「神の助けによって事を成す」 十月第一主日礼拝宣教 2021年10月3日
ネヘミヤ記 6章15〜16節、7章1〜3節 牧師 河野信一郎
おはようございます。礼拝堂にお集まりの皆さん、お帰りなさい。皆さんのお帰りを心待ちにしていました。緊急事態宣言が解除された直後の日曜日、10月最初の主の日に、礼拝堂に再び集って礼拝をささげることができるようになりました。神様の憐れみと助けによって、わたしたちが礼拝者として今朝この教会に戻された事を主なる神様に心から感謝いたします。
カメラの向こう側におられる皆さんも、おはようございます。出席くださって、本当に嬉しいです。礼拝堂に戻ることがまだ許されない皆さんのこと、わたしたちは忘れていません。皆さんは決して独りではありません。恵みの主がいつも共におられます。今朝もインターネットを通して皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸い、恵みを主に感謝いたします。
10月に入り、教会の年度が後半に入りました。3ヶ月後にはクリスマス、その数週間後には新しい年2022年を迎えます。コロナウイルス感染拡大が始まってから20ヶ月、感染拡大防止のために、教会学校、祈祷会、各会を休会とし、毎週楽しみにしていた昼食と交わりを持つことができなくなりました。礼拝もオンラインにするために時間を短縮し、そのためにずっと続けてきた子どもメッセージも休止しています。また特に新しい方々、聖書に興味のある方、イエス様を求めておられる方々を教会へ招くことも、また出かけて行くことも、コロナパンデミックの感染拡大を防ぐという名のもとに休止する事を選び取りました。それを「不信仰」と呼ばれるならば、その批判を甘んじて受ける覚悟はあります。しかし、私は過ぎ去った過去に生き続けるつもりはなく、前を向いて教会形成と福音宣教の業を担ってゆく心づもりです。主なる神様がわたしたちを憐れんでくださり、助けてくださると信じています。
緊急事態宣言が解除されたからと云って、コロナ感染が完全に収束したわけではなく、ワクチン接種を2回済ませたからと云ってもブレイクスルー感染が起こり、そこから感染クラスターが起こっているのが現実であり、自分は無感症のままで誰かを感染させてしまうリスクはずっとあるわけで、「もう大丈夫」という気の緩みは、次の感染拡大を引き起こすと思います。ですから、大久保教会ではこの20ヶ月頑張ってきた事を神様の助けを受けて継続してゆきます。ですので、この教会を大切に思ってくださる方は、感染予防対策にご協力ください。
私を含め、多くの人がコロナで疲れ、心が弱っています。マスクしていない人、マスクしていても鼻を出している人、アルコール片手に道端で飲んだり話したりしている人を見ると、ムッときたり、簡単にその人たちを裁いてしまいます。怒りが心に生じます。精神的に疲れが溜まってしまい、心に余裕がないのだと感じます。しかし、そのようなわたしたちのすぐそばに主イエス様がいてくださり、わたしたちのために執り成しの祈りをしてくださっています。ご聖霊がわたしたちと共にいてくださいます。教会の家族が与えられています。ですから、教会に帰ることはわたしたちにとってとても大切なこと、必要なことであるわけです。
さて、20ヶ月も続くコロナパンデミックの中で、牧師の心が疲れてしまっていたら、どのような症状が起こるのか、笑い話を一つしたいと思います。30日に緊急事態宣言が解除される日、わたしは街の様子を見ることと街のために祈ろうと思って散歩(プレヤーウォーキング)に出かけました。新宿の駅の方に出かけて行って、けっこう歩いたので、さあ帰ろうと思ったのですが、帰り道で男性がプラカードを持って道端に立っているのが目に入り、彼が手にしているプラカードを何気なくさらっと見たら、なんと「ぼくしの達人」って書いてあって、「えっ、牧師の達人!、そんな人いるの?」と心の中で叫び、一瞬興奮しました。
わたしも大久保教会の牧師として招聘されてから今年で22年になりますが、長すぎますねぇ、ずっと失敗ばかり繰り返して、もっとしっかりした愛と忍耐のある寛容な牧師になりたい、もっと知恵と勇気と自信を持って神様と教会と人々に仕える牧師になりたいという変なコンプレックスと強烈な願望が入り乱れた心なので、「牧師の達人になれるものならなりたい!」と一瞬本気で思いました。しかし、目をこらしてもう一度そのプラカードを見直しましたら、「ぼくしの達人」でなはなく、「ほぐしの達人」って書いてありました。マッサージ店の呼び込みでした。おかしいでしょ! 皆さんの間抜けな牧師をどうぞ笑い飛ばしてください。
「ぼくしの達人」と「ほぐしの達人」、濁点が「ほ」にあるのか、「く」にあるのかでは全く違う意味になります。わたしたちの心にストレスや疲れが溜まっていたら、そういう勘違いを一瞬でもしてしまう。一瞬の思い込み、一瞬の勘違い、一瞬の誘惑、一瞬の判断ミス、一瞬の怒りが、取り返しのつかない大きな失敗を犯す痛い引き金になりうる、そういう危険性が心の疲れているわたしたちにはあるわけで、注意しなければ、罪を犯すことになります。
ですから、常に神様に助けを求めながら歩むのです。いつも聖書のみ言葉を口ずさみながら、いつも神様に祈りながら、いつも主イエスを見上げながら、賛美しながら生きるのです。そのように生きられるように、「主よ、どうかわたしを助けてください!」と神様に憐れみと助けを求めるのです。神様のみ言葉、イエス様のお言葉、互いのために祈り合うわたしたちの祈りの言葉、主への賛美が、わたしたちの疲れ果てて固くなった心を「ほぐして」くださるのです。神様、主イエス様、ご聖霊が、真の「ほぐしの達人」なのです。
神様は、強い力でわたしたちの心の凝りをほぐすでしょうか。愛をもって優しくほぐしてくださるのではないでしょうか。この20ヶ月間、わたしたちの心を慰め、平安を与えてくださった神様は、わたしたちが元気を取り戻すために、せかさずに、ゆっくりと励ましと希望をわたしたちの心に語りかけてくださり、徐々にほぐしてくださるのではないでしょうか。主なる神様は、朝ごとに、夕ごとに、日毎に、週毎に、み言葉を語ってくださいます。ですから、疲れて凝り固まった心で神様からの愛の招きを拒まないで、神様に助けを求め、委ねてください。神様のもとに帰ること、日曜日の礼拝に出席することを大切にしてください。
8月から聴いていますネヘミヤ記から、わたしたちはたくさんの励ましと示唆を受けています。皆さんは、ネヘミヤ記からどのようなことを聴かれ、学び、心に蓄えておられるでしょうか。コロナパンデミックが少しずつ収束へと向かい始めている中で、教会に戻ることができるような兆しが見えてくる中で、教会を復興するために必要な知恵と勇気を受けています。
なぜ教会に戻るのか。なぜ教会を復興する必要があるのか。なぜ道具を持って、賜物を持ちよって働かなければならないのか。どこから手をつけるべきなのか。優先順位を明確にすることがなぜ重要なのか。心一つに頑張って取り組もうとしているのに、なぜ外部から絶え間なく攻撃があり、また内部からも問題や課題が次から次へと出てくるのか。なぜ常に祈らなければならないのか。ネヘミヤ記から色々と神様の語りかけを聴き、学んできましたが、皆さんの心には何が神様の語りかけ、恵みとして残っているでしょうか。
神様に対して大きな罪を犯したイスラエルの民が戦いに負けてバビロニアへ捕囚の民として連れてゆかれ、半世紀後に滅ぼし尽くされた無残なエルサレムへ戻され、ゼルバベルと帰還した第一陣が神殿再建に着手し、その60年後にエズラと帰還した第二陣が律法のもとでイスラエルの共同体再建に取り組み、そしてネヘミヤと第三陣が城壁を再建してゆく。そのプロセスの中で、様々な困難を乗り越えてゆかなければならなかった。わたしたちの多くは、そこに本当に意味があるのかと問い、やっても無駄ではないかと考えてしまいます。
しかし、わたしたちに意味が分からなくても、神様には御心とご計画がある。それは、イスラエルの罪のために甚だしく破れてしまった神様とイスラエルの関係性を修復するということでした。神様との関係性が修復され、神様から祝福されない限り、わたしたち人間の間の関係性というものに平和はありません。戦いばかり、傷つくばかり、悩みや苦しみばかりで、決して祝福されません。その理由は、わたしたちが罪という弱さの中に生き、罪を犯し続け、間違いを犯し続けるからです。わたしたちの心がそのような荒地のままで良いのでしょうか。わたしたちを造られ、愛し、生かしてくださっている神様はそれを良しとされません。
ですから、その罪、弱さからわたしたちを救い出し、神様との関係性を修復するために、神様はイエス・キリストをこの地上に救い主として送り、イエス様はわたしたちの罪をすべて負いつつ十字架に架けられ、罪に対して死んでくださり、そのイエス様を神様は死の中から引き上げ、わたしたちの救い主としてくださった。このイエス様によって神様とわたしたちの関係性は修復され、すべての垣根が取り去られ、祝福を受け、礼拝者とされ、祝福を分かち合う者とされる。神様が救いの業を始めてくださり、救いを完成してくださるのです。
教会を修復する、復興する意味、目的は、まず神様を礼拝すること、そしてみ言葉によって押し出され、神様の愛、イエス・キリストを人々と分かち合うため。この二つの目的のために教会があり、その教会へわたしたちは招かれている。礼拝だけではない、神様を愛するだけではない、自分が祝福されるためだけではなく、神様の愛を必要としている人たちに出会って行って、イエス様を分かち合うため、神様と隣人に仕えるために大久保教会はあります。
今朝はネヘミヤ記6章15節から16節、7章1節から3節に聴きます。15節に「城壁は52日かかって、エルルの月の25日に完成した」とあります。たった52日間でエルサレムの城壁の修復工事を終えます。「エルルの月の25日」とは今から2466年前の9月中旬とされています。ある聖書学者は、10月2日と計算します。つまり2466年前の昨日ということになります。
16節になんと記されているでしょうか。「わたしたちのすべての敵が、ずっと妨害してきた敵が、それを聞くに及んで、わたしたちの周囲にいる諸国の民も皆、恐れを抱き、自らの目に大いに面目を失った」とあります。ずっとずっとネヘミヤとイスラエルの民に恐れを抱かせようと脅迫していた敵がみんな「恐れを抱いた」とあります。「大いに面目を失った」、恥をかいたとあります。信仰のチャレンジは内外からあることを聞いてきました。今日は触れませんが、6章17節から19節には民の中に敵への内通者がいたとあります。しかし、それらの攻撃に打ち勝つ方法は、神様の言葉に聞き従い、委ねられている働きに集中し、神様の御心に生き続けるということだということをこの箇所は教えてくれます。
わたしたちも日々戦いがあります。内側からも、外側からも様々なチャレンジがあり、耐えられなく思うことがあり、諦めかけそうになることがあります。しかし、わたしたちが勝利するためには、あなたが、わたしが祝福されるためには、神様の言葉、主イエス・キリストに聞き従い、神様を愛することと隣人を愛することに集中することです。それが神様の御心です。そのために神様はわたしたちを励まし、助けることを惜しまれません。16節の後半に、「わたしたちの神の助けによってこの工事がなされたのだということを悟った」とあります。わたしたちに必要なのは、何をするにでも助けを神様に祈り求め、助けが必ず主からあると信じ、勇気を持って前進することです。神様に信頼する者を神様は必ず助けてくださいます。
7章1節に、「城壁が築かれたので、わたしは扉を取り付けさせた。そして、門衛と詠唱者とレビ人を任務につけた」とのネヘミヤの言葉があります。扉が付けられ城壁が完成してネヘミヤが最初にしたことは、第一に門衛を、第二に詠唱者とレビ人を任命したことです。イスラエルの民・共同体を守るために門衛が備え付けられ、神殿で神様に礼拝をささげるために賛美者と祭司が備えられます。神様から与えられている信仰を守り、そして神様を礼拝する、賛美することがわたしたちの責任であり、神様が喜ばれることです。
2節を読みますとネヘミヤはエルサレムの行政をハナニとハナンヤという人物に託します。彼らを選んだ基準はなんであったのか。彼らは「誠実で、だれよりも神を畏れる人物だった」とあります。神様がわたしたちに望んでいるのは、誠実に生きるということ、神様を畏れて生きること。つまり神様には忠実に、人々には誠実に生きるということです。神様から常に助けを受けて、わたしたちそれぞれに委ねられている働きを担ってゆきましょう。