「神の喜ばれる実を結び続ける」 9月第五主日礼拝 宣教 2018年9月30日
ローマの信徒への手紙7章1節〜6節 牧師 河野信一郎
私たちは4月からローマの信徒への手紙を読み進めていますが、3週間前の前回は6章15〜23節から宣教をさせていただきました。
6章は、1節から14節までのテーマは、イエス・キリストを信じ、神様の恵みに生かされている者は皆、「罪と死から解放され、自由が与えられている」ということがテーマですが、15節から23節は「奴隷の身分から解放され、自由が与えられている」ということがテーマとなっています。パウロ先生がこの6章の中で最も主張したいことは、「罪と死から、奴隷の身分から解放された者は、その恵みに応え、神様に従順に生きなさい」と言うことです。また、「罪の奴隷であった時は、罪に従順に生きたように、神様の僕とされた今は、神様に、主イエス様に従順に従い、自分を献げなさい」と言う励ましです。
21節で、あなたがたは「罪の奴隷であった頃、どんな実りがありましたか。今から振り返ればとっても恥ずかしいこと、虚しいものを結んでいませんでしたか。その行き着く所は死に他ならない(のです)」と言っています。
そして、22節では「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷、僕となり、聖なる生活の実を結んでいます」と言い、引き続き、その聖なる実を結び続けなさいと励まし、その生活の「行き着く所は永遠の命です」と励ましてくれます。
「罪の報酬は死です」とパウロ先生は言っています。聖書の中でもとても有名でインパクトのある言葉です。しかし、主イエス・キリストを通して神様に救われ、神様から永遠の命を賜物として受けることが私たちに確約されていますとパウロ先生は私たちを励まします。
私たちに大切なのはそんなに多くはありません。神様の僕として神様には忠実に、隣人には誠実に、自分には信実に生き、神様の喜ばれる実を可能な限りたくさん結んでゆくことです。
さて、今朝から7章に入ってゆきます。今朝は1節から6節を読み進め、大切なことを聴いてゆきたいと願っていますが、出来るだけ分かり易く、完結にお話しできればと思います。6章では、「罪と死からの解放」、「奴隷の身分からの解放」がテーマでしたが、7章1節から6節のテーマは、「律法から解放されている」ということです。
1節後半をご覧ください。「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」とパウロ先生は言っています。
パウロ先生がここで言っている「律法」とは、ユダヤ人に与えられたモーセの律法で、シナイ山でモーセに与えられた10の戒め・律法をその歴史の中でイスラエルは613の律法まで増やしました。
この613ある律法は、いく通りにも分類することができますが、大きく二つに分けますと、248は「なになにしなさい」という肯定的命令で、あとの365は「なになにしてはならない」という禁止令です。
もう一つの分け方は、大きく三つに分ける方法です。一つは民間での律法、つまり国民が共に平和に生きてゆくための律法です。もう一つは、祭儀に関わる律法、つまり礼拝や捧げもの、またそれを司る祭司たちに関する律法です。もう一つは、倫理上、道徳に関する律法で、今朝の箇所から例をあげるとすれば、姦淫・姦通などモラルに関する律法です。
しかし、今朝、パウロ先生がここで私たちに伝えたいことは、これらの律法は、私たちが自分たちの肉の欲に生きていた時に私たちを拘束・支配するものであって、イエス・キリストを救い主と信じて新しい命に生きる者は、その律法から解放されて自由にされているということです。
それでは、613の律法から解放されているということは、十戒を守らなくても良いということでしょうか。そうではありません。私たちはモーセの律法からは解放されましたが、イエス・キリストのご命令に生きる者とされています。
パウロ先生は、第一コリントの手紙9章で、イエス・キリストのご命令を、「キリストの律法」あるいは、「神の律法」と言っています。
この主イエス様の戒めの中には、十戒も含められています。
そのような中でもっとも重要なことは、「人・一個人」という視点から戒めを守ることではなく、「主イエス様と共に」という視点から主の戒めを守ってゆくということです。私たちは本当に弱い存在、意志薄弱な者ですから一人では主の戒めを守って生きることはできません。しかし、そのような弱い私たちに主イエス様が、主の霊であるご聖霊がいつも伴って守り導き、なすべきことを教えてくださるのです。
パウロ先生は、この「新しい命の生きる」ということを6節で「”霊”に従う新しい生き方」と言っています。イエス様と共に死に葬られ、イエス様と共によみがえさせられて、新しい命の生きるという恵みは、神の霊、キリストの霊が与えられるということであります。そして、ご聖霊に従って生きるということで、肉の欲から完全に切り離されてゆく生き方であると言えます。
では、「肉の欲から切り離されて、霊に従う生き方」とはどのような生き方なのでしょうか。
4節から読んでまいりましょう。「あなたがたは、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、私たちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」とあります。
「肉の欲から切り離されて、霊に従う生き方」の第一は、キリストにしっかり結ばれて生きるということです。これがなくして新しい命に生きることはできません。
主イエス様は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とヨハネ15章4節でおっしゃって、私たちがイエス様につながるように招いてくださっています。
「肉の欲から切り離されて、霊に従う生き方」の第二は、神様に対して実を結ぶこと、結び続けて生きるということです。私たちは、この目的のために生かされています。
今朝の宣教主題を決める時に大いに悩んだことがあります。「神の喜ばれる実を結び続ける」にしようか、「神に喜ばれる実を結び続ける」にしようか「神の」か「神に」で迷いました。「神に喜ばれる実を結ぶ」ということの主体性は私たちにあります。「わたしが、私たちが」神様に、主イエス様に喜ばれる実を結ぶということです。「神の喜ばれる実を結ぶ」ですと、神様に主体性があります。「神様の喜ばれる、神様が喜ばれる」実をわたしが、私たちが結ぶということです。どちらも大切だと思います。しかし、パウロ先生は5節でなんと言っているでしょうか。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中で働き、死に至る実を結んでいました」と言っています。
わたしたちが結びやすいのは、肉に従って生きてきた中で培われた思いの延長上にある思いから出る実であるということです。ですから、どうしても自己中心的な思いとか、自分の都合が優先する思い、惜しむ心とかが先に出てしまい、神様に喜んでいただけるような実を結べないということがでてきてしまいます。ですから、私たちはそのような肉の思い、欲情から切り離されて、主イエス様につながり、主の霊を受けて生きる必要があるのです。
5節を受け、6節でパウロ先生は何と勧めているでしょうか。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と言っています。
「“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっている」とありますが、「仕える」という言葉から、私たちの命の主体性はわたしたちにあるのではなく、主なる神、主イエス様にあることが分かります。つまり、「神に喜ばれる実を結ぶこと」も悪いことではなく、その実を神様は喜んで受けてくださいますが、わたしたちは「神様が喜ばれる実」が何であるのかをしっかり知っている必要があるということが分かると思います。
主なる神様が喜ばれる実は、神の霊、ご聖霊が私たちに教えてくださり、わたしたちは自分の思いではなく、ひたすらご聖霊に従えば良いのです。ご聖霊に従う時、このご聖霊が神様の喜ばれる実を結ぶ力を与え、そのために必要な水や光やすべての栄養素を与えてくださいます。
神様の霊が私たちに結ばせてくださる実は、何でしょうか。ガラテヤの信徒への手紙5章22節(p350)に「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。
これらの実は、わたしたちがご聖霊と共に、恵みのうちに結ぶことができる実です。すべては神様の憐れみ、イエス様による救い、主の恵みから始まっていることを覚えつつ、感謝して、与えられている新しい週を歩み出し、神様の喜ばれる実を結んでまいりましょう。