神の言葉に聞き従う人と聞いても従わない人との違い

「神の言葉に聞き従う人と聞いても従わない人との違い」 十一月第四主日礼拝  宣教  2025年11月23日

 エレミヤ書 42章1〜17節     牧師 河野信一郎

おはようございます。ゲストの皆さん、大久保教会へようこそいらっしゃいました!歓迎いたします。大久保教会の皆さん、お帰りなさい。今朝も皆さんとご一緒に神様に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。朝晩だいぶ寒くなってきております。ジャケットやコートが必要となって来ました。インフルエンザも流行っているとのことです。皆さんのご健康と日々の生活が神様によって守られ、祝されますようにお祈りしています。

さて、9月からシリーズで聴いて来ましたエレミヤ書も、今朝と次の30日の礼拝メッセージで終りとなります。誰でも神様の愛と祝福のうちに生きるためには、悔い改めて、神様に立ち返り、神様の言葉に日々聞き従い続けることが重要であることを学んできました。今回のメッセージもイスラエルの歴史における非常に重要な箇所ですので、非常に込み入った内容になりますが、忍耐をもって神様からの語りかけを聴いていただき、わたしたち各自にとって大切なことを心に留めていただきたいと思います。メッセージの内容は、タイトルにありますように、主なる神様の言葉に聞き従う人と聞いても従わない人との明らかな違いです。

先週のメッセージでは、エレミヤ書33章に聴きましたが、その中で、たとえ絶望的な状況に置かれたとしても、主なる神様に呼び求めるならば、神様は必ず応えてくださるということを学びました。また、たとえ廃墟のような状態に陥っても、主なる神様は新しい王・救い主を若枝のごとく与えてくださるという約束の言葉を聴き、その約束がイエス・キリストの誕生によって成就したことを聴きました。

けれども、ユダとイスラエルの人々が神様に対して犯し続けてきた罪があまりにも大きかったため、神様は北の大国バビロニア帝国を用いてユダの罪を裁かれます。歴史的に見ますと、紀元前598年に南ユダ王国はバビロニア帝国の大軍に負け、当時の南ユダのヨヤキン王をはじめとする権力者や祭司たちや技能者たちが捕囚の民としてバビロンへ連行されてゆきました。これがいわゆる第一次バビロン捕囚です。

その後、ゼデキヤという者が南ユダ王国の王位に着くのですが、10年後の紀元前588年に、ゼデキヤ王はバビロニアに反旗をひるがえし、失敗に終わった翌年587年にエルサレムは完全に陥落してしまいます。それまでどうにか守られていたエルサレム神殿も完全に破壊され、南ユダ王国は滅亡し、第二次バビロン捕囚が始まるのです。預言者エレミヤの預言通り、ゼデキヤ王は惨めな姿でバビロンへ連行されてゆき、またユダの人々も貧しい民の一部を残して連行されました。

その後、60年にわたる捕囚が始まるのですが、最初の10年を合わせますとトータルで70年の捕囚期間を過ごすことになります。これら一連の出来事は、39章から41章に詳細に記されていますので、お時間を作ってぜひ読んでいただければと思うのですが、今回聴く42章の背景となっています41章に記されている出来事についてお話しておきたいと思います。

捕囚を免れた人々、第一次捕囚の前後にエルサレムから逃げ出し、第二次捕囚後にエルサレムに戻って来た人々がいました。彼らは、エルサレムに残された人々の中にいた反バビロン派の人々と一緒になって、バビロンの王によって総督に任命されたゲダルヤという人、この人は廃墟となったエルサレムとユダを復興に努めていた人物ですが、この総督を暗殺し、またエルサレムに駐屯していた占領軍にも危害を加えてバビロン王を怒らせてしまいます。

バビロン帝国とのパイプ役であった総督ゲダルヤを失ったエルサレムに残された人々は、バビロン王の粛正を恐れ、生き残るためにエジプトへの逃亡を計画します。しかし、その行動に対するお墨付きが欲しい、つまり神様の承諾を欲しい人々は預言者エレミヤにこの計画への助言を求めにきます。それが42章の1節から3節に記されていることです。読みます。

「カレアの子ヨハナンとホシャヤの子エザンヤをはじめ、すべての軍の長と民の全員が、身分の上下を問わず、訪ねて来て、預言者エレミヤに言った。『どうか、我々の願いを受け入れてください。我々のため、またこの残った人々のために、あなたの神である主に祈ってください。御覧のとおり、大勢の中からわずかに、我々だけが残ったのです。あなたの神である主に求めて、我々に歩むべき道、なすべきことを示していただきたいのです。』」

今ここを読んで、皆さんの心に引っかかる言葉はないでしょうか。ここに「あなたの神である主に祈ってください」、「あなたの神である主に求めて」という言葉があります。神様は助言を求める彼らの神でもあるのに、彼らはここで「あなたの神である主に聞いて欲しい」とエレミヤに頼んでいます。ここには様々な思いが交差していると思います。まず、1)彼らは神様とエレミヤとの間に特別な関係があることを認めています。しかし、2)自分たちには罪ゆえに神様との特別な関係がないと感じています。それは、3)何処となくエレミヤ任せにしている彼らの無責任さが表れているように感じます。

そのような彼らに対して、エレミヤは4節で、「預言者エレミヤは答えた。『承知しました。おっしゃるとおり、あなたたちの神である主に祈りましょう。主があなたたちに答えられるなら、そのすべての言葉をお伝えします。』」と言っています。ここでエレミヤは、「あなたたちの神である主に祈りましょう」と言っています。これは、エレミヤが託宣を求める神は、イスラエルの神、主なる神であり、それゆえに民には神の言葉に聞き従う義務と責任があることを示すのです。人事ではなく、各自がしっかり神様に聞き従う必要があるのです。

エレミヤが承諾してくれた事に安堵した人々は5節と6節で次のようにエレミヤに言います。「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」と。皆さんもこの言葉に心を留めてください。とっても大切な言葉です。「良くても悪くても」とは、「神様の託宣がどんな内容であっても」ということです。「どんな御声でも必ず聞き従います」と彼らはエレミヤに言うのですが、しかし、現実はどうでしょうか。彼らの心の内は。

7節から12節を読みます。「十日たって、主の言葉がエレミヤに臨んだ。そこで、エレミヤはカレアの子ヨハナンと、彼と共にいたすべての軍の長たちをはじめ、身分の上下を問わず、民の全員を召集し、次のように語った。『あなたたちは、わたしを主のもとに遣わし、あなたたちの願いを受け入れてくださるよう求めさせたが、そのイスラエルの神、主はこう言われる。もし、あなたたちがこの国にとどまるならば、わたしはあなたたちを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない。わたしはあなたたちにくだした災いを悔いている。今、あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな、と主は言われる。わたしがあなたたちと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出すからである。わたしはあなたたちに憐れみを示す。バビロンの王もあなたたちに憐れみを示して、この土地に住むことを許すであろう。』」とあります。

これが主なる神様の約束の言葉であり、人々が聞き従うべき神様からの指示なのです。しかし、エレミヤは人々の心の内を、彼らがエジプトに逃れて行きたいことを知っていました。ですから13節から18節にある言葉をエレミヤは発するのです。

「もしあなたたちが、『我々はこの国にとどまることはできない』と言って、あなたたちの神である主の声に聞き従わず、また、『いや、エジプトの地へ行こう。あそこでは戦争もないし、危険を知らせる角笛の音もせず、食べ物がなくて飢えることもない。あそこへ行って住もう』と言うなら、今、ユダの残った人々よ、主の言葉を聞くがよい。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。もしあなたたちが、どうしてもエジプトへ行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、まさに、あなたたちが恐れている剣が、エジプトの地で襲いかかり、心配している飢えがエジプトまで後を追ってとりつき、あなたたちはそこで死ぬ。エジプトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。わたしが臨ませる災いを免れ、生き残る者はひとりもない。」と言うのです。これが神の言葉なのです。

18節から19節前半の箇所を読みます。「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちがエジプトへ行けば、わたしの怒りと憤りがエルサレムの住民にふりかかったように、あなたたちにふりかかる。あなたたちは、呪い、恐怖、ののしり、恥辱の的となり、二度とこの場所を見ることはできない。ユダの残った人々よ、主はあなたたちに対して、『エジプトへ行ってはならない』と語られた。」

主なる神様の言葉に聞き従う人には神様の伴いとお守りの中で命が続き、慈しみが豊かに神様から与えられます。しかし、神様の言葉を聞いても従わない人には神様が共におられないので、呪いと恐怖と苦しみの中で生きる事になり、その先は命が絶えるのです。しかし、そのような状態にわたしたちが陥らないように、神様は言葉を発し続けてくださるのです。

19節と20節前半に「今日、わたしがこの警告を伝えたことを、しっかり心に留めなさい。あなたたちは、致命的な誤りを犯そうとしている。」とあります。これは神様からの警告です。神様へ立ち返ることをせずに、今後も自分の思いのまま、欲にまみれたままに生きようとすると滅びが待っていると云うのです。エレミヤは、22節で、「あなたたちは剣、飢饉、疫病によって死ぬことを、しっかりと知らねばならない。」とはっきり言っています。神様の言葉に聞き従う人と聞いても従わない人の致命的な違いです。

しかし、幸いなことに、わたしたちがそのような状態に陥らないように、神様は言葉を発し続けてくださる。それがイエス・キリスト、神様から私たちに与えられている救い主なのです。この救い主が神の言葉として、この世の光としてこの闇に満ちた地上にお生まれになられた。その神様の愛の御業を喜ぶクリスマスが近づいています。救い主イエス様をお迎えする準備の期間・アドベントが来週30日から始まります。

「今、あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな、と主は言われる。わたしがあなたたちと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出すからである。わたしはあなたたちに憐れみを示す。」と神様は言われます。日々の生活の中で大変なことも多々ありますが、主の御前で心を静めて、神様の言葉に耳を傾けてまいりましょう。