「神の言葉がヨナに再び臨む」 十月第四主日礼拝 宣教 2022年10月23日
ヨナ書 3章1〜4節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も礼拝を共におささげできて、本当に嬉しいです。この幸いを与えてくださる神様に心から感謝いたします。朝晩、だいぶ寒くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。大丈夫でしょうか。10月と11月は、日照時間も短くなり、とかく気持ちが落ち込みやすくなる時期だということです。無理をしないで過ごすのが一番良いですが、皆さん、そうも言ってはいられないと思います。何かしらお忙しく過ごされていると思います。ですから、せめて日曜日だけは神様に集中する時間が必要です。神様からの語りかけ、主の声に聞く時が必要です。そうでないと、いつか窒息してしまうでしょう。窒息して生き絶えることは、とても悲しいことです。そうではないでしょうか。ですので、神様に信仰の根をおろして、生きるための水と栄養と酸素を主から受ける必要がわたしたちにはあります。
今月初めの2日の礼拝の時、わたしが大いに励まされた木の写真をお見せしましたが、とても好評でしたので、今朝は他のコレクションをご紹介したいと思います。前のスクリーンに出ますので、ご覧いただきたいと思います。これが前回紹介した木です。大地になぎ倒された大木の根の一部がかろうじて大地に根ざして生きている証拠の写真です。次の大木も凄いです。洪水か鉄砲水で木の下の大部分の土をえぐられたようで、両脇の地面に根を伸ばして、地に張り付いています。次の2枚の写真も凄いです。左の木は大きな岩の割れ目から生えて成長しています。右側の写真は海岸沿いの砂浜に生えている木です。次の2枚ですが、左側の木は大木が暴風か落雷で折れてしまったようですが、その枝が空に向かって成長しています。右側の写真は湖畔に生息している木の写真ですが、湖は干ばつで水が減少しています。
次の2枚は、左側が断崖絶壁に生え、右側も岩場に生えている木です。こういう所にも生息していることに正直驚きます。次の2枚の写真はアメリカ西部の荒野に生えている木の全体像とそれを拡大したものです。朝と夜、寒暖差の激しい場所で生息しています。次の写真はトルコに生息する樹齢600年の大木です。凄いスケールです。周りはレストランになっています。最後の写真は、信じ難い木です。なんの木か分かりませんが、逆さまに生えている木です。自然の力と言いましょうか、木々の生命力は本当に凄いですね。大いに励まされます。
これらの木々の生息地や環境はみんな異なりますが、重要な部分で一致があります。それは砂地であろうが、岩の割れ目であろうが、断崖絶壁や荒野であろうが、大地がえぐられた場所であろうが、逆さであろうが、みんなそれぞれ植えられた所でしっかり根を張り巡らせ、生きているということです。わたしたちも神様によってこの世に植えられた木のようです。それぞれ置かれた場所や環境は、それぞれ違います。樹齢も違います。人生、みんな最高な環境に置かれるわけではありません。過酷な場所や厳しい環境に置かれることもあります。
しかし、神様に置かれた場所で成長し、花を咲かせたり、実を結ぶために、神様の愛にしっかりと信仰の根を下ろし、神様に根ざす必要があります。あなたが神様に信頼し、神様に信仰の根を下ろす時、恵みの源である主なる神があなたに直に水や栄養素という祝福を日々与えてくださり、それぞれ置かれた場所で生かされ続けるのです。ですから、わたしたちに大切なのは、イエス・キリストを通して神様から与えられた「信仰」なのです。この信仰を神様の愛と恵みの中で張り巡らせるのです。信仰の根っこがしっかりしていれば、どんなに激しい嵐や洪水が襲いかかって来ても、どんなに厳しい試練や苦難があっても、主にあって立ち続けることができる、いえ、神様の愛の力によって、恵みの中を生かされ続けるのです。
曖昧に信じるのではなくて、確信を持って、積極的に主を信じて、主の言葉に聞き従うのです。「私にはできない」と正直に言っても大丈夫です。ただ、諦めてはなりません。逃げてもなりません。たった今から、神様に愛と憐れみを、主の助けを祈り求めるのです。祈りの中で、神様との一対一の真剣な関係性の中で、神様がわたしたちを新しくしてくださいます。
さて、ヨナ書を8月から聴き続けています。1章から少しずつ、ゆっくりと聴いています。もっとスピードを上げて欲しいと思われるかもしれません。しかし、とても面白く、興味深いことがたくさん記されていて、その一つ一つに注目していると時間がいくらあっても足りないのです。ですから、今朝を合わせて、あと5週、ご一緒にヨナ書に聴いてまいりましょう。今朝のテキストは、3章1節から4節です。ここにもたくさんの恵みが記されています。
神様の命令に逆らい、神様から遠く離れようと逃亡したヨナでしたが、神様はヨナを引き戻そうとします。最終的には、荒れ狂う海に投げ出されたヨナを巨大な魚を備えて、死の淵より助け出します。死に直面したヨナは、魚の腹の中で、真っ暗闇の中で三日間過ごし、神様に祈る中で変えられてゆきます。不平不満ばかり言っていた人が、闇の中で悔い改め、感謝の声をあげ、神様に仕え、神様の救いの業のために生きる誓いをします。神様に変えられない人は誰一人として存在しません。ヨナは、闇の中で、「救いは、主にこそある」と叫びます。神様の愛と憐れみ、神様の赦しによって新しくされたヨナが、これから神様と共に歩み、神様に忠実に、心から仕えるという決意表明の言葉です。
2章11節に「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した」とあります。闇の中で新しくされたヨナを神様は光の中へ戻されます。ヨナの命の中に、主の光の中に、神様の確かで特別なご計画があり、ヨナの果たすべき使命があるからです。わたしたちが光の中を生かされていることにも、神様の確かなご計画があり、それぞれに果たすべき使命・責任があるということを覚えたいと思います。その使命・責任を果たす自信が今はなくても大丈夫です。主イエス様がわたしたちの歩みにいつも伴ってくださり、わたしたちを守り導き、み言葉によって養い続け、主が成長を与えてくださるので大丈夫なのです。大切なのはイエス様から目を離さないことです。最初から「自分は大丈夫、頑張れる」という人の方が危ないのです。
さて、光の中に戻されたヨナですが、1章1節と2節の振り出しに戻った感じです。1章で神様の言葉がヨナに臨んだ時、ヨナは神様に歯向いました。しかし、自分の間違いを認め、悔い改めたヨナに再び神様の言葉が臨んだと3章1節にあります。今朝、最初に覚えたいこと、それは自分のこれまでの間違い、神様に対する罪を認め、悔い改めて神様に従う人に、神様は新しいチャンスを、二度目のチャンスを与えてくださるということです。どのような過去を持っていても、社会や人々が与えてくれなくても、神様はセカンドチャンスを与えてくださるということです。これ以上に大きな励ましはありません。他でもない神様が愛と憐れみをもってわたしたちの罪を赦し、新しいチャンスを与えてくださるのです。
「主の言葉が臨んだ」ということを考えてみましょう。神の言葉が臨むということはどういうことでしょうか。主なる神様ご自身がわたしやあなたと向き合ってくださるということです。そして「言葉が臨む」、つまりわたしたちに対する神様のご意思が示されるということ、どのように前進すべきかの道筋が示されるということです。つまり、もう迷わなくて済むということです。今までは自分の浅はかな考えだけで生きようとしましたので、迷いや恐れや不安がいつもありました。しかし、神様が道を示してくださるので、迷う必要がなくなります。ブレることもなくなります。信仰によって大地にしっかり根を張る事ができるからです。
また、「私には神様は臨まれないだろう」と考えて諦めるのは大きな間違いです。わたしたち一人一人と闇の中で出会ってくださり、光の中へ移してくださり、救ってくださり、臨んでくださり、御心をはっきり示してくださるために、この地上に神の御子イエス・キリストをお遣わしくださったのです。この主イエス様を通して、神様はわたしたちに臨んでくださるのです。「主の言葉が臨む」とは、イエス様が共に歩んで導いてくださるということです。
神様がヨナに臨まれ、示された御心(ご意思)とは何であったでしょうか。2節にあります。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ!」ということでした。1章2節にある最初のご命令と同じですが、その時は「彼らの悪はわたしの前に届いている」という言葉がありましたが、3章ではありません。しかし、状況は同じであると思います。
この神様の言葉、ご命令にヨナはどのようにリアクションしたでしょうか。3節に「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」とあります。主の言葉に従ったのです。最初からそうしておけば良かったのにとお感じになるかもしれませんが、わたしたちの人生を振り返る中で、「最初からそうしておけば良かったのに」と後悔したことがたくさんあると思います。しかし、その後悔がわたしたちを神様に近づけ、神様の存在を知り、信じるきっかけになるのです。ですから、人生に起こることに無駄なこと、無意味なことは一切ないのです。わたしたちが無駄に感じても、悔い改める中で神様がすべてを益に変えて用いてくださるのです。
さて、3節後半に「ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった」とあります。私の息子がすぐに調べ、計算して教えてくれました。東京23区を一回りする距離は約150キロで、大人の歩く速度の平均値である4キロで計算すると、徒歩で一回りするには37.5時間、つまり1日半かかるそうです。ニネベを徒歩で一回りするのに三日を要したということです。休む時間や食事の時間も必要ですから、ニネベは東京23区を1.5周するぐらいの広大な土地であり、メソポタミヤ大陸でいかにニネベが大きな都市であったかがよく分かると思います。
その距離をヨナは三日かけて歩いたのです。たぶん、神様に祈りながら歩いたのだと思います。プレヤーウォーキングです。聖書には記されていませんが、彼はどのような心持ちでその距離を歩いたのでしょうか。イスラエルを長年脅かす大国の首都です。異教の国、未知の国、異なる神を信仰している国ですから、価値観も違うと思われます。神様も、「彼らの悪はわたしの前に届いている」とおっしゃっています。恐ろしかったと思います。緊張したと思います。不安であったと思います。彼の心境を自分のこととして想像してみてください。どうでしょうか。しかし、神様が伴ってくださるとヨナは信じてニネベに入ってゆきます。
4節をご覧ください。「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら、叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる』」とあります。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んだとあります。歩きながら、道ゆく人たちに、そこで生活する人々にそう叫ぶのです。皆さんならば、同じことができるでしょうか。秒殺されるぐらいの恐怖心を抱かないでしょうか。
ロシアのモスクワ等で「戦争反対!」と叫んでいる人々が、イランで声を上げている女性たちがどのような扱いを受けているでしょうか。すぐに警察に取り押さえられて連行され、暴力も振られます。しかし、ヨナはその言葉を歩きながら叫ぶのです。どうしてでしょうか。それは、ヨナに臨んだ神様の言葉であり、語れと命じられた言葉であったからです。ヨナに臨んだ言葉はもっと長かったかもしれません。あるいは、ヨナはもっと優しく伝えようとして言葉を多少柔らかく変えたかもしれません。しかし、この「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という言葉は、厳しい言葉に聞こえるでしょうが、神様の御心の核心であったのです。
この「言葉」というヘブル語は、「宣言、宣告、通告」という意味を持つ言葉です。つまり、この言葉は対話の言葉でもなければ、相手の了解を求めたりする言葉でもなく、相手が承認しようがしまいが、一方的に語らなければならない、宣言しなければならない、人々が聞いて向き合わなければならない神様からの言葉であったのです。しかし、多くの人々は非情に聞こえ、神様は無慈悲だと思うでしょう。しかし、ヨナは御心をそのまま宣告したのです。
この「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という言葉を聞いて、多くの人はつまずくでしょう。しかし、この言葉にはふた通りの聞き方があると思います。一つは、言葉のまま、滅びの宣言として聞くことができます。自然現象によってではなく、神様によって滅ぼされるという恐ろしい言葉に聞こえます。「あと40日しかない」という聞き方です。
「40」という数字は、聖書にしばしば登場します。モーセはシナイ山で40日40夜過ごして「十戒」を神様から受けます。出エジプトの旅も40年です。イエス様がサタンから誘惑を受けた期間も、復活されたイエス様が弟子たちにあって教えられたのも40日間でした。40という数字には「一つの事柄が満ちる、完成する」という意味があります。ゆえに、40日したらニネベに神の滅びが完成するとも聞こえます。
しかし、もう一つの聞き方は、「まだ40日の猶予が神様から与えられている」ということです。神様が40日間、愛と忍耐を持ってニネベの人々が悔い改めて真の神に立ち返る期間がある、チャンスが残されているという捉え方です。神様の御心は、罪にあるわたしたちを「滅ぼす」ことではなくて、わたしたちを「赦す」ことにあり、ニネベの人々がヨナを通して神様の警告を聞き、悔い改めて神様に立ち返ることが神様の願いであり、滅ぼすことではなく、罪を赦す、神様の愛でつつみ込むことです。同様に、わたしたちがイエス・キリストの言葉を聞いて、悔い改めて神様に立ち返り、再びつながること、神様の愛の中に生きることが神様の御心であること、そのためにイエス様という神の言葉がわたしたちに臨まれたということを知り、喜び、感謝し、恵みに応えて生きる者とされてゆきましょう。