「神の愛が多くの罪を覆う」 二月第二主日礼拝 宣教 2023年2月12日
ペトロの手紙Ⅰ 4章7〜11節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて、本当に感謝です。昨日今日はとても暖かいですが、今週は寒暖差が激しい週になるそうですから、体調にはくれぐれも気をつけてお過ごしください。神様のお守りと祝福をお祈りいたします。
また、トルコとシリアで発生しました大地震によって大切な家族や友、同胞を失い、悲痛な思いの只中に置かれ、支援を待っている大勢の被災者の方々を覚えて祈りましょう。連盟からも支援献金の要請が届くと思いますが、祈りつつ、備えをしておきましょう。来月11日は、東日本大震災から12周年を迎え、13年目に入ります。わたしたちの教会は岩手、宮城、福島にある3つの教会を覚えて祈り、支援献金を毎年送っています。今年もその時期が近づいています。被災地に建てられ、人々と共に歩んでおられる諸教会を覚えましょう。
さて、今朝のメッセージのキーワードは、ズバリ「覆う」です。コロナパンデミックに入ってから、わたしたちはマスクを着けて生活するようになりました。わたしは、家族の中でマスク着けることに抵抗があった唯一の者でしたが、自分がウイルスに感染しないため、また誰かを感染させないために着けることを受け入れました。わたしが感染したら、礼拝が止まり、教会の営みが滞ってしまうという危機感を持ったからです。しかし、とにかく息苦しいこと、メッセージする時もマスクが動いて、何度もうんざりしたことがありましたが、とにかく、この3年間、わたしたちはお互いの健康と命と生活を守るために、礼拝の時も、祈祷会の時も、交わり時も、いつもマスクを着用して、顔の半分を覆って生活してきました。
先週テレビで見たニュース番組で、3年間マスクを着けて学校生活をしてきた高校生たちがマスクをしないで卒業式に臨む高校があることを知りました。入学してからずっとマスクを着けて勉強し、部活や色々な活動をしてきて、高校生活最後の一日にマスクを取って良いと言われる。ある学生はその日が待ち遠しいと言い、ある学生はちょっと恥ずかしいと言い、ある学生は少し抵抗があるけれど本心は嬉しいと言っていました。
昨日の執事会でも今後について協議しましたが、専門医の兄弟に相談をし、3月下旬までにはガイドラインを提示し、4月から自由にしてはどうだろうかと話しをしました。コロナ前から共に教会生活をしている方々のお顔はよく覚えていますが、パンデミック中に出会い、共に礼拝をささげ始めた方々のお顔はマスクから上の部分しか分かりませんから、お顔の全容が分かる日を楽しみにしています。わたしの顔は3年前とそんなに変わってはいませんが、黒かった髭はだいぶ白くなりました。もうしばらく祈りつつ、その時を待ちましょう。
さて、大久保教会では屋根と壁の改修工事が現在進んでいます。建物の周りには足場が組まれ、建物は布で覆われていますので、室内はとても薄暗い状態です。曇りや雨の日はさらに薄暗いです。皆さんも、いつもと違う雰囲気を感じておられると思います。オンラインで出席されている方々はそんなにお感じになられないかもしれませんが、照明をすべて消すと、この礼拝堂もけっこう薄暗くなります。わたしは、教会の建物が布で覆われている状態を経験することを通して、様々なことを感じさせられ、考えさせられていますので、皆さんといくつか分かち合わせていただき、今朝の聖書の御言葉に聴いてゆきたいと思います。
まず一番困るのは、暖かい日差しが室内に差し込まないということです。室内はいつもより寒く感じます。一番影響を受けるのは大切な植物たちです。教会内の植物は造花ではなく、すべて生きている植物ですが、植物が成長するためには水、光、空気、ミネラルという4つの要素が必要です。そのうちの太陽の光が室内に十分に入ってきませんので、植物の管理が非常に難しくなります。先日、観葉植物の土の表面に白カビがうっすらと生えて来ていました。水と空気とミネラルがあっても、光が十分でないからです。この状態のままにしておくと根腐れが始まり、植物は死んでしまいます。ですから、暖かい日には、植物を外に出して日光を浴びさせ、夕方には室内に入れてあげます。植物は太陽の光と熱が必要なのです。
わたしたちも同じです。わたしたちの心も、不安や迷い、恐れや悲しみで覆われてしまいますと、大切な光を取り込めなくなってしまい、心はジメジメとし、次第にカビが生え、根腐れのように心が蝕まれてゆくわけです。最終的には心が死んだ状態になってしまいます。
数週間前に日本各地に大雪が降り、大地は大雪で覆い尽くされて混乱が起き、道路では大変な渋滞が生じました。雪が降り注ぐ時は、毎日、朝、昼、晩と雪かき、雪下ろしをしなければなりません。屋根から雪を降ろさないと雪の重さで家全体が崩壊する危険があるからです。しかし、ご高齢の方々には雪下ろしはできないことです。
それだけではありません。原材料価格や物流費などの高騰で、食品や生活必需品は度重なる値上げが行われ、また原油などの高騰により電気やガスの光熱費の値上げが各家庭の経済状況を逼迫させています。食費などを切り詰めて行かなければ生活ができません。そのために多くの人々は頭を抱え、心は不安で覆い尽くされています。生活が苦しくなる事を恥ずかしいと感じる人もいるでしょう。詩編などの旧約聖書には、「恥があなたを覆う」であったり、「辱めに覆われる」という言葉がありますが、「恥で覆われること」は「主がわたしたちから隠れている」からと理解し、嘆き悲しんだ人々の心境が詩編で歌われています。
イザヤ書60章2節の前半に、「見よ、闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」とあります。まさしく今の時代に共通することですが、預言者イザヤに託された言葉はそれだけでは終わらないのです。2節の後半に、「しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と救いの約束が記されています。愛と憐れみの神がわたしたちの心に光を放ち、生きる力を注いでくださるというのです。つまり、わたしたちは神様という大きな存在が生きて働いておられること、その神の愛の中で生かされていることを体験するのです。
しかし、この愛を、この救いを受けるためには、どうしても回避できない事が一つあります。それは、神様を信じるという信仰を持つことです。この信仰がないと、心は笊のような状態ですから、神様の愛が豊かに注がれてもそれを心に受け止めることができません。この愛を受け止められないと、心は満たされませんから、不安や恐れ、迷いや恥ずかしいという思いに覆われた状態が続き、その中で苦しみ悶えます。
絶えず息苦しさを覚え、ストレスを抱えて生きることになり、それが心を蝕み、正気を失わせ、心の中で悪い思いを起こさせ、自分を苦しめるだけでなく、周りの人たちを傷つけたり、苦しめたり、悲しませたりすることになり、それが繰り返される中で、関係性は朽ちてゆき、ふと気付いたら、わたしたちは孤独になっているのです。しかし、それはすべて、わたしたちの内にある「罪」が原因なのです。この罪の問題は、自分の力だけでは解決できません。神様の助けが必要なのです。ですから、神様を信じる信仰が必要なのです。
今朝の礼拝への招きの言葉として読みました詩編32編の1節と2節に、「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」とあります。この言葉の意味がお分かりになられるでしょうか。わたしの罪、あなたの罪、わたしたちの罪を主なる神様が赦してくださり、帳消しにしてくださった。それゆえにわたしたちの罪は数えられなくなり、罪から解放されている。なんと幸いなことでしょうか、ということです。
神様はわたしたちの罪を帳消しにするために、そのひとり子を贖いの供え物として十字架に付けられました。そのひとり子とは、救い主イエス・キリストです。神様は、わたしたちを苦しみの原因である罪から解放するためにそのひとり子を与えてくださいました。それは、この御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです。それほどまでにわたしたちは神様に愛されています。しかし詩編32編の10節には、「神に逆らう者は悩みが多い」とあります。神に逆らう者とは神様の愛を受け取らない人、イエス様を信じない人です。信じる、信じないという自由はみんな平等にあります。しかし、聖書は真実をはっきりと記します。「神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる」と。
さて、わたしたちの心を覆い尽くしている悩みや苦しみ、怒りや悲しみ、不安や恐れから解放される方法は、神様を信じることです。神様がこの世に遣わしてくださり、わたしたちを罪から解放するためにその命を与えてくださったイエス・キリストを救い主と信じることです。何故ならば、イエス様が神様の愛、そのものであるからです。このイエス様を信じるということは、神様の愛に覆われるということです。大切なのは、神様の愛で傷ついた心を覆ってもらうこと、愛に包み込まれて、この愛の中で生きるということです。
イエス様の弟子であった使徒ペトロは、クリスチャンたちに対して、「万物の終わりが迫っています」と手紙の中で言っています。2000年の前の言葉ですが、この手紙が記された頃よりも終わりがさらに迫ってきていると心をしっかりさせることが大切です。万物の終わりが来るとは、すべての人が神様の前に置かれる日が来るということです。わたしたちは、神様の前に立ち、どのような人生を歩んできたのかを説明しなければなりません。ですから、その日が来る前に、備えをする必要があります。その備えの第一歩は悔い改めるということです。これまで自分勝手に生きてきたこと、その間違いを素直に認めて、神様に心を向け、神様に向かって生きてゆくこと、それが悔い改めです。そして次に「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」とペトロは励まします。神様はわたしにどのように生きて欲しいか、どのように生きることを喜ばれるかを求めながら、祈りながら生きることが大切です。
イエス・キリストを通して神様に愛されている者として、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」と8節にあります。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われました。これが神様の御心なのです。この御言葉に心を集中するのです。人の言葉や行いに集中すると人を裁くことになります。わたしたちの思いというのは小さくて弱くて儚い。しかし、神様の愛は偉大です。この愛をイエス様につながることで受けてゆくことができ、互いに愛し合うことが可能になります。何故ならば、神様の愛だけがわたしたちの多くの罪を覆うから、つまり罪を赦すからです。
神様に愛され、罪赦された者として、「不平を言わずにもてなし合いなさい」と9節にあります。これが愛し合うことの具体的な行為です。すごいですね、「不平を言わずにもてなし合いなさい」と励まされています。不平を言わずに仕えるということでもあります。けっこうハードルが高いように感じますが、皆さんは不平を言わずにもてなす方法をご存知でしょうか。唯一の方法は、「イエス様がその命をもってわたしをもてなしてくださった、仕えてくださった、救ってくださった」ということをいつも忘れず、感謝し、喜ぶことです。わたしたちは、イエス様のもてなしを主の晩餐式の中で毎月体験しているではありませんか。その大切なことを忘れてしまうと、心は不平不満で満たされることになってしまいます。
さて、10節に、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と励まされています。賜物とは神様がそれぞれに与えてくださる才能や能力です。「賜物」と訳されているギリシャ語は「カリスマ」です。神様の「恵み」はギリシャ語で「カリス」です。つまり神様からの恵みとして与えられている才能、能力を管理し、互いを祝福し合うために用いなさいということです。それをすることが「神の恵みの善い管理者」なのです。
牧師や宣教師や教師は、神様の言葉を正しく語る責任があります。教会に連なる人々、クリスチャンは、「神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」と励まされています。皆さんそれぞれ素晴らしい才能をお持ちです。みんなが違う才能をもっていることが本当に素晴らしいのであり、それを持ち寄る中で教会は形作られてゆきます。
しかし、神様への一番の奉仕は何でしょうか。それは礼拝をささげるということです。神様を喜び、賛美と礼拝をささげること、御言葉に耳を傾けて聴くことが、わたしたちの平安となり、希望となり、生きる力になるのです。ですから、礼拝を大切にしましょう。「神がお与えになった力に応じて奉仕する」とありますが、無理をしないでということです。無理をすると信仰に大切な「喜び」がなくなってしまいます。それは本末転倒です。自分がしていることに喜びがなくなっているならば、それは与えられた力を超えて働いている証拠です。
礼拝と奉仕に喜びがなくなったら、また悩みや苦しみに覆われることになります。そうなれば、神様の愛と恵みを分かち合うことなどできるはずはありません。神様の愛に覆われ、その愛の中で生かされていることを喜び、感謝し、祈りと賛美と礼拝をささげてゆきましょう。それがわたしたちの生きる目的であり、それこそが「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになる」ことなのです。「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」