神の霊によって生きる

「神の霊によって生きる」   10月第二主日礼拝 宣教     2018年10月14日

ローマの信徒への手紙8章1節〜17節       牧師 河野信一郎

今朝は、宣教の前に映画の案内をさせていただきたいと思います。この映画は、初代キリスト教会の誕生の記録である使徒言行録は、どのようにして生まれたのか。どのような迫害をすり抜けてキリストの福音はエルサレムから今のトルコ、ギリシャ、そしてローマへと広まっていったのかを垣間見ることができるもので、皆さんにも是非ご覧になっていただきたい映画です。その理由は、私たちは4月からローマの信徒への手紙をテキストに神様のみ言葉を聴いているからであり、映画を観ながら、あるいは見終わった後にでも、もしパウロという人がいなかったらキリスト教はどうなっていただろうかと想像して見てほしいからです。

しかし、この映画を観ようが観まいが、今朝、皆さんに少し想像してみていただきたいのです。もしパウロという使徒が実在しなかったら、キリスト教は今どうなっていただろうか。私たちはどうなっているのだろうか。いま私たちが生きている世界とは、だいぶ違った世界になっていたことでしょう。もしかしたら、私たちはこのように出会って、一緒に礼拝をささげていなかったかもしれません。

パウロ先生がいなかったら、キリスト教はユダヤ人の一部の人たちだけの宗教になっていたかもしれません。つまり、私たちがイエス様を救い主と信じるチャンス、救われるチャンスはなかったかもしれません。また、パウロ先生がいなかったら、私たちがいま手にしている新約聖書のボリュームは半分であったでしょう。マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネによる福音書はあったとしても、使徒言行録はたぶんなかったでしょうし、パウロ先生による書簡もすべて実在しなかったはずです。

もしパウロ先生が諸教会に書き送った書簡が実在しなかったら、どうなっていたと思いますか? 4つの福音書があったとしても、パウロ先生の書簡がなければ、その福音書に記されている真実を完全に理解することはできなかったのです。

主イエス・キリストの十字架の死の意味、十字架上で流された血潮の意味、主の晩餐式の意味、バプテスマの意味、罪について、死について、律法について、救いについて、希望について、神様が主イエス・キリストを通して与えてくださった赦しと救いと平和と希望などの意味を私たちははっきりと知り得ることはできなかったのです。

ですから、そういうことを考える意味においても、今回の映画は観るだけの価値のあるもの、時間とお金に少々無理をしてでも観る意味のあるものだと思います。

キリスト・イエスを信じる者たちを先頭に立って迫害していた人が、主イエス様に出会って、神様の愛と赦しを経験し、悔い改めて新しく生まれ変わって、イエス・キリストを救い主と告白し、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言い放ち、神様の愛とイエス様の救いの恵みを生き抜いた使徒パウロについて、考察するチャンスが恵みのうちに与えられています。このチャンスを見逃す理由は、どこにもありません。ぜひご覧になっていただきたいと心から思います。

さて、今朝もご一緒にローマの信徒への手紙を読み進めてまいりたいと思いますが、今回は、8章1節から13節を通して、神様の御心を聴いて参りたいと思います。

まず1節の初めに「従って」と記されています。新改訳聖書と口語訳聖書は「こういうわけで」と訳されています。この「従って」イコール「therefore/それゆえに」ですが、8章でこれから分かち合う内容は、パウロ先生が6章から7章で書き送ってきたことが前提・土台となっているということを示します。それでは、6章と7章でパウロ先生は何を書き送ったのでしょうか。簡単に申します。

6章は、イエス・キリストを救い主と信じ、神様の恵みに生かされている者は皆、「罪と死から解放され、新しい命が与えられている」ということ、そして「罪の奴隷という身分から解放され、新しい命に生きる自由が与えられている」ということがテーマです。

パウロ先生が6章で最も主張したいことは、「罪と死から、奴隷の身分から解放された者は、新しい命に生かされているから、日々その恵みに応え、神様に従順に生きなさい」と言う励ましです。

そして、7章では、「キリスト者・クリスチャンは、ユダヤの『律法』からも解放されている」ということがテーマです。

パウロ先生いわく、律法は聖なるもの、正しく、善いものです。しかし、その善いはずの律法の使用の仕方、用い方を私たち人間が間違えると、律法、ルールが罪を犯す道具となる。つまり、人が他の人に重い足かせをつけ、裁き、過度のストレスや苦痛を与え、生きる希望を奪い、強いては死に至らせることになるというのです。

そして、私たちがその律法・ルールの用い方を間違えさせる最大の原因は、私たちの中に内在する「罪」だとパウロ先生は言うのです。

パウロ先生が7章で最も主張したいことは、「律法の呪縛から、罪から解放された者は、自由が与えられ、新しい命に生かされているのだから、その大いなる恵みに応え、神様に従い、日々従順に生きなさい」と言う励ましです。

確かに日々の生活の中で、私たちはひとり苦しみ悩むことがあり、心の中で壮絶な戦いがあり、多くの場合、大きな罪の力に押し流されてしまい、その結果、自分の無力さ、みじめさにさらに苦しみます。

しかし、そんなわたしたちのすぐ近くに救い主イエス・キリストがおられるのです。罪にある小さく弱い私たち、本当に惨めで、絶望のどん底でもがき苦しんでいる私たちを抱き上げ、涙を拭い、愛を持って救ってくださるのがイエス・キリスト、救い主なのです。

このイエス様を信じるとき、私たちはイエス様に結ばれ、イエス様の力にとって救われます。

1節をご覧ください。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とパウロ先生は宣言しています。これが「福音」、「良き知らせ」なのです。

さて、このイエス様を救い主と信じてゆく時、わたしたちの心にイエス様の霊が入ってきてくださり、日々の生活の中で、私たちと共に生きてくださいます。イエス様の霊は、神様の霊でもありますが、その霊を「聖霊」と呼びます。そして、2節をご覧ください。この聖霊が私たちを罪と死の法則から完全に解放し、命をもたらす「霊の法則」に生きるものとしてくださるとパウロ先生は言います。

この「霊の法則に生きる」ということ、とても難しく聞こえますが、これは7章6節でパウロ先生が言っていた「霊に従う新しい生き方」という意味で、神様の霊に従う新しいライフスタイルと言った方が分かりやすいかもしれません。

さて、3節に「肉の弱さのために律法がなし得なかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」とありますが、私たち人間は罪に支配され、弱くなって、律法を守ることができなくなったので、私たちの罪を赦し、私たちを罪の支配から解放し、新しい命に生かすために、神様はイエス・キリストをこの世に送り、このキリストによって私たちが支払うべき罪の代償をすべて支払ってくださったという意味です。

この福音を聞いてイエス・キリストを救い主と信じるか信じないかは、100%、私たち一人一人の自由な意思に委ねられています。しかし、神様は信じて欲しいから、私たちに救いを得て欲しいから、イエス様を私たちのもとへお送りくださった。イエス様が十字架上で、罪の代償をすべて支払ってくださった。その理由をパウロ先生は4節でこのように言っています。「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」。つまり、肉イコール罪に従って歩むのではなく、私たちが神様の霊に従って生きるためであったということです。

今朝は、「神の霊によって生きる」とはどういうことのなのかを3つ、み言葉から聞いてゆきますが、5節から9節には、肉の性質イコール罪に支配されている生活と神様の霊に支配されている生活との対比が記されています。

そういう中で第一に、「神の霊によって生きる」とは、「神様の霊に従って歩む」ということです。では、「神様の霊に従う」とはどういうことなのでしょうか。その答えは5節にあります。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」

「私は神様に愛され、つながっている。イエス様に結ばれ、生かされている」という恵みをいつも考えるということです。

第二に、「神の霊によって生きる」とは、「神様の霊の思いを抱く」ということです。

6節に「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」とありますが、神の霊の思いを抱くことが大切です。パウロ先生は、それぞれの思いの行き着くところは死か、命と平和かであると言っています。

「私は神様に愛され、つながっている。イエス様に結ばれている。生かされている」という恵みをいつも考え、感謝し、自分の思い・欲情・欲望に素直に従って歩むのではなく、神様の思い・御心に素直に従って歩むということが求められていると示されます。

7節から9節で「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」、つまりキリストにつながっていませんとパウロ先生は言います。

あなたの、わたしたちの心の内に、神様の霊、キリストの霊、御聖霊が宿ってくださるとパウロ先生は言いますが、そのように宿っていただくためにわたしたちは何をしたら良いのでしょうか。そんなに難しいことではありません。まず素直になって、イエス様を信じて、今までの自分勝手な歩みを悔い改めつつ、あなたの心を開くということです。それだけです。そうすることで、神の霊が心に入ってくださり、宿ってくださり、この霊にいつも助けられて、神様の喜ばれる実を結ぶことができるようになるのです。

私たちにその力がなくても、神様には、神様の霊にはその力があります。10節と11節を読みましょう。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって、つまり神様の愛と赦しによって、命となっています。

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」

神様にできないことは、何一つないのです。

さて、神様の霊によって生きる者には一つの義務があるとパウロ先生は12節から13節で言います。それは、神様の霊によって生き「続ける」という義務です。恵みに生かされ続けるということ、それをいつも喜び、感謝して生きるという責任です。

わたしたちはただ、神様とイエス様を、神様の愛と赦しの力を、復活の力を信じることが求められています。信じましょう。そして聖霊に導かれて生きてゆきましょう。