神の慈しみを永遠に受ける者

「神の慈しみを永遠に受ける者」 一月第四主日礼拝 宣教 2023年1月22日

 詩編 103編13〜22節     牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝も、礼拝堂に集われている皆さん、そしてオンラインで礼拝に出席されている皆さんとご一緒に賛美と礼拝を神様におささげできて、心から感謝です。大久保教会に初めて来てくださったゲストの皆さんを心から歓迎いたします。

 わたしにとって、実に2週間ぶりの大久保教会での礼拝です。この間、いかがお過ごしであったでしょうか。先週15日の夕方の4時ごろに帰宅しましたら、「SちゃんやEちゃんがお父さんを探していたよ」とわたしの子たちに言われました。当たり前のようにいつも居るわたしが教会に居ないのが、とても不思議に感じたのでしょう。探していたよ、少し困惑していたよと聞くと、なんとも言えない嬉しさと愛されているなぁと感じ、感謝です。

 さて、この2週間で皆さんにも様々なことがあったと思います。わたしにも感謝な事がたくさんありましたが、それをすべて分かち合うだけの時間がないので、欲張りな気持ちを我慢して、三つの事を短く分かち合わせていただき、同時にお祈りの要請をしたいと思います。

 まず一つ目ですが、2週間前にTキリスト教会のS牧師からメールをいただきました。コロナ前に大久保教会の礼拝に何度か出席くださり、パンデミックの間もオンラインで礼拝に出席くださり、メッセージに熱心に耳を傾けてくださっていた女性がI市へ昨年お引っ越しをされました。自宅から通える良い教会を紹介してほしいと頼まれましたのでT教会を紹介しましたが、その教会でバプテスマの決心をされて、15日からバプテスマの準備クラスを始めます、導いてくださり、ありがとうございますという感謝な知らせでした。

 以前、皆さんにもこの方がT教会に通い、イエス様を信じて、主と教会につながることを祈ってくださいとお願いしましたが、わたしたちの祈りが答えられました。彼女は、いつバプテスマを受けられるでしょう。イースターの時でしょうか。日にちは分かりませんが、T教会と天では、大きな喜びと賛美で満ち溢れるでしょう。心から主に感謝します。

 二つ目は、先週、わたしが遣わされてN教会についてです。去年の7月から無牧師になっておりましたが、わたしは大久保教会と日本バプテスト連盟から説教者、役員会へのオブザーバーとして派遣されました。礼拝には、2名の新来者を含め、22名の出席がありました。今月から3月まで、第三の日曜日に連続して派遣されますので、メッセージをシリーズ化し、信仰と希望と愛をテーマにし、去る日曜日は神様が与えてくださる信仰について御言葉の分かち合いをしましたが、恐ろしくなるほどの張り詰めた静けさが礼拝堂にありました。皆さんは、音ひとつ立てないで、聖書のお話しに聞き入ってくださいました。礼拝の後に、16名の方が残ってくださり、信仰について、教会生活について質疑応答の時間を持ちました。

 わたしは、この教会の皆さんは神様の愛の御言葉を語り、魂の配慮をしてくれる牧師を本当に求めているのだなぁと強く感じました。来月と再来月の第三日曜日、わたしはまたNにある無牧師の教会に派遣されます。大久保教会の皆さんと会えないのは寂しいですが、神様の愛と励ましを必要としている方々がおられますので、どうぞN教会のためにお祈りください。新しい牧師を招聘する委員会も立ち上がりました。主に信頼し、牧師を招く前に成しておかなければならない準備と祈り、心を一つにできますようにお祈りください。

 さて三つ目は、わたしたちの教会の屋根と正面壁の改修工事のことです。去る13日に改修工事を請け負ってくださる業者と契約を結び、先週火曜日には、非常に大きな金額ですが、工事代金の半分を支払いました。工事は、来週2月1日から約一ヶ月の予定で始まります。3月には教会の外観は塗装できれいになることでしょう。わたしたちの心は喜び、教会の前を行きゆく人たちは教会がきれいになったと驚くでしょう。今からとても楽しみですが、大事なのは教会の外観ではなく、わたしたちの心です。神様の愛とお導きによってこの教会に集められ、植えられたわたしたちが、この会堂を通して神様を愛し、主イエス様の教会を愛し、この会堂が礼拝と福音を伝えるために57年間用いられてきたことに感謝し、現在も用いられていることを喜び、今後も用いられ続けることを切に願っているかということです。

 私が牧師として就任した初年度、24年前の一大プロジェクトとして大規模な改修工事を行い、この会堂になりました。しかし、築57年目の会堂です。耐震バッチリの新会堂を建築する力は、残念ながら、今のわたしたちにはありません。ですから、今このようにわたしたちに与えられているこの会堂・建物を大事にし、この状態を維持してゆかなければなりません。そのためには、わたしたちが心を一つにして祝福を神様に祈り求め、信仰をもって献げてゆかなければなりません。この「信仰をもって献げてゆかなければ」という部分だけを切り取ってしまいますと、いま日本で大きな社会問題となっています、あの異端の新興宗教のようになってしまいますからここで止めますが、わたしたちにできないことも、「神様にはできる!」という信仰の上に共に立ちましょう。

 来週29日の礼拝は、協力伝道を覚える礼拝ですので、その時にもまた詳しく日本バプテスト連盟に連なる全国315の諸教会・伝道所の現状と4月から始まります日本バプテスト連盟の機構改革についてお話ししますが、連盟の諸教会の中には、会堂を所有することが困難で、借家、または地域センターの一室を毎週借りて礼拝をささげている小さな教会があります。また、たとえ会堂を現在所有していても、会堂が築50年以上の教会が多くあり、修繕や改築するだけの経済的体力がない教会や、そのために行き詰まりを感じている教会が多数あることを過去6年間の地区宣教主事としての働きの中で目の当たりにしてきました。

 確かに、牧師とクリスチャンは高齢化し、会堂も年々老朽化しています。しかしそれでも、諸教会の教会員の皆さんが、主なる神様と救い主イエス様、そしてキリストのからだなる教会を愛していることは疑う余地はありません。わたしたちに必要なのは何でしょうか。それは、全能なる神様に信頼し続け、心一つにして湖の深みに信仰の網を放つということです。その時に、神様は人知では計り知ることができない大いなる御業を成してくださいます。その主の御業をご一緒に見させていただき、大きな喜びに満たされ、主を賛美しましょう。

 今朝、わたしたちに与えられている聖書箇所は、詩編103編です。礼拝への招きの言葉、招詞として1節から5節を読みましたが、この詩編103編は、最初の1節と最後の22節にある「わたしの魂よ、主をたたえよ」という言葉で囲まれています。つまり、主なる神様をたたえるということがわたしたちの日々の生活に重要であるということです。この詩編は、わたしたちが日々、心と、思いと、精神と、力を尽くして主なる神様を賛美することが主の御心であり、わたしたちが賛美する力を与えてくださるのも神であられるということを教えてくれる詩編であると思います。もう少し言葉を変えていうならば、この詩編には主を賛美する理由が明確に記されています。それらの理由を、今朝はご一緒に聞いてゆき、喜びで満たされ、新しい週を歩み出す力を受け、励ましの中をここから送り出されてまいりましょう。

 まず詩編103編の1節に注目したいと思いますが、ここに「わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ」とありますが、「わたしの内にあるもの」とは何でしょうか。「こぞって」とあります。他の聖書訳では、「わが内なるすべてのものよ、その聖なるみ名を誉めよ」と訳されています。この「すべてのもの」とは、「五臓六腑」、つまり心臓、肝臓、腎臓、胃腸などの内臓などを指し示す言葉です。つまり、この詩人は、全身全霊で、わたしの神、また救い主を賛美するという強い意志、感謝の念を持っているということです。

 では、なぜそれほどまでに神様を、救い主を賛美したいとこの詩人は強く願うのか。個人的な理由が2節から5節に記されています。まず2節で、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」と自分に言い聞かせています。その理由は何か。3節から5節です。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださったから。また、受ける資格がないのに、主がお前に慈しみと憐れみの冠を一方的に授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださるからである」と言っています。ここに「良いもの」とありますが、これは「恵み」と訳される言葉です。ここに記されているすべてを、神様は御子イエス・キリストという救い主、贖い主を通して完成されました。わたしたちは、神様の慈しみと憐れみ、恵みを感謝して素直に受け取って、その恵みに応答して生きてゆけば良いのです。そして、その応答とは「主をほめたたえる・賛美する」ことです。

 一気に13節まで飛びますが、今回スキップする6節から12節には、憐みの神がその民イスラエルにどのように関わってくださったのか、また主を畏れる者を祝福してくださることが記されています。神様の正義と忍耐と平等も主を賛美する理由であるということです。

 さて、13節に「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とあります。「主を畏れる」とは、どういう意味でしょうか。神様に対して恐怖心を抱きながら生きるということではありません。主なる神は生きておられ、すべてをご覧になって知っておられるということをいつも心にとめて、神様の御前に清く、忠実に生きるということです。自分の知恵と力と努力、頑張りで生きているという傲慢な思いを捨て、身を低くしていつも謙遜に生きるということです。神様の憐れみなくして生きられないことを認めることです。

 わたしたちがどんなに頑張っても、努力しても、わたしたちは塵のような存在に過ぎず、70年、80年、90年の生活はあっという間に過ぎ去ります。15節と16節に、「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ。生えていた所を知る者もなくなる」とありますが、風に吹かれれば塵は吹き飛んで消えてしまいます。地上に存在し、頑張って生き抜いたことさえも50年、100年もすれば完全に忘れ去られるような存在がわたしたちです。しかし、そのような塵のような存在さえも、神様が御心に留めてくださると14節にあります。17節と18節に「主の慈しみは世々とこしえに主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らに、主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ」とあります。

 すごいと思いませんか。大きな感動が湧き上がってきませんか。主なる神様を認め、信じ、主の御前に謙遜に、忠実に生きる者の上に、主の愛と慈しみ、憐れみと恵みが「永遠に」あるという確信に満ちた詩人の言葉がここにあります。わたしたちは、本当に小さな存在です。いつも懲りずにやたら間違いや失敗を繰り返し、いつもうなだれるばかりの存在です。しかし、そのような小さくて弱い存在に神様の目は注がれ、慈しみが注がれ、その慈しみは永遠に注がれるのです。その永遠の慈しみを受けなさいとわたしたちは神様から今朝招かれています。この素晴らしいチャンスを逃してはなりません。この恵みを受け取りましょう。

 この恵みを受け取る方法は、一つしか存在しません。神の国と神の義を求めることです。心を開き、救い主イエス・キリストを招き入れ、心を主の主権に任せる、委ねるのです。神様の愛で心を満たしていただき、聖霊によって心を作り替えていただくのです。19節に、「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される」とあります。主なる神がこの世界の唯一の主権者です。すべてのすべては、神様のご計画と支配の中にあります。その真実を認めないので、世界中の国々がそれぞれの利権を勝手に主張し、そのために戦争が起こり、人々は混乱し、闇の中を歩んでいます。

 すべての人に必要なことは何でしょうか。答えは20節にあります。ご覧ください。つまり「主の語られる声を聞く」ということです。この「主の語られる声」とは、救い主イエス・キリストです。つまり、主イエス様の声に、主の言葉に聴き従う者に神様の慈しみがあり、その祝福は永遠の命となって永遠に続くのです。それが主の約束です。その約束が与えられているので、わたしたちには希望があり、喜びがあり、主をたたえる賛美の力が心の奥底から湧き上がってくるのです。最後に21節と22節を読みましょう。「主をたたえよ。御もとに仕え、御旨を果たすものよ。主に造られたものはすべて、主をたたえよ。主の統治されるところの、どこにあっても」。神様の慈しみを賛美しましょう。ハレルヤ!