「神の愛はキリストの十字架に示されし」十月第一主日礼拝 宣教要旨 2016年10月2日
ヨハネの手紙一 4章7〜11節 牧師 河野信一郎
生きて行く中で必ず受けるストレスと上手に付き合うことが大切です。「ストレス」とは、本来、「外部からの刺激」という意味で、私たちはある程度のストレスがあったほうが良いのですが、現代では「外部からの『悪い』刺激」という意味で主に使われています。この悪いストレスを溜め過ぎると、心と身体に悪影響が及び、病気になってしまいます。すべての人がストレスを溜め込むわけではなく、適度に発散できたり、上手に付き合うスキルを持った人もいます。人はどのようにストレスに対応しているのか。3つのタイプを紹介します。
まず「筒・円筒形」タイプの人は、ストレスを感じる時、怒ったり、泣いたりするけれども、その都度ストレスを解消し、後に引きずりません。次に「ざる」タイプの人は、許容範囲・網の目より小さなストレスは上手に受け流し、大きいものは少しずつ丁寧に解消して小さくし、落として行くことができます。確かに許容範囲・網の目の大きさは人によりますが、こういうタイプの人は、感情の起伏が大きく、大人の対応ができる人です。3つ目のタイプは、「箱」タイプの人で、とにかくストレスを溜め込むタイプです。普段は穏やかなのに、ストレスが充満すると、怒りが爆発してしまう、ストレスを解消するのが一人では難しいタイプです。この3つのタイプに当てはまらない人もいるでしょう。ある人は、「筒とざる」のハイブリッドタイプであったり、「ざると箱」のハイブリッドタイプであるかもしれません。若い頃は箱タイプであったけれど、歳を重ねて筒タイプになったという人やその反対で神経質になってストレスを溜めやすいという人もおられるかもしれません。
教会にも、それぞれタイプの違う人たちが集められています。年齢、性別、性格、人生経験、価値観が違うこともあります。しかし、違っていて良い訳です。しかし、私たちに大切なのは、悪いストレスを抱えた時には一人で何とかしようとはせずに、神にまずお委ねし、祈って導きに従ってゆけば良いのです。自分の力だけで悪戦苦闘せず、その力と時間を浪費することを止め、神を信じ、祈り、全てを委ねてゆくことが大切です。何もかも一旦止めて、立ち止まって、休息と大きな深呼吸が必要なのです。そして神に委ねた後、何をして過ごすのかというと、神の愛を日々受け取り続ければ良いのです。神の愛を心に溜め込むのです。
現在、あまりにも多くの人たちが神の愛を心に溜め込むことなく、受け流しています。そして、とても皮肉なことに、神の愛を溜め込むべき心に、人々は不安や恐れや悲しみ、痛みや空しさやストレスを溜め込んでしまっている状態です。
使徒ヨハネが愛し、手紙を書き送った諸教会のクリスチャンたちも、それぞれが大きなストレスを抱え込んで苦しんでいました。教会の中に偽預言者や偽教師が入り込み、クリスチャンを惑わしていたからです。その惑わしが原因で、兄弟姉妹たちの間に不和が生まれ、グループに分かれ、互いに距離を置くようになり、相手のことを悪く思ったり、裁いたり、無関心になる。そして互いのために祈ったり、仕え合ったり、愛し合うことができなくなってしまっていました。とても悲しい現状です。ですから、ヨハネはくり返しくり返し「互いに愛し合いましょう」と励まし、主イエス・キリストにつながり続けること、とどまり続けることの大切さを訴えるのです。「目の前の課題や問題、ストレスから目を一旦そらして、私たちの救い主に、神の愛に目を注ごう」と励ますのです。何故ならば、ストレスに翻弄される時に、私たちはキリストを見失い、神に愛されていることを忘れ、混乱し、最終的に自分でどうにかしようと自力に頼ってしまっているからです。
第一ヨハネの手紙4章7節から11節には、クリスチャンの愛の源はどこにあるのかが記されています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者はみな、神から生まれ、神を知っているからです」とあります。「愛」という言葉が「アガパオ」という動詞と「アガペー」という名詞で用いられていますが、これは神の愛を示す時に用いられるギリシャ語で、「自己犠牲的な愛」、「他者中心的な愛」という意味の言葉です。
つまり、ヨハネが「互いに愛し合いましょう」と言う時、この「自己犠牲的で他者中心的な愛」をもって愛し合いましょうと励ますのです。私たちの「愛」という感情で愛するのではなく、神からこの「自己犠牲的で他者中心的な愛」を受けて、その愛で愛し合おうと励ますのです。ヨハネは同時に、「クリスチャンはこの愛を主イエス・キリストを通して神から受けて生かされ、この愛の源が神であることを知っているはずです。だから、この神の愛をもって互いに受け入れ合い、許し合い、祈り合い、支え合い、仕え合い、愛し合おう」と励まします。教会の中で互いに愛し合えない人がいるならば、その人はまだ神の愛を知りません。神は愛だからです」と言っています。神が「自己犠牲的で他者中心的な愛」の源なのです。
ヨハネは「神は愛です」と告白していますが、愛は神の「行為」ではなく、「本質」そのものであると告白しています。この神が私たちをどのように愛してくださるかという問いに対し、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方(キリスト)によって私たちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました」と9節で言っています。また、10節では「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子(キリスト)をお遣わしになりました。ここに愛があります」と言っています。神は、私たち罪人のことを中心的に思ってくださり、神の愛はキリストをこの世に派遣してくださったことによって示されました。神の私たちを贖うための自己犠牲的な愛は、御子イエス・キリストを十字架に架けることによって示されました。ここに私たちが受けるべき愛があるとヨハネは強調しています。
「ここに愛がある」という「ここ」とは、主イエス・キリストの十字架と神の御子の死です。私たちを罪と闇と死から救い出すために、御子をお遣わしになり、贖いの供え物として十字架に付けられました。主イエスは、十字架の死に至るまで神の愛に従順に従い、私たちにキリストの愛を示されました。鞭打たれ、つばきをかけられ、辱められ十字架に付けられ、肉体が裂かれ、血潮を流して死なれ、命を与えてくださいました。神は独り子を私たちに与え、主イエスはその命をくださった。ここに私たちへの愛があるのです。
この神とキリストの愛を受け取り、この愛で互いに愛し合いなさいと励まされています。私たちの愛は欠けが多く、足りないことばかりです。自分の愛だけでは、私たちは人を愛し抜くことができません。ですから、主イエス・キリストを通して神から与えられる愛が必要なのです。この愛をいつも祈り求め、神の愛を日々受け取って日々の生活を歩み、互いに愛し合い、仕え合ってまいりましょう。11節に「愛する者たち、神がこの様に私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」と命じられています。