「神の御心を第一にしつつ」 新年礼拝 宣教要旨 2014年1月5日
テサロニケ人への第一の手紙4章1〜8節、5章16〜18節 牧師 河野信一郎
元旦礼拝で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。それがキリスト・イエスにあって神がわたしたちに求めておられることである」という御言に聞きましたが、この三つの戒めはすべて神さまに対する恵みへの応答です。キリストを通して神から恵みが与えられていることをいつも神に対して喜び、キリストの御名によって神に直接お祈りし、どのような時も神から愛と憐れみが注がれていることを神に感謝するのです。しかし、この3つの戒めさえも守れずにわたしたちは苦しみますので、救い主が与えられました。ですから、「キリスト・イエスにあって」と記されているのです。ほんとうに感謝ですね。
さて、元旦礼拝後にある方が「なぜ神さまはこの3つのことをわたしたちに求められるのでしょうか。神さまの御心、目的は何ですか」と尋ねられました。皆さんは、判りますか。
第一テサロニケ4章3節に「神の御心は、あなたがたが清くなることである」とあります。主イエスにあって神に対していつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝することによってわたしたちは清められ、神に喜ばれる者として変えられてゆく、つまりキリスト・イエスに似た者へと変えられてゆきます。
なぜ清められることがわたしたちに必要なのか。それは御国へ入れていただくためには今のままの状態では入れないから、清くならねば御国に入れられ、聖なる神の御前で主を誉め讃えることができないからです。あなたは今の状態のままで天国に迎え入れられるとお思いですか。「信仰によって義とされている」と信じて救いを喜び、感謝していれば問題はないでしょう。
しかし、「信仰によって義とされる」と神の恵み、キリストの福音を先頭に立って宣べ伝えた使徒パウロがなぜ「神の御心はあなたがたが清められる」と言うのでしょう。
また、同じ第一テサロニケ2章12節でなぜ使徒パウロは「あなたがたが御国とその栄光とに召してくださった神の御心にかなって歩くようにと勧め、励まし、諭した」と言ったのでしょう。それはわたしたちが御心にそって生きてゆく中で清くなるためです。わたしたちが主イエスにあって清められてゆくことが神の御心、神が喜ばれることなのです。
ですから4章3節後半以降に、あなたがたは「不品行を慎み、自分の身体を清く保ち、神を知らない異邦人のように情欲を欲しいままにせず、兄弟を踏みつけたり、騙してはならない」とあります。ここでパウロは性的倫理について語っており、それも重要ですが、最も重要なのは7節の「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためでなく、清くなるためである」ということを心に刻みつけることなのです。もし清められることを拒む者は、神を拒む、御国への神の招きを拒むのですと8節にあります。
わたしたちはいつも信仰をもって気を付けて歩み、神が喜ばれない環境に自分を置かないように最大限の努力をし、更に主のお助けとお守りを祈り求める必要があるのです。わたしの歩みは御心に沿っているか。どのように神に喜ばれる歩みができるだろうかと考え、主イエス・キリストと聖霊の導きがいつも必要です。
わたしたちが日々清められ、神の恵みを主にあって喜び、絶えず祈り、すべてに感謝することができるため、主イエスがわたしたちのためにカルバリの十字架で何をしてくださったか、つまり十字架に架けられた贖い主イエスを見上げる必要があるのです。わたしたちを清めることができる唯一のお方はイエス・キリストです。この救い主がわたしたちを愛してご自身の命を与えてくださり、3日後に甦られたので天国の道が開かれ、恵みとして清められる道が与えられました。この一年も、救い主イエスを見上げ、神と隣人と教会を愛し、仕えましょう。