神の忍耐と信仰者の忍耐

「神の忍耐と信仰者の忍耐」 八月第四主日礼拝 宣教 2025年8月24日

 ヘブライ人への手紙 12章1〜11節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。毎日暑い日が続きますが、今朝もこのように、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできて主に感謝です。今週も真夏日が続く予報ですので、不要不急の外出は避けていただき、体調管理を優先してお過ごしください。主のお守りをお祈りしています。

 

さて、水曜日の祈祷会は今週までお休みで、来週9月3日から再開されます。再開と同時にヨハネによる福音書を1章から読んでゆく学びが始まります。24章からなるルカ福音書を丁寧に聴くことに3年半を要しましたが、21章からなるヨハネ福音書はどれくらいの期間を要するでしょうか。マタイ、マルコ、ルカ福音書という共観福音書とは違った角度・切り口でイエス様の救い主としてのお姿と教えが記されている福音書です。この機会に水曜祈祷会への出席をお祈りください。また、9月は「教会学校月間」です。日曜日の朝10時10分から40分までの30分間の成人科クラスです。9月はヨシュア記を読みます。1時間早めに家を出るのは大変だと思いますが、それ以上の恵みを受けられると思いますのでご参加ください。

 

さて、8月は「忍耐」という言葉をキーワードに、聖書から神様の語りかけをご一緒に聴いていますが、先週と今朝はヘブライ人への手紙から忍耐について聴くように導かれました。わたしたちは、自分や家族の病気や怪我であったり、介護、育児、勉強、仕事、生活の貧困など様々な課題や問題に直面しながら、忍耐力が試されます。特に人間関係に関連する諸問題は、最も神経の使うこと、厄介に思えること、我慢・忍耐を必要とする案件が連日の様にあります。しかし、そのような悩ましい重荷にさえ、意味と目的があるとこの手紙はわたしたちに教えるのです。父なる神様がわたしたちを鍛錬するために苦難があるというのです。

 

前回もお話ししましたように、ヘブライ人への手紙は、イエス様を信じる信仰ゆえに厳しい迫害や投獄の危険に晒され、愛するエルサレムを離れなければならなくなったユダヤ人クリスチャンたちを励まし、イエス様を救い主と信じる信仰に踏みとどまらせるために書き送られました。ある者たちはイエス様を信じるがゆえに投獄され、暴力や様々なハラスメントを受け、ある者たちは財産をすべて失い、多くの人々は住み慣れた町を離れて各地に離散してゆかなければならなくなったという背景が10章33節と34節からうかがえます。

 

この手紙が書き送られた目的は、時代がどのように移り変わっても、イエス様を救い主と信じる者たちがどのような苦難に直面しても、神様の祝福の約束と誓いは絶対に変わらないし、この約束と誓いはイエス・キリストによってすでに果たされている。だから十字架で贖いの死を遂げてくださり、神様によって甦らせられたイエス様だけに目を注ぎ続けなさい、苦難の中に置かれていても主イエス様だけに信頼し続け、この主につながり続け、信仰に留まりなさいと励ますのです。主イエス・キリストに絶対的な希望があることを再確認させるのです。ですから、たとえ今この時、人生の中で大きな苦しみに遭っていても、人生の中で希望も持てない絶体絶命的な状況に置かれていても、イエス様だけを見続け、信じ続け、従い続けなさい、神様とイエス様は決してあなたを見捨てたり、手放すことはないから、主イエス様の御手をあなたから離さないで歩み続けなさいとこの手紙は励ますのです。

 

神様とイエス様は真実なるお方ですから、神様に信頼をおく者は、イエス・キリストに伴われて歩むことができ、魂に安らぎが与えられ、忍耐しながら前進する力が日々与えられてゆくのです。そしてその先に、約束された永遠の命、永遠の祝福があるのです。神様の約束の言葉であるイエス・キリストを救い主と信じ続けるための訓練が苦難・試練なのです。

 

12章1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。厳しい迫害の中で、苦難の中で意気消沈しているクリスチャンたちを励ますために、この手紙を記した記者は11章で旧約の時代に神様の言葉に信仰をもって聞き従った人たちを証人の群れとして何人も挙げています。

 

記者は、この人たちが素晴らしいから人生の手本としなさいと言っているのではありません。この人たちは、神様がいかに真実なお方であるかをその生き様を通して証言した人たちなのです。この真実なる方があなたがたの側にいると言い、それが「信仰の創始者また完成者であるイエス」であると言うのです。ですから、蜘蛛の糸の様にあなたの心に絡みついてあなたを苦しめるすべての重荷や罪をイエス様に一切合切委ねて、あなたが走るべき競走をイエス様を見上げながら忍耐強く走り続け、走り抜きなさい、途中で諦めてはいけない、イエス様の手をあなたから離してはいけないと励ますのです。

 

2節に、イエス様は「信仰の創始者また完成者である」とあります。わたしたちに信仰を与えてくださったのはイエス様であり、わたしたちを神様のおられる約束の地へと導き、救いを完成してくださるのもイエス様であると言うのです。ですから、自分で頑張るより先に、イエス様を見上げなさい、そして主イエス様に委ねながら歩み続けなさい、そうすれば信仰の競走を走り抜くことができ、大きな喜びと祝福を受けることができると励ますのです。

 

この喜びと永遠の命をわたしたちに与えるために、「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んでくださった」と記者は記し、そのイエス様を父なる神様は死から甦らせ、天に戻して神の玉座の右に座らせられたと記し、神様は真実なるお方であることをわたしたちに知らせ、希望を捨てずに信頼しなさいと励ますのです。

 

この神様の真実さを体験させるために、自分の力だけではどうしても解決できない苦しみがあるのです。わたしたちを苦しめ、生きる気力を失わせ、疲れ果てさせ、信仰を捨てさせるために苦しみや試みがあるのではありません。わたしたちを訓練するために、さらなる成長を与えるためにあることを知りましょう。少し飛びますが、5節と6節に、「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』」とあります。

 

この括弧内の言葉は箴言3章11節・12節からの引用ですが、この「鍛錬」とは子どもを教育するという意味です。つまり、神様はわたしたちを鍛え、育てようとしておられるのだから、それを軽んじてはならない、つまり神様の真意、目的を少しも理解しないで勝手に気落ちしてはならないと言っているのです。7節でも、「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを(神の)子として取り扱っておられます。」というのです。

 

この言葉を読んで、これは時代錯誤だと思われる方もおられることでしょう。これは明らかに人格否定、人権侵害、ハラスメントだとおっしゃるかもしれませんが、神による人権侵害だという前に、わたしたち一人ひとりを造られ、愛をもって生かしてくださる神様の御心をわたしたちが無視して自己中に生きていることが神様の御心を侵害していること、神様の愛を、イエス様の死を台無しにしていることをわたしたちは知るべきではないでしょうか。

 

また、わたしたちは、神様がなぜわたしたちを鍛錬されるのかという真の目的を知る必要があります。その目的が10節に記されています。「御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」という言葉です。この言葉の前に、「霊の父(である神)はわたしたちの益となるように」とあります。わたしたちを神の子とするために神様はわたしたちを鍛錬されるという目的があることをしっかり捉える必要があるのです。

 

3節に戻りますが、わたしたちを神の子とするためにイエス様が人々の拒絶・反抗を忍耐され、わたしたちを救うために十字架上で恥や苦しみを忍ばれたこととわたしたちの苦しみを比べてみなさい、わたしたちの身代わりとなって罪をすべて負ってくださった方のこと、イエス様が苦しまれたのはいったい誰のためであったかをよく考えてみなさいと言うのです。

 

4節に、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」とありますが、イエス様はあなたを救うために十字架上で血潮を流して罪と戦ってくださり、その命を与えてくださったのに、イエス様から与えられた信仰を守るために、イエス様と共に生きるために死に物狂いになるまで罪に抵抗してはいない、いつも妥協して生きていると言うのです。その命を捨ててまでもわたしたちに永遠の命を与えてくださるイエス様を捨てて、罪に満ちた生活に舞い戻るのですかと問われているようです。本当にそれで良いのか。

 

今回の御言葉は、神様とイエス様の忍耐は、わたしたちを愛する愛に根差したものであることが分かります。と同時に、イエス様を救い主と信じる信仰者の忍耐は、神様とイエス様に愛されて、赦されて、祈られていることを信じ、感謝し、委ねる信仰に根差したものであることをも知らされます。

 

11節に、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」とあります。

 

確かに苦しみは辛くて悲しいもので、できれば避けたい。しかし、今の苦しみを神様からの鍛錬であると捉え、その主なる神様に信頼する者たちは、その苦しみの中で神の御国へ入る時に不必要なものがすべて削ぎ落とされ、神の国で永遠に生きられる神聖な者として造り変えられているプロセスの中にいると信じる時に、神様の目に義とされる実を結ぶことが主の憐れみによってでき、神様との平和を実感できるのだと思います。だからこそ、今の苦しみを耐え忍び、イエス様だけを見つめて、イエス様の声と導きの言葉に聴き従いなさいと励まされていると感じます。わたしたちに対する主の愛と忍耐に感謝いたします。