「神の望みどおりに生きているか」 九月第二主日礼拝 宣教 2024年9月8日
マタイによる福音書 21章28〜32節 牧師 河野信一郎
おはようございます。9月も2週目に入りました。今朝もこの礼拝堂に招かれて礼拝者とされていること、ご一緒に礼拝をおささげできますことを主に感謝いたします。オンラインで出席くださる方々、また後ほどビデオで参加してくださる方々も心から歓迎いたします。
大久保教会では、朝の礼拝と夕礼拝をYouTubeとFacebookでライブ配信し、YouTubeではビデオでも残し、後からご覧いただけるようになっていますが、朝の礼拝の視聴は多い時で60回、平均は43回です。夕礼拝の視聴は多い時で50回、平均は35回です。礼拝を最初から最後までご覧くださっているのか、はたまた数分だけご覧になられてやめてしまわれるのか分かりません。どなたが、どこから、いつご覧になっているのか、まったく実態がつかめません。しかし、可能な限り今後もライブ配信ができればと願っています。
ただ、来年4月からは讃美歌をライブ配信で歌っても大丈夫ですが、著作権の関係でビデオに残すことができなくなるため、録画したビデオを編集する作業が礼拝後に必要となるため、作業に当たってくださる奉仕者を募り、編集の仕方を習得していただかなければなりません。奉仕者の現状は、複数の役目を担ってくださっている方々の働きで活動が回っている状態です。選び取りが必要な時期ですが、主の導きと備えをお祈りください。
さて、大久保教会では、外部団体のハンドベルクワイアが毎週土曜日に集まって練習されているのですが、8月下旬からクリスマスキャロルの練習が始まりました。個人的には10月頃から始めてもらえると嬉しいのですが、毎週10名ほどの方々が熱心に2時間ほど練習をされています。練習に4ヶ月費やし、12月は様々な所で演奏されるのですが、8月からクリスマスキャロルが隣の部屋から聞こえてきますと、翌日の礼拝の準備を必死にしている牧師にはプレッシャーに感じる時があります。しかし、「あなたもそろそろクリスマスのために祈り始めなさい」と神様から言われているように感じます。とても必要なリマインダーです。
クリスマスは、わたしたちの周囲にいる隣人に救い主イエス様の誕生の良き知らせを言い広める時です。クリスマスは、人々が福音と教会に対して心を柔らかくする唯一のチャンスでもあります。出逢っていない人を教会に誘うよりも、身近な家族や友人やご近所さんを教会に招く絶好のチャンスです。この人々にイエス様の誕生の意味と目的、神様の愛と憐れみ、イエス様による救いの時が来たことを分かち合って、イエス様と出逢ってもらう、イエス様が自分の救い主であると信じて従うチャンス、それが真のクリスマスであると信じます。
6月から「神の御心を探し求めて生きる」というテーマで新約聖書から御言葉の分かち合いをさせていただき、「何が神様の御心であるか」を共に聞いてきましたが、もう一つ大切な問いかけ、それは「何が神様の御心でないか」ということを知ることでした。新約聖書で「神の御心でない」ことが記されている箇所が唯一存在します。マタイによる福音書18章10節から14節には、「羊の群れから迷い出た羊の譬え」が記されています。ルカ福音書15章にも同じような「見失った羊の譬え」があり混合してしまいそうですが、マタイによる福音書だけ、「はっきり言っておくが、もし、それ(迷い出た一匹の羊)を見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」とはっきり記されています。
今年のクリスマスは、まだ4ヶ月先ですが、多分あっという間に来ると思います。今年のクリスマスは、13年間続いた複数牧会から、牧師がわたし一人になって迎えるクリスマスとなります。皆さんの祈りと協力、特に素晴らしいアイデアが必要です。そのようなアイデアを分かち合い、共に祈る機会を持ちたいと願っていますが、まず各自が主に信頼し、御心と聖霊の導きを祈り求め、聖霊に示され、導かれたことを共に取り組みたいと願っています。
さて、今朝はマタイによる福音書21章28節から32節をテキストに、「わたしたちは神の望みどおりに生きているか」という事を共に考えてゆき、わたしたちに悔い改めるべきところがあれば、素直に悔い改めて、主の御言葉に聞き従う者と変えられてゆきたいと願っていますが、本題に入る前に、皆さんに説明をしておかなければならない重要なことがあります。
皆さんが日頃から読み親しんでおられる聖書訳、色々あると思います。大久保教会で使用しているのは今から36年前に発刊された新共同訳聖書ですが、わたしの母教会であるアメリカのGT教会、大久保教会の宣教を聞いてくださっていますが、69年前の1955年に改訳された口語訳聖書を使用されています。皆さんが日頃読んでおられる聖書は、43年前の1981年に発刊された新改訳聖書であったり、46年前の1978年に発刊されたリビングバイブルであったりすると思います。他にも、2018年に発刊された聖書協会共同訳聖書であったり、新改訳2017聖書であったりするかもしれません。しかし、訳によって28節から30節の内容が異なるのです。
まず新共同訳聖書を読んでみましょう。「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。」とあります。
次に口語訳聖書を読んでみましょう。「ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります。』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた」とあります。聖書が日本語に訳された年代によって内容に違いが出ていますので、表にしてみました。口語訳、リビングバイブル、新改訳では、お父さんから言われたようにぶどう園に行ったのは弟で、行かなかったのは兄です。新共同訳、新改訳2017、聖書協会共同訳では、ぶどう園に行ったのは兄で、行かなかったのは弟です。
ここで何故そのような食い違いが聖書にあるのかという疑問が生じます。松本俊之という聖書学者がマタイ福音書の説教集の中で以下のように説明していますので、引用したいと思います。「同じ聖書であるのに、内容的に二種類のテキストがあるというのは、写し間違いか、あるいは後の時代に、誰かによって書き変えられたことによります。聖書学の話になりますが、写本が二種類ある場合には、『わかりにくいものほど古い(オリジナルに近い)』という原則があります。わかりやすいものほど、誰かが書き変えた可能性が高いということです。最近、新しく訳される各国語聖書のほとんどは、この分かりにくいほうを写本に採用するようになってきました。」とありました。
分かりやすくするために書き変えられた理由として、松本俊之氏は次のように記しています。引用します。「私は、この聖書が書き変えられたのには、もう一つの理由があるのではないかと察します。キリスト教会には、かなり早い時期からユダヤ教に対する優越意識と反ユダヤ主義がありました。クリスチャンたちは、この兄をユダヤ人たちと重ね合わせ、弟を自分たちクリスチャンと重ね合わせたのではないでしょうか。つまり、ユダヤ人たちはせっかく神に選ばれ、呼ばれながら、形だけの信仰であった(返事はよいが、御心を実行していない)。それに対し、クリスチャンは割礼など形式的なことはしていないけれども、神を信じている、という図式です。」
さて、イエス様は28節の最初に「ところで、あなたたちはどう思うか」と尋ねられます。この「あなたたち」とは、本来、イエス様が神殿の境内で人々に教えておられた時に近寄ってきた祭司長や長老たちですが、今日においては、わたしたちと捉えることが御心だと思います。すなわち31節で、イエス様は「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と尋ねられます。わたしたちに対して、イエス様は、「この二人の兄弟、一人は父親の望みどおりにぶどう園に行き、もう一人は父親の望みを無視してぶどう園に行かなかったが、もう兄とか、弟はどうでも良い、『あなた』はどちらか」と問われているのです。あなたは神の願い、御心を行っていますか、それとも口先だけですかという問いです。
つまり、兄と弟、姉と妹、年配者と若者、男と女、先の者と後の者、健康な者とそうでない者、信仰の先輩と後輩、そういうことはまったく関係なく、あなたはあなたなりに、今のままの生活状態の中で、神様を信じ、愛している者と告白しているけれども、本当に神様の望みどおりに、御心どおりに忠実に、心から生きていますかと問われているのです。「もしかしたら、あなたは『はい、やります。はい、やっています』というけれど、本当は口先だけで、実際は何もやってはいないのではないか」とイエス様から問われているのです。
イエス様は31節で「はっきり言っておく」と言われます。これは「今からあなたに重要なこと、神様の御心を教える」という意味の大切な言葉です。イエス様は、「あなたがた祭司長や長老よりも、徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言われます。その理由をイエス様は32節で、「なぜなら、(バプテスマの)ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」と言われます。
これまでの学びの中で、御心とは神様の願い、望み、喜びということを聴き、神様とイエス様の御言葉を忠実に行うことが、神様がわたしたちに求めておられる御心であるということをご一緒に聴いてきました。主イエス様は、口先だけの弟子・クリスチャンではなく、内実の伴う、御心を行う忠実な弟子たち・クリスチャンたちを求めています。
29節と32節に、「考え直した」という言葉があります。これは自分を振り返るという意味の言葉です。わたしたちは日常生活の忙しさにかまけて、神様の御心を行っているように見せかけて、実際は自分の思いや願いや都合を優先させて生きてしまう弱さがあるように思います。わたしたちに大切なのは、忙しさの中にあっても、苦しみや試練にあっても、自分は何者であるのか、神様に愛され、恵みの中に生かされている者ではないのかと自分を振り返り、いつも考え直して、自分の弱さを責めるのではなく、神様の憐れみによって救われ、生かされていることを喜び、主イエス様に忠実に従う者でありたいと祈り求め、聖霊の励ましと助けを絶えず受けて、主の御言葉に聞き従う者とされてゆきましょう。