神の国を受け継ぐために

「神の国を受け継ぐために」 三月第四主日礼拝 宣教 2022年3月27日

 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50〜58節     牧師 河野信一郎

おはようございます。ゲストの皆さん、ようこそ大久保教会の礼拝へ。オンラインで礼拝をおささげくださる皆さん、歓迎します。教会の皆さん、お帰りなさい。2021年度の最後の主日の朝、皆さんとこのように賛美と礼拝をおささげすることができて、本当に感謝です。

覚えておられるか分かりませんが、2021年度はイースター礼拝から始まりました。主イエス様の復活の喜びで始まりました。その前の週までオンラインのみでありましたが、イースターの朝から教会に戻り、礼拝をささげることが許されました。しかし、残念なことに、すぐにまた集えなくなりました。この1年の間に礼拝堂にみんなが集い、一緒に礼拝をおささげできたのは、52週のうち22回のみです。コロナパンデミック2年目も大変な一年でしたが、主の憐れみの中、今年度最後の日曜日にこのように集えて、主の憐れみに心から感謝です。

しかし、東京では新規感染者数がこの10日間で平均6765人ですし、この間に亡くなられた方は133人もおられます。大きな数字です。今後も感染の再拡大の可能性がありますので、十分に気をつけて生活する必要があると思います。お互いのことを覚えて祈りましょう。

さて、ウクライナの悲惨な状況が一ヶ月も続いています。報道番組を見る度に心が張り裂けそうになりますが、平和の主に一刻も早い停戦合意が与えられるように祈ることがわたしたちにできる最善のことです。先週、ウクライナへの募金はされないのですかとの問い合わせが教会にありましたが、執事会ではまだ話し合っておりません。連盟からの募金の呼びかけもまだありませんがYMCAが緊急支援募金を呼びかけていますので、掲示板をご覧ください。

また、常盤台バプテスト教会はポーランドのワルシャワ第一バプテスト教会と交流があり、ウクライナからの避難民の方々を支援する活動のために募金を呼びかけていますので、そちらから支援することができます。ポーランドには106のバプテスト教会があるそうで、これらの教会が協働して難民支援活動をされているそうです。とにもかくにも、まず平和の主にウクライナの平和を、弱く小さくされている人たちが守られるように心込めて祈りましょう。

さて、昨日は今日のために教会の外と一階部分を掃除しましたが、外にいる時、皆さんよりも一足先にあのキジバトがみかんの木に戻ってきて心地よい鳴き声を聞かせてくれました。日本には、町中どこにでもいるカワラバト、山奥に行かないと見えないアオバト、そしてキジバトが生息するそうですが、キジバトの鳴き声が一番可愛いと思います。皆さんと一緒に賛美することは大きな喜びであり、大きな力を与えてくれます。本当に嬉しく、感謝です。

今朝は、年度末ということで、この1年間の教会の歩みを支え、励ましてくれた年間聖句から宣教をさせていただこうと思います。2021年度の年間標語は「主の業に常に励もう」というスローガンでした。みんなで祈って計画したことは希望通りには行きませんでしたが、無駄なことは一切なかったと思います。最低のラインで、毎週、朝の主日礼拝、そして第二と第四の日曜日には夕礼拝をオンラインでライブ配信することはできました。日曜日ごとに礼拝をおささげすること、賛美をささげること、み言葉に聴くことは止めませんでした。

しかし、オンラインの礼拝でどれだけの方々に神様の愛が伝わり、み言葉によって慰められ、励ましを受け、信仰が強められたのか、主に希望を抱くことができたのか、実際のところよく分かりません。これだけの成果があったという確固たるデータはどこにもありません。教会から出かけて行って、色々な人々と出会って、神様の愛を分かち合い、イエス様をお伝えすることはできなかったと言わざるを得ません。この間、ずっと忍耐と祈りの日々でした。しかし、再始動の時が来たのです。教会が本来の働きをする時が再び訪れたのです。

確かに、2年以上にわたるコロナパンデミックで、みんな疲れていると思います。正直言って、わたしも疲れを覚えています。しかし、この2年間、主イエス様が不安の中にいるわたしたちといつも共にいてくださいました。神様の愛が日々豊かに注がれてきました。確かに長く辛いトンネルを通らされましたが、聖霊がわたしたちの信仰を日夜守ってきてくださいました。必要が満たされてきました。すべて神様の愛と憐れみから出ています。

神様は、わたしたち人を罪と死の縄目から解放するために御子イエス・キリストをこの地上にお遣わしになり、わたしたちの罪を贖うためにイエス様を十字架に架けられ、つまり我が子が死ぬのを許され、わたしたちに永遠の命を与えるためにイエス様を死人の中から甦らせ、わたしたちに復活の希望を与えてくださいました。ですので、わたしたちはどんな試練や困難な中に置かれても、主イエスにあって復活の希望が与えられている幸いな者と言えます。

ですから、復活の希望が与えられているわたしたちにとって、この地上での残された人生をどのように生きてゆくのかが問われ、どのように神様の愛と恵みに応答してゆくかが最重要課題だと思うのです。それは各個人のレベルでの応答です。コロナの不自由さから解放され、再び自由を与えられた一人一人が、そして信仰共同体として集められた教会がこの自由という恵みをどのようにフルに活用するのか、それが神様から問われているのだと思います。

この2年間、オンラインの礼拝を通して神様の愛が確かに分かち合われました。み言葉を通してわたしたちの魂は確かに慰められ、励まされ、信仰が強められ、希望を持ち続ける幸いが与えられました。その恵みに対して、わたしたちはどのように応答するのか。今週金曜日からスタートする2022年度、わたしたちが目指したいのは、まず一人一人が神様の恵み深さを味わうこと、そして共に集まって礼拝をささげ、それぞれ置かれた場所で、出会ってゆく人たちに神様の愛を証し、教会として主の恵みを一人でも多くの人々と分かち合うことです。この目標は教会の総会で承認されるもので、その結果が今朝の礼拝の後に報告されます。今週金曜日から始まります新しい年度の歩みが実り豊かな一年となるよう祝福を祈りましょう。

さて、過去2回の宣教は、第一コリント15章からイエス・キリストの復活の真実について、イエス様の復活を信じるわたしたちの信仰についてお話をさせていただきましたが、今朝の宣教はそのシリーズの最終回となり、テーマはイエス・キリストの十字架の死と三日後の復活を信じる信仰によって神の国を受け継ぐ者とされるということです。

前回の宣教では、イエス様の十字架の死と三日後の復活は表裏一体、切っても切れない関係性にあり、イエス様の十字架の死、贖いの死だけを信じても完全に救われない、イエス様の十字架の死と復活を信じることによってわたしたちも復活の希望が与えられ、神様の憐れみによって完全に救われるということを分かち合いました。使徒パウロは、第一コリント1章の後半から2章の前半で、イエス様の十字架の重要性について書き記しています。

さて、今回の15章のテーマは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰によって人は神の国を受け継ぐ者とされるということですが、第一コリントの5章、6章、10章を読みますと、神の国を受け継ぐことができない人はどのような者であるのかが明確に記されています。しかし、今日はそこには触れませんので、ご自分で5、6、10章をお読みください。

第一コリント15章は「復活」ということがテーマですが、なぜ使徒パウロはこのテーマを取り上げなければならなかったのか、その理由が15章12節にあります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」とパウロは質問します。つまり、当時のコリント教会の中に、イエス様の十字架の死を信じても、復活を信じない人たちが存在していたということが分かります。そうなりますと、教会に混乱が生じ、そこから分裂が生じるのです。

パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」とコリント教会へ書き送っています。

死人の復活、イエス・キリストの復活を信じることのできない人は大勢おられます。馬鹿げたこと、時間の無駄、ナンセンスだと笑い飛ばします。しかし、天地万物を創造された神様に不可能なことは何一つありません。全能なる神様がイエス様を死の淵より甦らせたのです。イエス様の復活を信じることが難しいのは、イエス様の十字架の死と復活の意味と目的を知らないからです。しかしその意味と目的を理解したら、信じることができます。喜びと感動と感謝をもって、神様の愛を受け入れ、イエス様を救い主と信じる恵みに入れられます。

しかし、その意味と目的を理解しない人は、すぐに難癖を付けてきます。その例が35節にあります。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と噛み付いてきますが、復活を信じる皆さん、復活の希望に生きる皆さんはどうでしょうか。皆さんはご自分がどのように、どのような体を持って復活するとお考えでしょうか。ご自分が最も輝いていた頃の体でしょうか。若い頃の体でしょうか。最も美しい頃、かっこ良かった頃の体でしょうか。

パウロは、大地に蒔かれる種粒を一つの例として上げ、「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる」と言い、人もそれぞれに「地上の体」が与えられているように、復活を信じる者一人一人に主なる神様は「天上の体」をお与えになられると38節と40節に書き記しています。

また42節から44節を読みますと、「死者の復活もこれと同じで、蒔かれるときは朽ちる者でも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」と言っています。神様が与えてくださる体はわたしたちが想像すらできない御心に適った体であるから復活するまで楽しみにしなさいと言われるのです。

しかし、「なぜわたしたちが持つこの地上での体ではいけないのか」という新たなる疑問が浮上してきます。「せっかく与えられたこの体、自分ではけっこう気に入っている、このままでも良いではないか」という方もおられるかもしれませんが、すべての人がそうではなく、大半の人は自分の体に何かしらのコンプレックスを持っているというデータもあります。

パウロは50節で、「兄弟姉妹たち、肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません」と言います。つまり、わたしたちが現在与えられている地上での体というのは罪に染まった死すべき体であって、そのままの状態の体では、永遠であり、聖なる神様と共存することは不可能であり、わたしたちにも永遠であり、聖なる体が必要であるということを言っているのです。ですが、わたしたち人間には聖なる永遠の体を持つことは不可能です。ですから、神様がその体を与えてくださる。「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。復活の合図のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます」と言います。神様の愛の力によってわたしたちは変えられるのです。

54節をご覧ください。「この朽ちるべきものが朽ちないもの着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です」とあり、ホセア書13:14とイザヤ書25:8節が引用されています。

パウロはここで、復活の希望、それだけが、あらゆる場所と時代に生きるわたしたちをあらゆる絶望から救い、救い主イエス・キリストに常に忠実であるように助けているのだ、と言いたいのです。つまり、真の神の真実さは虚偽より強く、神の義は悪より強く、神の真実な愛は人の憎しみより強く、神が与えてくださる永遠の命は死に打ち勝つと宣言するのです。

 ですから、57節、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と励まし、呼びかけるのです。それほどまでに、わたしたちは神様に愛され、罪赦され、神様と永遠に生きる命へと招かれているのです。だから、58節、「わたしの愛する兄弟姉妹たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とパウロは信仰に固く立ち続けるように励ますのです。

 常に復活の主イエス様を見上げ、神様の愛と恵みに感謝し、わたしたちに託されたこの地上での働きに誠実に取り組み、神様の栄光を表しながら共に力を合わせて生きてゆきましょう。