神の約束の言葉に信頼する

「神の約束の言葉に信頼する」十一月第二主日礼拝 宣教 2025年11月9日

 エレミヤ書 32章6〜15節     牧師 河野信一郎     

 

おはようございます。ゲストの皆様、大久保教会へようこそ。教会の皆さん、お帰りなさい。今朝も皆さんとご一緒に礼拝を神様におささげすることができて感謝です。

 

大久保教会の朝の礼拝では、エレミヤ書をシリーズで聴いていますが、今朝は32章6節から15節をメインな箇所として、「神様から与えられる約束の言葉に信頼して歩もう」というテーマでお話しさせて頂こうと願っていますが、先週の続きとなりますので、少しだけ先週のメッセージを振り返らせていただきたいと思います。

 

先週は、預言者エレミヤが南ユダ王国の王をはじめとした権力者たちから理不尽な扱いを受けたことを聴きました。何故その様な扱いを受けたかと言いますと、当時、南ユダ王国と首都エルサレムはバビロン帝国の脅威に晒されていましたが、神様から預かった言葉をエレミヤがそのままストレートに王たちに伝えた事が彼らの逆鱗に触れ、投獄させられました。その経緯を聖書から説明したいと思いますが、歴史的には紀元前587年頃、バビロンの大軍がエルサレムに攻め込んできて、エルサレムがいよいよ陥落させられる直前の状況です。

 

32章3節から5節を読みます。すなわち、「ユダの王ゼデキヤが、『なぜ、お前はこんなことを預言するのか』と言って、彼を拘留したのである。エレミヤの預言はこうである。『主はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。ユダの王ゼデキヤはカルデア人の手から逃げることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、王の前に引き出されて直接尋問される。ゼデキヤはバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう、と主は言われる。お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない。』」と神様の裁きが必ずあり、神はあなたを突き放すと言い放ったのです。預言者を通して語られる神の真実の言葉は、耳を塞ぎたくなるほど、その言葉を語る預言者を投獄させたくなる程の裁きと滅びの言葉でした。

 

ということで、預言者エレミヤは拘留されてしまいます。激しい言葉を浴びせられ、暴力も振られます。理不尽で不当な扱いをエレミヤは受けるのです。しかし、今朝の箇所を読みますと、エレミヤの親戚が投獄されている彼を訪ねてきますので、比較的緩やかな拘留であったことが分かります。しかも、もっと面白いと言いましょうか、その訪問の理由が摩訶不思議なのは、何故この様な厳しい状況の中でそんな事を持ち出すかという内容です。

 

けれども、この親戚の訪問の背後には、神様の驚くべき救いの約束があったのです。その事を今朝の御言葉から見出して、不条理なことで満ち満ちているこの世の中に生きるわたしたちが、理不尽な扱いを受けることの多いこの世の中にあっても、不安や迷いが多い中でも、それでも神様の豊かな愛がわたしたちに注がれているということを聴き取って、神様の約束の言葉に信頼して生きる者とされたいと願います。

 

それでは32章6節から7節を読みましょう。「さて、エレミヤは言った。『主の言葉がわたしに臨んだ。見よ、お前の伯父シャルムの子ハナムエルが、お前のところに来て、「アナトトにあるわたしの畑を買い取ってください。あなたが、親族として買い取り、所有する権利があるのです」と言うであろう。』」とあり、こういうことがあなたの身に近々起こるというお告げ・啓示をエレミヤは神様からあらかじめ受けるのです。

 

続く8節を読みます。「主の言葉どおり、いとこのハナムエルが獄舎にいるわたしのところに来て言った。『ベニヤミン族の所領に属する、アナトトの畑を買い取ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください。』わたしは、これが主の言葉によることを知っていた。」とあります。「主の言葉どおり」という部分が重要です。ここでエレミヤに起こっていることは神様の御心であり、そこには驚くべき計画と配慮があるという事を「知る」ということ、信じるということが大切なのです。

 

ここに、「親族として買い取り、所有する権利がある」とありますが、旧約聖書のレビ記25章24節以降を読みますと、神様から祝福をもって与えられた土地が、見知らぬ者たちの手に渡ることを防ぐために、ユダヤ社会にはそのような規定がありました。親族の誰かが貧しさのあまり土地を売らなければならない、売られてしまったならば、他の親族がその土地を買う権利というよりも、「買う責任」、「買い戻す責任」があったのです。「アナトトにあるわたしの畑を買い取ってください。」とありますが、エルサレムから北東に4キロにある土地で、エレミヤの出身地でもありますから、彼にとっても大切な土地であったわけです。

 

しかし、わたしたちには、「この期に及んで?」という想いが確かに頭をよぎるのです。何故なら、南ユダ王国はバビロニア軍による敗北が目前です。もう少しで都エルサレムは陥落し、その周辺のすべての土地はバビロンによって占領されてしまうという差し迫った状況が分かるからです。明日にでも無価値になる土地を買う人はいったい何処にいるでしょうか。そういう土地を買う者は甚だ愚かだと言われるに決まっています。しかし、そういう人が確かにいるのです。何とエレミヤです。もう呆気に取られて、空いた口がふさがりません。

 

9節から12節まで読んでゆきましょう。「そこで、わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、銀十七シェケルを量って支払った。わたしは、証書を作成して、封印し、証人を立て、銀を秤で量った。そしてわたしは、定められた慣習どおり、封印した購入証書と、封印されていない写しを取って、マフセヤの孫であり、ネリヤの子であるバルクにそれを手渡した。いとこのハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、獄舎にいたユダの人々全員がそれを見ていた。」とあります。

 

しかし、ここを読んで、エレミヤを取り囲む人々はよく平気でいられるなぁと思うのは、わたしだけでしょうか。わたしならば、「わたしのような者が言うのもおこがましいですが、本当に証書に調印しても良いのでしょうか」とエレミヤに確認したくなります。バビロニアの大軍がもう押し迫っています。その土地が無価値になると分かっているからです。証人たちはどのような面持ちでそこにいて一連の流れを見守っていたのでしょうか。わたしのように開いた口がふさがらない状態の人、エレミヤの行動を見て、「いやぁ、それは愚かな判断だ!」と感じ、エレミヤを止める人は誰もいなかったのでしょうかとわたしは思うのです。

 

しかし、そういう思い・疑念を誰も前面に出して言えないほどの気迫と言いましょうか、決断力と言いましょうか、神様への絶大な信頼がエレミヤにあったことが13節以降の彼の言葉から分かります。何とあるでしょうか。「そして彼らの見ている前でバルクに命じた。『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イスラエルの神、万軍の主が、「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」と言われるからだ。』」とあります。

 

ここでエレミヤは「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」と2度も繰り返しています。アナトトにある畑を買い取ることは神様の願い、神様が励ましてくださっていることと彼は信じていたのです。現代人がこれを聞けば、「何という妄信、狂気、恐ろしい!これだから宗教はヤバい!」と感じることでしょう。しかし、そのように感じる人々は、もしも窮地に立たされる時、いったい何を頼りに、何を心の拠り所として生きるのでしょうか。

 

聖書には、目的と計画をもってわたしたちを創造し、愛をもって生かしてくださる神様と、その神様に気付かせてくださる救い主イエス・キリストと、わたしたちを日々守り、励まし、導いてくださる聖霊があると記されています。エレミヤは、この神様とイエス様と聖霊を「万軍の主」と信じ、この神に全幅の信頼を置き、神様が励まし、導く道を歩みます。

 

そして万軍の主、神様を信じる人は、時が良くても悪くても、神様に祈ります。32章16節から25節にはエレミヤの祈りが記録されています。神様への正直な祈りです。神様がイスラエルに与えてくださった愛と憐れみを感謝すると共に、神様に対するイスラエルの罪も赤裸々に告白しています。その罪のために今バビロンに包囲され、陥落の寸前であること、しかし、そのような時にユダの地を買いなさいと命じられる神様に従う決心をしています。

 

万軍の主、神様は、26節から35節で、イスラエルとユダが繰り返した罪のゆえに裁きを与え、その国をバビロンの手に渡すと言われます。しかし、愛と憐れみに満ちた神様は37節から44節で約束の言葉を与えられるのです。「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼ら(イスラエル)を集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。」

 

「まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。この国で、人々はまた畑を買うようになる。それは今、カルデア人の手に渡って人も獣も住まない荒れ地になる、とお前たちが言っているこの国においてである。人々は銀を支払い、証書を作成して、封印をし、証人を立てて、ベニヤミン族の所領や、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々で畑を買うようになる。わたしが彼らの繁栄を回復するからである、と主は言われる。」とあります。

 

ここからも分かりますように、エルサレム陥落の前にエレミヤがアナトトの畑を買ったのは、たとえバビロン軍に土地を略奪されても、神様がもといた土地に戻してくださるという神様の約束が必ず果たされる、それが70年後であっても必ず果たされるという神様への信頼があったからこその行動であったのです。42節の「今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える」や44節の「わたしが彼らの繁栄を回復する」という救いの約束をしてくださる神様とその言葉を信じ、神様に信頼を置きなさいと招かれているのです。

 

わたしたちも神様を忘れて身勝手に生きてしまう者で、そういう中で判断を間違えて窮地に陥る事があります。しかし、そのようなわたしたちを神様はそれでも愛してくださり、わたしたちを闇の中から救い出すためにイエス・キリストを遣わしてくださいました。このイエス様が神様の約束された救い・和解・回復・平和を成就する救い主であり、わたしたちが信じて、全幅の信頼を置くべきお方なのです。このイエス様を信じ、このお方に信頼を置くように、わたしたちは今朝、神様から招かれているのです。信じる中に平安が与えられます。