「神の愛とキリストの忍耐を深く悟る方法」八月第二主日礼拝 宣教 2025年8月10日
テサロニケの信徒への手紙二 3章1〜5節 牧師 河野信一郎
おはようございます。2025年8月10日の主の日の朝を迎えました。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。8月は、広島と長崎の原爆の日、そして終戦記念日がありますので、日本はこの月を平和月間として過ごし、わたしたちの教会でも、今朝の礼拝を「平和を覚える礼拝」としておささげしています。
今年は、広島と長崎の原爆の日、そして敗戦記念日から80周年を迎えましたので、報道がいつもより熱が入っているように感じます。世界の人々の戦争や原爆被害に対する意識もだいぶ変わってきているとの報道もなされています。日本の平和だけでなく、世界全体の平和を祈り求める必要性が、ありとあらゆるところから叫ばれています。
しかし、昨日の長崎市長による長崎平和宣言の中にありましたように、世界各地では対立と分断の悪循環が起こり、紛争がさらに激化しています。わたしたちの手では施しようのないほど悲惨と言いましょうか、絶望的に見える地域が地球上にあります。しかし、広島の平和式典に出席していたパレスチナからの外交官が「80年前に原爆被害に遭った広島が今これだけ復興できたことを目の当たりにすると、自分たちも希望が持てる」と言っていました。
また、ある報道機関が、ウクライナやパレスチナの解放を訴えている人の数は多いが、それ以外の場所で何十万人、何百万人という数の人々が宗教を理由に激しい弾圧や厳しい迫害を受けている真実が報道はされていないと指摘していました。真実をわたしたちはもっと知る必要があると思いますし、そのために神様に憐れみを祈ってゆく必要があると感じます。
これはある意味、笑い話としてお聞きください。つい先日、わたしは子どもから「お父さんの最近の宣教は社会問題を取り上げ過ぎてはいないか」と言われました。わたしはその言葉を聞いて驚きました。そういう意識をまったく持っていなかったからです。しかし、振り返ってみますと、本当にそうだなぁと思わされるのです。どうして社会問題を最近取り上げてばかりいるのか。それはたぶん、わたしの目や耳、心に飛び込んでくるニュースや情報があまりにも悲惨すぎて、主イエス様の再臨が近づいているように感じ、社会が抱えている課題や問題に憂えているからだと思います。礼拝に集う皆さんにも同様な気持ちを抱かせていたのであれば、反省をし、お詫びし、御言葉のみを語ることに集中いたします。
さて、8月は「忍耐」という言葉をキーワードに、この地上での生活をどのように送ってゆくことが神様とイエス様の御心であるのかを探っています。今朝は、テサロニケの信徒への手紙3章5節の「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださいますように」という使徒パウロの祈りの言葉から、「神の愛とキリストの忍耐を深く悟る方法」について分かち合いたいと願っていますが、まずこの手紙が使徒パウロからマケドニア地方、今のギリシャにあるテサロニケという地にあった教会になぜ書き送られたのか、どういう理由があったのかという背景をお話しする必要があります。
そのために1章の3節から5節を読む必要があります。「3兄弟姉妹たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。4それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。5これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。」とあります。
ここでパウロは、テサロニケ教会のクリスチャンたちは、イエス様を信じて従うがゆえに、その信仰ゆえに厳しい迫害を受け、苦難の中を通らされていたということを示しています。しかし、言葉では言い尽くせない大変な苦難の中で、テサロニケ教会の信徒たちが信仰を捨てるどころか忍耐して、イエス・キリストにつながり続けていることを誇りに思い、そのように苦難に忍耐し、信仰に踏みとどまる力をクリスチャンたちに与えてくださる神様に感謝をささげています。しかし、それだけではありません。「あなたがたを神の国にふさわしい者とする」、「神の国のために苦しみを受けているのです」と言って、苦難と迫害を通らされる目的と忍耐する理由を示し、信仰を捨てないようにと大いに励ましているのです。
1章6節に、「神は正しいことを行われます。」とあります。神様は真実なお方でありますから、神様のご計画、全てのなさる業、導きには明確な目的と理由があります。それは、苦難や試練を通して、わたしたちを神の国にふさわしい者とするという神様の御意志があるのです。神様の御許に招かれ、そこで永遠に過ごすためには、神様によって聖別されて行かなければなりません。聖別されるとは、この世のものから切り離されてゆく、分たれてゆくということです。この聖別は、聖なる神様と救い主イエス様にしかできません。わたしたち罪にある者にはできないのです。この聖別は、金が高温の火によって燃やされ、溶かされ、不純物がすべて焼き尽くされ、純金になってゆくようなイメージです。
その火が苦難・試練なのです。ですから、先週の聖書箇所、ヤコブの手紙1章2節から4節にあるように、「いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」、つまり神様とイエス様と聖霊が試練・苦難を通してわたしたちを新しく造り変えてくださるのです。
神様の御許へと招かれているのに、地上のものに執着しすぎますと、神様の愛から自ら遠ざかることになります。苦難の中を通らされるのは確かに苦しいことですが、その苦しみを通して本当に大切なものは何であるかが分かるようになり、必要でないものを手放してゆくことができます。そしてその空になった手で、イエス様の御手、わたしたちの罪を贖うために十字架に磔にされた釘の跡のある手を握りしめることができるようになり、わたしたちの手を決して離さないイエス様がわたしたちを神様の御許へと導いてくださるのです。苦難の中にあっても、イエス様がわたしたちの手を握りしめてくださっていることを覚えましょう。
さて、3章5節の御言葉に戻りましょう。この「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」という使徒パウロの祈り、願いは、わたしたちの救い主イエス・キリストによって祝福のうちに実現します。わたしたちに対する神様の大きな愛を深く悟らせてくださるお方はイエス様しか居られません。そして、その神様の愛を明確に示してくださるのが、「キリストの忍耐」、つまりイエス様の十字架の苦しみと死なのです。イエス様は神様のわたしたちに対する愛を示すために、十字架の苦しみや痛みを耐え忍び、神様から切り離されるという絶望感を忍耐してくださったのです。
わたしたちが、神様の愛とイエス様の忍耐を深く悟るためには、わたしたちの身代わりとして十字架に架けられて痛み苦しむイエス様を見上げなければなりません。このイエス様に心を開いて、イエス様を救い主、贖い主と信じて迎えなければならないのです。
例えば、目の前に美味しいものがあって、その見栄えも素晴らしく、その芳醇な匂いに居た堪れなくなり、食べたいと思うならば、わたしたちは口を開けて食べると思います。それと同じように、神様の愛を深く味わうためには、まず心を開いて、イエス様という神様の愛を受けて、心の中でよく味わう必要があります。噛めば噛むほど深い味わいが楽しめるように、イエス様との時間を過ごせば過ごすほど、わたしたち一人ひとりに対する神様の愛をより深く味わえる、触れることができる、楽しむことができる、愛されていることを心から感謝することができるようになります。
神様の愛とイエス様の忍耐を深く悟る方法は他にもあります。使徒パウロは、3章1節で、「兄弟姉妹たち、わたしたちのために祈ってください」と祈りの要請をしています。わたしたちがお互いのことを覚えていつも祈る時、それぞれが神様の愛によって、イエス様の贖いによってつながっていること、神の家族とされていることを感じることができるようになります。祈り合う教会が一つの体、キリストのからだとされていくのです。祈り合うことがなければ、みんなバラバラ、試練に直面したら、みんな散り散りバラバラになるのです。
もう一つの方法、それは一緒に「主の言葉」を宣べ伝える業に取り組むということです。イエス様の福音を伝えてゆくことが教会の使命です。福音が広まれば、聞く人が増え、その中からイエス様を信じる人たちが出てきて、一緒に神様を崇めることができるようになります。福音を伝えることで拒絶されるという苦しみを味わうこともあるでしょう。
パウロは、2節で「すべての人に、信仰があるわけではないのです。」と言っています。種を蒔いても、すべての種が芽を出し、成長するわけではないことをイエス様の種まきの譬えから知っておられるでしょう。しかし、3節、「主は真実な方です。」とあります。主なる神様に信頼し続け、イエス様の言葉に聞き従い続けるならば、主が共に働いてくださり、収穫を与えてくださるのです。その収穫が「平和」という恵みであると信じ、主に期待します。
最後に詩編126編5節と6節を読んで終わります。「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」 アーメン。大久保教会として、共に福音の種を蒔き続け、平和という収穫を神様からいただきましょう。神様は真実なお方、神の愛とキリストの忍耐を深く悟らせてくださり、わたしたちに慰めと励ましを、平安と喜びと希望を、生きる目的と力を与え続けてくださるはずです。主に信頼しましょう。