「神の御心によって生まれたわたしたち」 七月第四主日礼拝 宣教 2024年7月28日
ヨハネによる福音書 1章10〜14節 牧師 河野信一郎
おはようございます。お帰りなさい。早いもので、7月も最後の日曜日となりました。今朝も、ご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。8月の前半は、夏休みを取られて帰省されたり、旅行をされる方も増えると思います。教会でお目にかかれないのは寂しいですが、それぞれの時間が守られ、祝されますようにお祈りいたします。もし旅行が日曜日にかかれば、旅行先で礼拝をおささげすることをお勧めいたします。もしそれが難しい場合は、オンラインかビデオで礼拝に出席されることをお勧めします。それさえも難しい場合は、毎週のメッセージが教会ホームページに掲載されていますので、それをお読みいただいて、ご自身で賛美と礼拝をおささげしていただければと思います。
教会ホームページに関して、お祈りのお願いがあります。ホームページを毎週のように更新していますが、更新しているのは日本語のページだけで、英語のページはずっと手付かずの状態でした。しかし、その課題が執事会でも取り上げられ、英語のページを随時更新するようになり、毎週のメッセージの英訳を掲載するように始めたのですが、どういうわけか、公開日時を設定できずにいます。つまり、メッセージにも順番があるのに、それがバラバラになってしまいます。例えば、今朝のメッセージを公開しても、7月7日のメッセージが最後に公開されたことになってしまい、一貫性・統一性を持つことができないのです。今週、ホームページを作成してくださった会社に問い合わせてその問題を改善してもらう依頼をしますが、スムーズに進み、教会のホームページが豊かに用いられますようにお祈りください。
さて、フランス・パリでのオリンピックが始まりました。毎日テレビの前に釘付けという方もおられるかもしれません。テロ行為や大きな事故がなく、選手たちの健闘を祈るばかりです。日本の男子バレーボールチームが初戦負けてしまって悔しい思いがありましたが、勝負の世界は勝つか負けるかですから、国を問わずに最善を尽くして健闘している選手たちの姿を応援することがオリンピックを楽しむコツなのかなぁと思います。
しかし、平和の祭典と謳われるオリンピックが開催される中、ウクライナやパレスチナでは戦いが続いており、ガザの野戦病院にイスラエル軍の攻撃があり、30人が死亡、100人以上が負傷したとの報道が昨夜ありました。世界中で、非常に痛ましく、悩ましく、神様の御心からかけ離れている悲しいことが起こり続けています。大自然の恵みを人類がこれまでずっと貪って、破壊してきた代償として、気候変動が起こり、温暖化が進み、国内のみならず、世界各国で自然災害が多発しており、被災地が増え続けています。どうすべきでしょうか。
アメリカでは、11月の大統領選に向けての動きに激しさが増してきております。自由とか、権利とか、主権とか、さまざまな意見や価値観のぶつかり合いが起こってしまいますが、国民の生命と生活が守られる事が最大の課題となりますが、最も重要なのは「神様の御心」であると信じます。神様の存在を無視し、自分たちの権利とか自由が強調され過ぎている時代にあると思います。イエス・キリストの十字架の贖いの意味と目的が蔑ろにされている時代です。聖霊の力を無視して、自分たちの力を見せつけようとしている時代です。
神様の愛、御心、ご計画を無視し続けると、残された道は破滅への道しかないとわたしは個人的に考えています。神様を畏れず、神様の力に信頼しなければ、人々は、わたしたちは苦しみと悲しみという実だけを生み出すようになり、平和を実現することはできず、幸いでない人生を送ることになります。イエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と言われ、例えこの地上で苦しみを味わっても、「天では大きな報いがある」と約束してくださっています。日本の8月は、「平和月間」です。隣国や東南アジアに侵略し、戦争を起こして多くの人々の命を奪った加害者であり、同時に代償を払うことになった被害者でもある日本。どのような振る舞いをすべきでしょうか。
「神様の御心を探し求めて生きる」というテーマをシリーズ化して、新約聖書から神様の言葉を分かち合わせていただいておりますが、今日から6週間ほど、ヨハネによる福音書を通して主が語りかけられる御言葉に聴いて行きたいと願っていますが、今朝は1章10節から14節が与えられ、タイトルは「神の御心によって生まれたわたしたち」としました。このタイトルは13節から選びました。ご覧ください。「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」とあります。
ほとんどの日本語訳聖書では、13節の最後の部分を「神によって生まれた」と訳していますが、ギリシャ語の原文では、「神の御心によって生まれた」となっています。わたしたちすべての人間は、神様によって創造され、神様が与えてくださる命によって生かされています。そういう意味において、「神によって生まれた」だけでも十分理解できるかもしれません。しかし、わたしたちにとって最も重要なのは、「生きている」ということではなく、「神様によって生かされている」ということであり、神様に祝福されて与えられている命を「どのように用いて生きるか」ということです。どのように神様の御心、願いに沿って生きるかということです。
しかし、多くの人は、神という創造主の存在を抜きにして、命はあたかも自然発生したもの、あるいは自分の権利や自由な意思で選び取れるような自分の所有物のように捉えてしまい、命の尊厳・神聖さ(sanctity of Life)を重要視しません。しかし、そこが重要なのです。その重要な部分を伝えるために、イエス・キリストは、神の言としてこの地上に神様から派遣されて、福音を伝えてくださったのです。イエス・キリストは、世の光として人の罪によって覆い隠してしまった闇の部分に光を当てるために来てくださったのです。その命の尊さをわたしたちに知らせるために、その命を与えるために、イエス様は十字架上でご自分の命を捨てて、わたしたちに与えてくださったのです。そこに主の愛が示されているのです。
10節と11節に「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあります。イエス・キリストは、この世の初めから父なる神と聖霊と共に存在し、世はイエス様たちの働きによって成りました。しかし、その真実をこの世は認めなかったし、今も認めない。イエス様はご自分の民のところに来られたのに、その民はイエス様を受け入れなかったし、今も受け入れない。
今まで信じてこなかったし、信じない。今まで神様の愛を受け取るチャンスはいっぱいあったのに、受け入れるどころか、拒絶してきたし、今も拒み続ける。闇の中に居続けるというか、闇の中に生きることを自分の意思で選び続けるのです。ですから、苦しみや痛みや悲しみや憎しみが絶えることはなく繰り返されてゆく。このままで良いはずはありません。何故なら、それは神様の御心と正反対であり、正反対の滅びの方向へ突き進んでいるからです。
14節に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。神の御子イエス・キリストがこの地上に来てくださり、イエス様の十字架と復活を通して、イエス様の栄光が表されました。神様がどれほどまでにわたしたちを愛してくださり、神様のもとに帰って来るかを待っておられることがイエス様の死と甦りによって示されました。
イエス様を信じない、受け入れない人たちは大勢います。しかし、12節にこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と。イエス様を救い主と信じる者たち、わたしたちが、神様の憐れみによって、信仰によって、神の子とされる資格が与えられるというのです。神の子とは、神様の愛と御心に生きる人、神様に祝福されて生かされていることに感動し、喜び、感謝して生きる人です。
13節に、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」とあります。「血によってではなく」とは、先祖や親たちの社会的身分や地位や功績によって神の子とされるものではないという事です。「肉の欲によってではなく」とは、私たちの願望、切望した結果、神の子とされるという事ではないという事です。「人の欲によってでもなく」とは、私たちは自分の意志によって神の子となることを選び取ったのではない」という意味です。
すなわち、すべて神と主イエスの深い憐れみ・恵みによって救われ、キリストにつなげられ、霊の目が開かれ、真理の光の中で神の栄光を見る事ができるようになったという福音がここで宣言されているのです。
神様の御心は、わたしたちがイエス様に出会って、イエス様を信じて、神様に立ち返って神の子とされる資格・恵みを感謝して受け取り、喜びと平安と希望のうちに生かされるということです。わたしたちに救われる資格があったからとか、救いを求めたからとか、自分の意志でイエス様を信じたという次元ではなく、まず神様がその独り子をお与えになったほどに私たちを愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。
この神様の愛を伝えるために、キリストは肉体をとってわたしたちの間に宿ってくださり、共に歩んでくださり、わたしたちを救い、神の子として永遠に生かすために十字架で贖いの死を遂げてくださった。そして、イエス様を死の淵より神様が甦らせました。ここに神様にわたしたちへの無限の愛があるのです。この愛を知り、受け取り、生かされている者として、日々御心に従って歩んでまいりましょう。独りではなく、みんなと一緒に!