということです。
わたしたちの日常生活は、心を騒がすこと、悩みが多い日々です。しかし、神を信じ、イエス・キリストを信じ、主の御心を求めて祈ってゆく時、主はわたしたちの想像を遥かに超えた力をもって祈りに答えてくださり、主が生きておられることを証明されます。祈る時、心に主の愛が豊かに注がれ、豊な平安で満たされます。ですから、大いなる愛の神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じて従いましょう。そこに平安の源があるからです。
