「神の恵みを無にしない」 6月第二主日礼拝 宣教 2020年6月14日
ガヤテヤの信徒への手紙 2章15〜21節 牧師 河野信一郎
先週に引き続き、今朝も、この礼拝堂でご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。先週は、3ヶ月ぶりに皆さんを礼拝者としてお迎えしただけでなく、予想以上の出席者が与えられましたので、わたしはだいぶ緊張いたしました。その晩の夕食の時に、子どもたちから「今日の礼拝は緊張していた所為か、お父さんずっと噛み噛みだったねぇ」と愛情を込めて冷やかされました。宣教中に何度も言葉を言い間違えたり、どもったりした事をよく理解している私は、苦笑いするしかありませんでしたが、とっても感謝な時間でした。礼拝をおささげした以上の祝福を神様からいただきました。皆さんは、礼拝者として3ヶ月ぶりに戻ってこられた時、教会やこの礼拝堂はどのように皆さんの目に映ったでしょうか。新鮮に感じられたという方もいれば、何も変わっていなくてほっとしたという方もおられたかもしれません。大切な神の家族と一緒に賛美と祈りをささげ、聖書に記されている主の言葉を聴く中で主がそれぞれにお語りになられ、恵みをお与えくださったと思います。
さて、今朝も宣教に入る前に、皆さんと分かち合いたいことがあります。ある方は、「牧師の小話がまた始まった」と思われるかもしれませんが、「小話・例話がうまい説教者は、良い説教者だ」と神学校で説教学を教えてくださったジェイムス・コックス教授が言っておられました。写真をお見せしたいと思いますが、4年前の2016年2月に93歳で天に召されましたが、南部バプテスト神学校で40年以上も説教学を教えられた、説教学界ではかなり有名な先生です。そのコックス先生が、大切なことを2つ教えてくださいました。一つは、「あなたが語る今日の説教・宣教を人生最後の説教・宣教というつもりで語りなさい」ということ、もう一つは「良い説教者・宣教者は、聖書に記されている神の言葉・主イエスの言葉をただ語るのではなくて、その言葉を聴く者たち、リスナーが日常生活の中で適用・応用・使用・利用できるように励ますこと、それができないと説教者・宣教者は神から委ねられている働きを十分に果たしたとは言えない」という、この2点をかれこれ25年前に教えていただきました。
さて、小話の一つ目です。先週の宣教の中で、厚生労働省から支給されたかの有名なマスクを必要とされない方々から集めさせていただき、劣悪な環境に置かれているフィリピンの子ども達に配布したいと呼びかけさせていただきました。近隣へも呼びかけをしようとメッセージボードを娘に準備してもらい教会前に置きましたら、今日までに21世帯からマスクが42枚寄せられています。そのうち17世帯は、近隣の方々がポストに入れてくださいました。教会前の細い道を行き交う方々にアピールしてこんなに集まるなら、東新宿駅の前で呼びかければ良かったと欲がつい出るぐらいでしたが、そもそも「そんなに集まらないだろう」とダメ元で始めたことですので、欲が出たというのは世俗的な肉の思いであって、霊の結ぶ実ではないと思わされ、悔い改めました。4月中旬に開始されたこのマスク配布は、2ヶ月も過ぎて明日やっと完了される予定と政府高官が自慢気に言っておられましたが、配布しても使われなければ、家のどこかにポイっと放置されたままでは全く意味がありません。そのようなマスクをフィリピンの子ども達に届けられたらいいなぁと願っています。28日まで集めていますので、お知り合いにも是非呼びかけていただき、大久保教会へお持ちくださるか、お送りいただきたいと思います。
さて、大久保教会では、去る7日の礼拝から、礼拝を二部制にし、第一部はオンライン配信の1時間とし、第二部は教会にいらっしゃった方々を歓迎し、証しや様々な分かち合いをする時とし、第一主日では主の晩餐式を守ることになりました。今日は、新年度が始まって既に2ヶ月が過ぎておりますが、2020年度の執事を紹介して祝福のお祈りをささげします。本当は、先週の礼拝第二部でする予定でしたが、前の週から緊張していたわたしはそのことをすっかり忘れてしまい、執事さんたちには本当に申し訳ないことをしてしまいました。
また献金は、礼拝の中で神様へお献げするのではなく、礼拝の前後で自由にお献げすることになりました。近いうちに転入会なども予定されていますが、それらも第二部で行います。新型コロナウイルス感染防止のための外出自粛前とその後の礼拝では、変更を余儀なくされること、難儀さを感じたりすることも今後もあると思いますが、神様への信頼と祈りと寛容さを常にもって、ご一緒に前進したいと思っています。このような不自由さも「楽しむ」、コロナと一緒に生きるぐらいの気持ちにゆとりを持って、みんなで仲良く歩んでゆきたいと願っています。ノー天気と言われるかもしれませんが、「教会が感染のクラスターにならない」という細心の配慮をもって、礼拝者たちをお迎えし、共に礼拝をお献げし、そしてここから証し人、世に仕える者として派遣されてゆきたいと願います。
さて、二つ目の小話。先週の礼拝ライブ配信かビデオをご覧になされた方が次のようなコメントを寄せてくださいました。「講壇から会衆まで距離があるので、マスク外しても良いではないでしょうか。力強いメッセージは先生の表情からも伝わるだろうと思いますが」とありました。確かに、私も当初マスク着用をどうにか回避できないだろうか、例えばこの講壇に大きなアクリル板のシールドを作ってみてはどうかと悪あがきをしましたが、わたしたち大久保教会の教会員であり、感染症のスペシャリスト、若いけれども優秀な医師から「シールドよりもマスク着用の方が絶対的に有効」という強い言葉を受けて、信頼できる彼のアドバイスに従おうと執事会で一致しました。検温、手洗いと消毒、全員マスク着用、ソーシャルディスタンスが守られ、そして換気が適度にできていれば集団感染の危険度は低いという医師の言葉を信じて、宣教者もマスク着用と腹をくくって始めてみましたが、やってみるとそんなに違和感はありません。わたしたちが一緒にこのようにすることで教会がクラスターになる危険度を下げることができますし、大切な兄弟のような医療従事者の方々の健康を守り、今後の負担を軽減することにつながります。礼拝の中でマスク着用が必要でなくなる日が一日も早く訪れるように、皆さんと一緒に愛に生き、忍耐し、共に祈り続けたいと思います。
新型コロナウイルスに悩まされ、翻弄されている中でわたしたちが常に大切にすべきことは、イエス・キリストを通して神様から与えられている「信仰」に生きることです。この「信仰」という恵みのうちに今朝も生かされていること、その幸いを純粋に喜び、心から感謝する、それが神様と主イエス様の喜ばれる霊の結ぶ実であり、心を込めた生きた聖なる礼拝であると信じます。
この「信仰」は、救い主イエス・キリストに聴くことから始まります。ローマ書10章17節で、パウロ先生は、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と書き記していますが、これはこういう風に捉えることができると思います。わたしたちがコロナウイルスの感染から守られ、自分だけでなく家族や周りの人たちの健康と命を守るためには、感染症のスペシャリストである医師の言葉を信頼して、その言葉、アドバイスに従うことが大切であるように、神様に造られ、キリスト・イエスによって罪赦され、憐れみによって救われ、恵みの中にいま生かされているわたしたちは、神様と主イエス様の喜ばれる霊の実を結び続け、永遠の命への道を歩み続けるため、主イエス様の言葉に常に聴き従って行くことが最重要であるということです。主から差し出されたイエス様の御手をしっかり握りしめ、絶えずつながり続け、この主イエス様の言葉に信頼を置き、キリストの言葉に常に聴き続けることが重要です。常にイエス様の伴いの中で歩む人は、神様の憐れみと助け、ご聖霊の力によって霊の実を結ぶ恵みに与ることはあっても、怒りや争いや敵意や不和や仲間争い、妬んだり、比較し合ったり、偏見を持ったり、差別したり、姦淫するという肉の業を行うことはあり得ないとパウロ先生は確信しています。
さて、今朝は「神の恵みを無にしない」というガラテヤの信徒への手紙2章21節を中心に聴いてゆきたいと願っていますが、2週間前の宣教でお話ししました2章11節から今朝の21節までには、大切なテーマが横たわっています。それは、教会の指導者であり、キリストに忠実に従う者として長年歩んできたとしても、いくら熱心であったとしても、わたしたち一人一人には、「福音の真理から逸れてまっすぐに歩まなくなってしまう」危険性と「イエス・キリストを通して神様から与えられている恵みを台無しにし、イエス様の十字架の死を無意味にしてしまう」危険性がいつも付きまとっているから注意しなさいということです。
感染症のスペシャリストの兄弟のアドバイスを聞かないで、わたしたちが感染防止対策を全くしなければ、わたしたちが恐れている教会が感染のクラスターになるという可能性は大きくなります。そうなりますと、地域の方々に悪い印象を与えてしまうだけでなく、キリスト教会に対する社会の不信感を増すことになります。つまり、この大久保教会がこの大久保の地で半世紀以上にわたって証ししてきたことがほぼ全て無駄になってしまうということです。
では、14節に記されている「福音の真理にのっとってまっすぐに歩くことができなくなってしまう原因」は何なのかとなりますが、ここで心に留めるべきことは二つあります。一つは、「福音の真理」とは何かをはっきり知ることです。「福音の真理」とは、16節に記されていることです。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」とあるように、主の憐れみと恵みとによってイエス様を救い主と信じる信仰によって救われる、救われている良き知らせを信じ、喜ぶということです。
二つ目に心に留めるべきことは、「まっすぐに歩くことができない原因」は何なのかということです。その原因の具体的な例が11節から13節に記されていて、使徒ペトロというエルサレム教会の指導者が犯した間違い、彼の弱さでした。その間違いというのは、ずっと見つめておくべき主イエス様から目をそらして、目の前にいるユダヤ主義的キリスト者を見て恐れ、彼らに悪い印象を与えないようにと自分を良く見せようとしたことです。そして彼の周りにいた人たちもペトロから悪い影響を受けてしまったのです。もう少し言葉を変えて説明しますと、イエス様を救い主と信じる信仰によって与えられた救いを喜ばないで、信仰プラス律法も守ることで救われるという間違った福音理解を認めてしまった、つまり自分の努力、行いをもって神様とイエス様を喜ばせようとしたということで、それに対してパウロ先生は「それは絶対に違うだろう。あなたは間違っている」とみんなの前でペトロを厳しく指摘したのです。この部分は、絶対に譲れない重要な部分であり、福音の真理であったのです。
16節の後半で、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」とパウロ先生は言っていますが、「義とされない」というのは、「神様は喜ばない」ということです。ですから、律法を実行するという人間の努力を、神様は喜ばないということです。律法を実行する時代、自分の知恵と力、信念や努力で生きる時代はもう終わったのです。そして、主イエス・キリストの十字架の死とご復活の出来事によって、新しい時代、恵みの時代が神様の愛と憐れみのうちに始まったのです。その良い知らせを聴いて、イエス様を救い主と信じて、悔い改める人、つまり今まで神様に背を向けて歩んできた人生を180度転換させて、イエス様に聴き従う人に、神様にしか与えることができない「救い」が与えられるとパウロ先生は言うのです。
19・20節で、パウロ先生は「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法に死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と言って、罪に死に、今はキリストの恵みの内に生かされているという幸いを感謝し、分かち合っているのです。わたしたちもこの恵みに今朝招かれています。この恵みへの招きを素直に受け取り、自分の力で生きることをやめ、神様の愛と恵みの中に生かされましょう。神の恵みを無にしていないか、イエス様の愛を無意味にしていないか、いつも自分と向き合い、神様の愛・恵みの中に置かれている幸いを感謝しつつ歩みましょう。