神の宝として生きる

「神の宝として生きる」 二月第一主日礼拝 宣教 2022年2月6日

 マラキ書 3章13〜18節     牧師 河野信一郎

おはようございます。2月最初の主日の朝を迎えました。それぞれ離れた場所に置かれていますが、今朝もこのように共に礼拝の時間を過ごし、賛美と祈りとみ言葉に耳を傾けることのできる幸いを神様に感謝いたします。寒い日々が続き、オミクロン株の拡大もまだ収まりません。まん延防止措置が延長されるかもしれませんが、神様に信頼して歩んでゆきましょう。

さて、今朝の宣教の導入として、恵みの分かち合いを二つさせていただきたいと思います。先週、教会では火曜日にピアノの調律、金曜日にみかんともみじの木の剪定がなされました。この二つの出来事を通して導かれたことを感謝して分かち合わせていただきたいと思います。

いつも調律をしてくださっている方が朝10時前にいらっしゃいましたが、参考までに終了時間の目安をお聞きしました。2台で3時間ほど頂戴しますとおっしゃられましたが、そうなると計算では遅くとも1時半には終わると思っていました。礼拝堂のグランドピアノは、2020年の10月に調律を依頼したこともあって、予定どおり1時間半ほどで終わりました。小休憩をとっていただき、アップライトピアノの調律に取り掛かってもらいましたが予定の1時半になっても終わる気配がまったくありません。ようやく終わったのは2時半でした。労いの言葉をかけつつ事情をお聞きしましたら、調律が5年もされていなかったため、高音から低音まで全音域にわたって狂いがだいぶあったそうです。そういえば5年前のチャペルコンサート以来の調律となっていました。調律の事でよもやま話を少しした後にお帰りになられましたが、調律師さんと話す中で定期的な調律・チューニングの必要性を強く感じました。

信仰も同様で、定期的なチューニング、帯の締め直しが必要です。このちゃんとした締め直しがないと活発に動けなくなるばかりか、だらけた姿勢を周囲に見せることになり、それはイエス様を証しすることにはならないし、神様の栄光をあらわすこともできなくなります。

使徒パウロは、ローマ書10章17節で、信仰はイエス・キリストの言葉を聞くことによって始まると励ましてくれていますが、信仰のチューニング、帯の締め直しも同じで、変わることはありません。すなわち、主イエス様の言葉に聞き続けることによって私たちの信仰は日々チューニングされ、委ねられている働きをなすことができるようになります。パウロはエフェソとコロサイの兄弟姉妹たちに対して、真理を信仰の帯として結ぶことの大切さと愛という帯を結ぶことの大切さを書き記していますが、真理も愛もイエス様のことです。聖書を日々読むこと、祈ること、主の愛に感謝をささげる中で主が成長と成果を与えてくださいます。

さて、金曜日の午前中にみかんの木ともみじの剪定をしていただきました。丁寧に剪定され、とってもスッキリになりましたが、作業前に二つのことを庭師の方にお願いしました。一つは、前にもお話しした、鳩のつがいが頑張って作った羽を休める場所をそのままにしておいてくれること、そしてもう一つはみかんの実を収穫してほしいということでした。

庭師の方と私が開始前にざっと見ただけで6つぐらいのみかんの実がボーボーと生い茂った枝葉の合間から見えました。2時間半ぐらいで剪定を終えてくださり、最後の確認のために外に出た時に採ってくださったみかんの数を見て驚きました。(写真)。色や形はまばらで、決して美味しそうには見えないのですが、大小合わせて11個の実がありました。風の強い日や雪の日に4つぐらいが地面に落ちましたので、今年の収穫は15個となりました。2016年までは花も実も付けないみかんの木が庭師の方に剪定していただくようになってから、2017年には2つ、翌年は4つ、それから少しずつ増えるようになり、今年は15個も実を付けました。

皆さんと今朝分かち合いたい恵みとは、とても痛い話ですが、わたしたちにも霊的な剪定が必要であるということです。神様は様々な痛みや悲しみ、苦しみを通して、わたしたちの中にある不必要なものを取り除かれます。主の霊的剪定は確かに大きな痛みを伴うけれども、その後に素晴らしい実を神様が結ばせてくださるのです。ですから、苦しみをすべて恐れてはならないのです。使徒ペトロは、彼の第一の手紙4章13節で、「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです」と苦難と戦うクリスチャンたちを励ましています。

もう一つの恵みというのは、木の下からだと6つぐらいしか見えませんでしたが、木には実が11個も付いていたという事実です。つまり、神様はわたしたちの見えないところで確かに働いてくださり、実を結んでくださっている、わたしたちの想像を遥かに超えた恵み・祝福を備えてくださっているということです。ですから、わたしたちは神様がよしとされる時まで、御手の中に隠されている祝福を疑わないで待つ信仰が主から求められているということをコロナパンデミックの苦しい2年プラスの期間中に学びとる必要があるのだと思います。

今も途切れず続いているコロナパンデミックの中、わたしたちはこの2年間の月日は一体何であったのだろうか、長く暗いトンネルを通らされたけれど何の前進もなかった、思い通りにゆかなかった、何の意味もない無駄な日々を虚しさの中で過ごしたと感じる人もいれば、その苦しみの中にも、「でもこういう新しいことが始まったよね、こういう発見もあったよね、不要なものをやっと捨てることができたよね」と感じる人もおられると思います。しかし、苦しみや悲しみの方が大きいのは事実だと思います。しかし、コロナの生活の中にも確かに恵みもあったし、まだ見えない祝福がわたしたちに用意されていると信じる時、心は躍ります。わたしたちに必要なのは、神様の愛と憐れみ、祝福の備えを信じて前進することです。

大久保教会の年間標語は、「主の業に常に励もう〜危機で得た恵みに立つ教会〜」です。年間聖句は、第一コリント15章58節の「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」というみ言葉です。わたしたちはこの聖句に励まされ、標語を目標として歩んできました。昨年は19回しか礼拝堂に集うことはできませんでした。しかし、毎週の主日礼拝と第二・第四主日の夕礼拝を一度も休むことなく、ライブで配信する恵みをいただきました。この間、皆さんは祈りをもって励まし、信仰をもって献金をささげて教会の働きを支えてくださいました。そこには一切の無駄はありません。この1年間の皆さんの礼拝出席、お祈り、献金、お手紙やお電話やメール、笑顔、その存在すべてが神様からの恵み・祝福です。皆さんの心が無駄になったことは一つもありません。

前置きがいつも長いのは承知していますが、今月と来月で2021年度を閉じるに当たり、この二ヶ月間の宣教テーマは「無駄と恵み」です。毎回の宣教で「無駄・無益・虚しさ」という言葉が出てくるみ言葉に聴きます。つまり、神様から与えられているわたしたちの信仰、労苦、祈り、礼拝、賛美、献金、働きは決して無駄なことではなく、すべて神様からいただく恵みであるということ、その恵みはこの地上だけのものではなく、永遠に続く恵みであるということを分かち合ってゆきたいと祈りながら準備しています。どうぞお祈りください。

さて、神様の愛に無関心であったり、福音をまだ聞いてなかったり、神という存在を否定し、拒絶し、自分の力やお金を頼りにしている方々から「信仰などもってどうする。日曜の朝早くから教会に行って、礼拝して、賛美歌歌って、お祈りして、献金して、奉仕して何の得になる。時間やお金を宗教につぎ込んで無駄にしてどうする。もっと他のことに使って人生を充実させたり、自分や家族の幸せを追い求めたらどうか」と言われるかもしれません。

また、心が弱ったせいで、そのように感じたり、ストレスを感じたりして、次第に忍耐すること、主に希望を持つことが苦手になったり、愚痴っぽいことをつい言ったり、不満や怒りが顔に出ることもあるかもしれません。そういうことを経験する中で、「自分はダメだ」と思い込んだり、気持ちが内向きになってきたかもしれません。クリスチャンなら誰もが一度は経験する信仰のしゃっくりです。大切なのは、そのしゃっくりを慢性化しないことです。それでは、そのような気持ちを慢性化しないためには、どのような心持ちが必要でしょうか。

先週、ある方とメールのやり取りをしている中で今朝の宣教へと導かれました。聖書箇所は、マラキ書3章の13節から18節です。このマラキ書には、バビロニア捕囚後にエルサレムに戻されてからのイスラエルの民の信仰と心情、そして神様からの応答が記されています。

今年度、わたしたちはネヘミヤ記を14回のシリーズで聴き、様々な困難や危機に直面した民が、エズラとネヘミヤのリーダーシップのもと、それでも主に信頼しつつ神殿と城壁の再建を完成させたということを聴きましたが、エルサレム帰還後の民の生活というのは、すべてがバラ色であったわけではなく、むしろ茨の道であったと言えます。何度も苦難が襲いかかり、心が折れそうになることを経験し、自分たちの成していることに虚しさを感じ、神様から心が離れてしまうことをあったのです。わたしたちも経験すること、今していることです。

そのような民に対して、神様は預言者マラキを通して神様の愛を宣言し、悔い改めて神様に立ち帰るように招き、神様が正しい裁きを行い、神様に忠実な者たちを顧み、救うという約束をされます。これまでの信仰生活、これまでの労苦は決して無駄でない、主がそこにもちゃんと着目してくださり、顧みてくださり、祝福してくださるという約束が記されています。

マラキ書3章13節から15節を読みましょう。「13あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言うどんなことをあなたに言いましたか、と。14あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。15むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え 神を試みても罰を免れているからだ。』」とあります。すべての人ではありませんが、イスラエルのある人々が神様を畏れないで生活している人たちが栄えているのを見て、神様に仕えることは虚しいと感じるようになりました。今までやってきたことは無駄であったと後悔する感じです。この「神に仕えることはむなしい」という言葉は、神様が「ひどい言葉」と心を痛められる言葉です。

しかし、大事なのは続く16節の言葉です。「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った」とあります。神様に信頼し続け、希望を抱く人々、困難になんども直面しても神様を愛する人々が集まって、互いに語り合った、つまりこれまでの神様からの恵みを共に確認し合い、この主の恵みはこれからも自分たちの上に豊かに与えられると信じ、希望を持って共に歩んでゆこうと互いに励まし合ったということです。語り合った後、聖書には記されていませんが、一緒に主を賛美し、共に祈ったでしょう。その励まし合った言葉に「主は耳を傾けて」くださり、忠実な人々を神様の記録の書に書き入れてくださるのです。凄いことです。

17節を読みましょう。「わたしが備えているその日に彼らはわたしにとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむようにわたしは彼らを憐れむ」とあります。主なる神様が備えておられる「その日」とは、主イエス・キリストが正義を持って再びこの地上に来られる時、主の再臨、終末のことです。18節に「そのとき、あなたたちはもう一度正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」とあります。

わたしたちは、物事が自分の思い通りにうまくいかないと無駄であったとか、やめておけば良かったとか、後悔をするわけです。しかし、わたしたちが忘れてはならないのは、わたしたちがどうこう判断するのではなく、神様が判断されるということです。わたしたちが間違いを犯すことは神様の想定内のことです。愛の神様の懐は深いのです。大切なのは、救い主イエス・キリストによって「神の宝」とされ、神様に日々持ち運ばれていることを喜ぶことです。

神様の宝であると知る時、わたしたちは喜びと感謝に包まれます。圧倒されます。感動するはずです。それはいっ時の、限定された期間ではなく、昨日も、今日も、そしてこれからも永遠に神様の宝なのです。神様がわたしたち一人一人を宝として愛してくださるのです。この愛を受け取り、神様の宝であることを喜びながら共に歩んでまいりましょう。