「神の小羊とその役割」 三月第一主日礼拝 宣教 2025年3月2日
ヨハネによる福音書 1章29〜30節 牧師 河野信一郎
おはようございます。3月最初の日曜日を皆さんとこのように過ごし、賛美と礼拝を神様におささげできる幸いを主に感謝いたします。今日を含めて、先週はとても暖かい日が続きましたが、今週火曜日ぐらいからまた真冬のような気温になるそうです。どうぞくれぐれもお気をつけて日々お過ごしください。守られますようにお祈りしています。
先週は、転入会を通して教会の家族が与えられ、恵みを神様に感謝しました。姉妹がこれまでの苦しみや痛みの多い歩み、しかし主なる神が共にいてくださったことを分かち合ってくださり、聞くわたしたちも苦しみを共有する事ができましたが、万事を益としてくださる神様が姉妹を大久保教会に導いてくださったこと、神様には大きなご計画があることを感謝しました。聞き逃された方々は、3月の月報が16日に発行されましたらお読みいただきたいと思います。もし待てないという方がおられたら、原稿をお渡ししたいと思います。
さて、来週のご案内になりますが、来たる9日は、「3.11を覚える礼拝」として神様に礼拝をおささげします。東日本大震災から早いもので14年の月日が経過しようとしていますが、あの日に「さよなら」も、「ありがとう」も、「ごめんね」も言えなかった家族の帰りを今もひたすら待っておられる方々が被災地におられます。その被災された方々も高齢化しています。福島第一原子力発電所の深刻な事故・事件も未だに収束していません。そのような方々に寄り添って歩んでいるのが、東北の地に立てられている諸教会です。
太平洋側の4つの県、上から青森、岩手、宮城、福島に日本バプテスト連盟の教会が10教会点在していますが、この14年間で、そのうちの9教会の牧師が代わっています。代わっていないのは、福島市にあるA教会だけです。現在、その内の2教会は無牧師となっています。また、牧師がご病気な教会もあります。経済的に困窮している教会、牧師とその家族を十分にサポートできない教会が多数あります。そのような教会のために祈りをささげ、支援金をお送りしたいと願っています。どうぞ来週の礼拝にご出席ください。
さて、今週水曜日の5日から今年の受難節が始まり、4月19日まで続きます。受難節とは、わたしたちの身代わりとして十字架への道を歩まれ、贖いの死を遂げてくださった救い主イエス・キリストの十字架に至る歩みに目を注ぎ、心を傾けてゆく46日間です。幼い子どもたちにイエス様の十字架と死をどのように分かち合って導いてゆくか、とてもチャレンジングです。贖いという言葉をとっても、難しい言葉です。大人でも分かりません。イエス様の死の真意を伝えることは容易ではありません。ですから、祈りと聖霊の励ましが必要です。イエス様が父なる神様を信頼し、祈りつつ、聖霊に助けられてその道を歩まれたように、わたしたちも神様への信頼、祈り、聖霊の励ましと導きの中で歩ませていただきましょう。
今日から来月の中旬まで、正確に言いますと4月19日の金曜日まで、十字架の道を歩まれるイエス様に目を注ぎます。しかし、そもそも何故イエス様が、神の独り子が十字架の道を歩まれ、十字架に磔にされて死ななければならなかったのかという理由を旧約聖書と新約聖書から聴いてゆきたいと願っています。その理由を知る手掛かり、キーワードとして浮かび上がるのが「小羊」という言葉です。
この言葉は、聖書に合計106回出てきます。そのうち、旧約聖書には71回、新約聖書には35回用いられていますが、モーセ五書と呼ばれている旧約聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記とありますが、その最初の4つの書物に集中して出てきます。一番多く用いられているのは民数記の22回ですが、そのうちの15回は「焼き尽くす献げ物としての小羊」、「贖罪の献げ物としての小羊」、「和解の献げ物として一歳の雄の小羊」というように使われています。つまり、「小羊」は神様への献げ物として用いられていたということが分かります。小羊の犠牲は、神様との和解を与えるのです。
しかし、この「小羊」という表現の起源は、出エジプト記にあります。エジプトの地で奴隷とされていたユダヤ人たちをその奴隷のくびきから解放するために神様は天使を用いてエジプトの地を打たれるのですが、その裁きから逃れるために、ユダヤ人たちは小羊を屠り、その血を家の扉・かもいに塗りなさいと命じられます。小羊の血が塗られた家を天使が過ぎ越し、塗っていないエジプト人の家のすべての長子が打たれて死にます。ユダヤ人を解放することをしなかったファラオは、それによってユダヤ人たちを去らせることにようやく同意し、イスラエルに解放が与えられ、カナンの約束の地へと導かれて行きます。
イスラエルにとっては、主なる神様が自分たちを過ぎ越され、解放と信仰の自由を与えてくださった救いの出来事でありました。その事に対する感謝と喜び、そして信仰を後世に受け継がせるために、過ぎ越しの祭りを祝います。その神様の過ぎ越しに不可欠であったのが、小羊の犠牲です。つまり、イスラエルに救いと解放と自由を与えるために小羊が屠られ、その血が流された、犠牲となったという事です。
民数記28章を読みますと、その小羊の献げ物は朝ごとに、夕ごとに献げられていた事が分かります。家庭ごとに献げられていました。イスラエルの歴史を考える中で、おびただしい数の小羊がこれまでずっと犠牲になって神殿で献げられてきたのです。しかし、そのような時代はイエス様がこの世に、この地上に誕生することで終わりました。前置きが長くなりましたが、そのことを今からお話しします。
今朝は、ヨハネによる福音書1章29節を中心に、「神の小羊とその役割」という主題で、イエス様についてお話しさせていただきますが、バプテスマのヨハネという人、この人はこのヨハネの福音書を記録した人ではありません。彼は、イエス様が来られる前に、イエス様の道をまっすぐにするために生きた人です。つまり人々を悔い改めに導く土壌を作るために、その下地を整えるために神様から先に遣わされた人物でした。ヨハネは、自分のことを「わたしはその(イエス様の)履物のひもを解く資格もない」とまで言っています。しかし、この人がイエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。29節に、「その翌日、(バプテスマの)ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」とあります。
このヨハネの言葉には、イエス様が神の小羊であるという証言と、この小羊の役割は「世の罪を取り除く」という事が明言されています。つまり、イエス・キリストは、この世に生きるすべての人たちの罪の代価を支払うために、わたしたちの中から罪をすべて取り除くために神様によって備えられた救い主、この罪に満ち満ちた世界に癒しと解放と自由という救いを与えるために神様から派遣された救い主であるということが記されています。では、どのようにすべての罪を取り除くのか。それは、イエス様が小羊のように屠られて、尊い血潮を流して、その命を献げてくださるしか、他に方法はありませんでした。わたしたちには自分を救う力などないのです。わたしたちには命を、神様の恵みを消費する力しかないのです。
イエス様は、神の御子、つまり神です。と同時に、人としてこの地上にお生まれになられた方です。イエス様は、神であり、人です。そのようなことは可能なのか。神様に不可能はありません。しかし、そういうことよりももっと重要なのは、何のためにイエス様は人としてこの世に生まれ、生きられたのかということです。神であるイエス様が人の形をとって地上に来られたのは、わたしたちを罪と罪の報いである死から、永遠の滅びから救うためです。
これまで人類が神様に対して犯してきたすべての罪を、わたしたちが意識的に、そして無意識のうちに犯してきたすべての罪の代価を肩代わりして、罪を帳消しにできるのは神様だけです。わたしたち一人ひとりの身代わりとなって十字架上で贖いの死を遂げられ、わたしたちが払うべき罪の代価を支払ってくださり、わたしたちを救えるのは、イエス様だけです。
バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とわたしたちに言います。「このお方を、救い主を、見よ!」と云います。言葉を変えて言うならば、「このイエス・キリストは、わたしたちの罪、神様に対する背きの罪を取り除く小羊、贖いの供え物だ、このお方がわたしたちを救うためにご自分の命を犠牲にして与えてくださったのだ。十字架に架けられたこの救い主を見上げ、自分の罪、自分の弱さを悔い改めなさい。そしてこのイエス様の愛を受け取りなさい、ご自分の子を犠牲にするまでにわたしたちを愛してくださる神様を信じ、感謝し、ほめたたえなさいと言われているようです。しかし、それは強制というよりも、わたしたちの自由な意思を尊重する愛に満ちた招きであります。この招きに応え、神の小羊・イエス様を信じ、神様の愛と赦しを感謝して、主に信頼して受け取りましょう。