神の御心に服従する主イエス

「神の御心に服従する主イエス」 四月第二主日(棕櫚の日)礼拝 宣教 2019年4月14日

 マルコによる福音書14章32〜42節            牧師 河野信一郎

3月6日から過ごして来ました受難節・レントは、今日から「受難週」と呼ばれる最後の週が始まります。わたしたちの身代わりとなって十字架への道を歩み、「呪いの木」と呼ばれていた十字架で死んでくださるまでの主イエス様の最後の1週間を覚えて歩んで行きたいと願います。

先週の日曜日には、2019年度の年間聖句であるコロサイの信徒への手紙1章9b〜10節から、そして年間標語である「神の御心に従って歩もう」という主題で宣教をいたしました。

今朝も最初に年間聖句を読みたいと思います。「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」(コロサイ1:9b-10)とあります。これはパウロ先生の祈りであり、今日においては、神様と主イエスさまのわたしたちに対する御心、神様の願いであることを聴きました。先週の宣教の原稿は礼拝堂入り口にありますし、教会ホームページからお読みいただけることができますがが、先週の宣教の中で神様から色々な語りかけを聴きましたが、最後に聴いたポイントを皆さんと最初に分かち合いたいと思います。

私たちがその中で聴いたことは、わたしたちの日々の生活の中で、「すべての点で主の喜ばれるように歩みなさい」ということが神様の御心、イエス様の願いであるということでした。ここで大切なことは「主に喜ばれるように」ということです。自分たちが喜ぶということではなくて、神様に喜ばれるように歩みなさい、生きなさいという励ましです。

「すべての点で主に喜ばれるように歩んで」ゆくために大切なこと、それは主イエス様に集中して、イエス様から目を離さずに従って歩んでゆく事です。また、「主イエス様に従って歩んでゆく事」という事は、主イエス様が神様の御前を歩まれたように、イエス様を信じる私たちも同じように歩んでゆくという事です。主イエス様は、どのように歩まれたでしょうか。私たちは、主イエス様がどのように歩まれた、どのように生きられたのかを新約聖書から聴いてゆくことが求められています。イエス様をよく知ることが、神様をより深く知ることにつながり、イエス様が歩まれたように歩む時に、すべての点で主に喜ばれるように歩むことが出来ると信じます。

しかしながら、「あなたはイエス様のように歩むことができるのか」と誰かから問われるならば、「できないでしょう、たぶん無理でしょう」とわたしたちは答えるのではないでしょうか。その理由は、そのようにできる自信がないからではなく、そうではなく、まだすべてをイエス様に明け渡さないまま、自分の力と知恵で生きようとしているからだと思います。イエス様を信じきっていない、服従していない、できていないから「できない。無理」と思うのではないでしょうか。「できません」というのは、謙遜な思いから出た言葉ではなく、不従順から出る正直な思い、言葉であると思います。

しかし、イエス様の弟子の中には謙遜な人ばかりではなく、自分のことが大好きで、自分の力を過信し、自分のことしか考えない人もいたのです。それをイエス様はよく知っておられましたから、弟子たちに最後のレッスンを施すために、ゲッセマネというオリーブ山の中腹にある園に連れて来ます。その場所はエルサレムに来られる時にいつもお祈りをしていた場所です。そして32節から33節の前半にこのようにあります。「一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに『わたしが祈っている間、ここで座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」と。

ここで皆さんの中に、「ほら出たよ、イエスは目にかけているお気に入りのペトロたち3人の弟子たちを他の弟子たちから特別に選んで近くに置こうとしているよ。イエス自身がえこひいき、分け隔てしているじゃない」と嫌な思いを抱かれる方がおられるかもしれません。しかし、イエス様がこの3人を自分の近くに置いた理由、目的はそんなことではありません。この3人が他の弟子たちよりも傲慢で、自分のことしか考えず、自分の力と意志の強さを過信していたからです。ペトロは、「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません。あなたから離れません」と豪語した人です。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを出し抜いてイエス様に「あなたが栄光を受けられる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と言った人たち、イエス様が「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマ受けることができるか」と尋ねられた時、つまり、「今からわたしが受ける十字架の苦しみを受けることができるか」と尋ねられた時に、「はい、できます」と答えた人たちです。そのようなおごり高ぶった人たちのために主イエスは祈り、ご自分の苦悩を彼らと分かち、イエス様が苦しむ姿を見せること、また同時に自分たちの真の姿、自分の意志と肉体の弱さを気づかせ、彼らが謙遜な人として生きてゆくことを願うイエス様がここにおられたと考えることができると思います。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの傲慢さはわたしたちの傲慢さであり、彼らの弱さはわたしたちの弱さであるのです。ですから、単なる「えこひいき」ではないのです。

さて33節後半から36節の前半までを読みたいと思います。「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。』」とイエス様は祈ります。ユダヤ教では、祈る時は通常立って祈ります。エルサレムの嘆きの壁でユダヤ教の人たちが立って祈っている姿をテレビなどでご覧になったことがあると思いますが、イエス様は地面にひれ伏して祈ります。立っていられないほどの悲しみ、恐れ、苦しみがイエス様の中にあったことがよく分かる言葉です。

それでは主イエス様が「ひどく恐れ、死にそうなぐらいに悲しまれ、地面にひれ伏すまでに苦しまれたことは何であったのか」ということを考える必要があります。しかしそのことを考える前提として、主イエス様はご自分がエルサレムで祭司長や律法学者たちに引き渡されること。彼らはイエス様を死刑と宣告して異邦人であるローマに引き渡し、その異邦人から侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれた上に殺される」ということをすでに知っておられました。そしてその死の後、三日の後に復活することも十分知っておられたということがあります。ご自分のご復活、神様が甦らせてくださると知っておられるならば、恐れたり、悲しんだり、苦しむ必要はなかったのではないかと考えることもできます。しかしそうは言っても、生身の人間ですから、死を前にして精神的な苦しみや肉体の痛みを恐れたり、悲しんだりするのがわたしたち人間ですから、イエス様もそのような思いで苦しまれたのではないかと考えることもできます。

しかし、イエス様が本当に恐れ、悲しみ、苦しまれたことは、他にあったのではないかと思います。今まで経験したことのないことをこれから体験しなければならなかったからです。神の御子である主イエス様が今までに経験したことのないこと、それは神様との交わりが完全に切られてしまうこと、神様との断絶です。わたしたち人間の罪を全て一身に背負い、わたしたちの罪を取り除くあがないの供物・子羊として十字架という「呪いの木」にかけられることによって父なる神様との深くて強くて広い親密な交わり、関係性が絶たれてしまうことを恐れたのです。それは、イエス様にとって未体験のことで、神様から切り離されるというのがどのような状態の中に置かれるのか想像できない、そういう不安と恐れと悲しみの中に主イエス様はおられたと理解することができると思います。ですから、最も大いなる力と権威を持たれる父なる神様に「お父さん、あなたは何でもおできになられます。どうぞこの杯をわたしから取りのけてください」と苦しみの中で神様に祈り願うのです。

この主イエス様の祈りは、神様に対するイエス様の従順さ、神様への服従が試される時でありました。そのような中で、イエス様はご自分の心の内にあった思いをすべて包み隠さずに神様に伝えます。イエス様に従うわたしたちは、イエス様がなさったように、イエス様と同じことをしても良いと招かれています。つまり、人生の中で自分に押し迫って来る恐怖や不安に対して、恐れもだえても大丈夫。悲しんでも大丈夫。地面にひれ伏し、はいつくばっても大丈夫。叫んでも大丈夫。周りの人が関心を持ってくれなくてもイエス様が関心を持ってくださるから大丈夫。自分の正直な思いを神様にぶつけても大丈夫。どのように祈っても大丈夫いうことです。つまり、祈ることが大切なのです。

しかしながら、わたしたちは次のことがイエス様のようになかなか言えません。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。主イエス様はそのように言って、神様の御心に服従され、十字架を担って行かれました。私たちにはそのように従う自信がありません。わたしたちは本当に悲しいぐらいに弱いです。でも、そのようなわたしたちを神様と主イエス様は愛してくださいます。ですから、祈るということは、私たちにとって重要なことです。しかし最も重要なことは、「救い主イエス・キリストの御名によって」祈ることです。わたしたちの弱さをすべて知ってくださり、それでも愛して受け止めてくださるイエス様を信じて、この愛によりすがって、その主の御名によって祈る祈りが神様へ届くのです。そしてわたしたちは、主イエス様から励ましを受けて、ご聖霊の助けを受けて祈り続けてゆくことができるのです。ですから、主の御名によって祈り続けましょう。

さて、イエス様はご自分に苦しみがあったことを弟子たちにも知ってもらいたいと願いましたが、祈り終えて弟子たちのもとに戻ってみると、弟子たちは眠っています。本当にやるせない思いをイエス様は抱かれたのではないでしょうか。何度起こしても眠ってしまう弟子たち。彼らはバツが悪いと思ったのでしょうか、それとも申し訳ないと思ったのでしょうか、「彼らは、イエスにどう言えば良いのか、分からなかった」と40節にあります。しかしイエス様はそんな彼らを決して諦めません。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われます。わたしたちも日々の生活で様々な誘惑に遭遇します。誘惑との戦いの連続です。しかし主イエスは、私たちにも「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」とお命じになられます。ここで大切なことは「目を覚ましている」ということです。

二つのことを今から申します。一つ目は、眠るというのは、祈ることを止めてしまうことであり、神様の御心を大切にできなくなってしまうことであり、今の状況に満足してしまって、神様が喜ばれること、御心を行わなくなってしまうということです。

二つ目、「目を覚ましている」ということは、わたしたちの目を誘惑に向けるのではなく、救い主イエス様に注ぐということ、イエス様から目を離さないで生きるということです。イエス様から目を離した瞬間、わたしたちの視界に入ってくるのが誘惑です。自分の持ち物と周りの人の持ち物を比べたり、人のものを妬んだり、欲しがったりする誘惑が押し寄せてきます。誘惑に陥らない方法は、イエス様を仰ぎ見て、イエス様から片時も目を離さないこと、そしてこの主の御名によって祈ることです。

イエス様が「目を覚まして見なさい」と言われた見る対象は、十字架につけられたイエス様です。イエス様が自分の命を十字架上で犠牲にするほどに、あなたも、わたしも、みんな神様に愛され、イエス様に祈られ、この御子の死によって罪赦されているという救いの御業、恵みを見なさい、そして神様の愛を受け取り、イエス様を信じて、この主に従って行きなさいということ、それが神様の御心であると示されます。

皆さんは、今朝のみ言葉を通して、神様からどのような語りかけを聴かれるでしょうか。この受難週を過ごす中で、目を覚まして、祈り続けてください。その祈りの信仰生活の中で、わたしたちは少しずつでも造り変えられてゆき、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ることができる者へと神様の愛と憐れみのうちにされてゆくことを信じて、主に期待を寄せましょう。

捕らわれる直前にイエス様は、「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言われました。ここに弟子たちに対する最後の命令があります。「立って、行こう」です。「立って」というのは、神様がイエス様を通して与えてくださる信仰に堅く立つということです。「行こう」というのは、神様の御心に服従して、神様に信頼して前進して行こうということです。日々の生活の中で試みに遭う時、恐れをいだきそうになる時、人が自分に対して無関心であっても、裏切られることがあっても、イエス様から目をそらさずに、主と共に、主の導きに従って歩んでまいりましょう。