「神はわたしたちの祈りを待つ」 十一月第四主日礼拝 宣教 2024年11月27日
詩編 66編10〜20節 牧師 河野信一郎
おはようございます。早いもので、11月の最後の主日です。寒くなるのは当たり前ですね。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。いよいよ来週1日からアドベントが始まります。今日は、クリスマスの飾り付けを礼拝後にします。ご協力ください。今年のクリスマスは22日の朝にクリスマスの礼拝と祝会があり、夕方にクリスマスの夕礼拝があり、夜はThe Bridgeのクリスマスコンサートが開かれます。24日の夜にはイブ礼拝が19時からささげられます。ご家族やご友人のために祈り、ご一緒にご出席ください。
今朝の礼拝は、世界バプテスト祈祷週間を覚える礼拝としておささげしていますが、東南アジアとアフリカで働かれている宣教師ご家族の祈りの課題や様々な活動の祈りの要請が分かち合われます。また、台湾から派遣されているP宣教師のお証しもありますので、楽しみにしていただければと思います。証しというものは、必ずしも嬉しいことの分かち合いだけでなく、様々な壁にぶち当たった時に神様の存在に気付かされる、その愛を知る、イエス様に出会うということを経験するのですが、P宣教師も例外ではありません。神様がどのように関わってくださり、イエス様に出会い、日本へと導かれたのかを皆さんもぜひ知っていただき、日本へ派遣されているP宣教師、S宣教師ご家族、B宣教師ご夫妻、BF宣教師ご夫妻たちの働きを覚えて祈りましょう。
さて、つい先日ですが、報道番組で知った「三低三少(さんていさんしょう)」という言葉を最初に分かち合い、メッセージの導入にしたいと思います。最近、お隣の中国で幼い子どもたちも巻き込まれる無差別殺傷事件が相次いでいます。広東省深圳市の日本人学校に通う男の子が9月中旬に襲われて命を失ったことや車の暴走で多数の人達が死傷した事件など、一昨日は湖南省常徳市で児童たちが暴走車にはねられて負傷する事件がありました。これらの事件は、「社会への報復」と中国政府は位置付け、社会への不満を暴力で表していると分析しています。これらの事件に共通するのが「三低三少」です。
「三低」とは、低い所得、低い社会的地位、低い社会的人望だと知りました。「三少」とは、人との付き合いが少ない、社会と触れ合う機会が少ない、不満を口にできる機会が少ないという意味だと知りました。これらの事件を受け、地方政府は、これらの「三低三少」に当てはまる人物たちを「事件を起こす可能性のある人」として重点的に管理するように警察に指示したそうです。興味深いのは、これらの犯行に及んだと見られる人物たちには、低所得層だけでなく、中間層、そして富裕層の人達もいるとのことで、中国の経済が悪化し、倒産や失業などが相次ぎ、生活水準が下がったことに不満を抱く人が多いそうです。
そういう中でわたしが最も驚いたのは、日本在住の中国人ジャーナリストの言葉ですが、「中国にはカウンセリングというものがない」という言葉でした。悩みを打ち明けられるような信頼できる人間関係性が欠如している。相談できる施設や機関もないというのです。わたしは本当に驚きましたが、同時に中国にイエス様が必要だと感じ、いつか中国の宣教地に戻って神様の愛、イエス様の福音を伝えたいと願っている宣教師たちを覚えて祈りました。イエス・キリストがすべての民、わたしたちのカウンセラーであり、救い主だからです。
中国の政府当局は、犯罪を犯しそうな人たちを監視し、すぐに拘束しようと動きます。しかし、神様とイエス様はそのような人々を不安や不満や絶望から解放するために動かれます。日本へ旅行で来られる方々は中間層から富裕層の人達でしょう。中国国内から脱出できず、思い悩みや迷いから解放されない人たちが神様の愛とイエス様の福音によって解放されなければなりません。中国だけでなく、ウイグル族、ミャンマー、パキスタン、ウクライナの人々が苦しみから解放される必要があります。もしわたしたちにそれができないのであれば、それができる人たちを支援し、働き人を派遣する団体を支援しましょう。
前置きがいつも長くなって申し訳なく思いますが、世界祈祷週間であるからこそ、覚えて祈るべき事柄であると信じます。シリーズ「神様はわたしたちを待っておられる」というテーマで神様の御心を分かち合わせていただいていますが、神様が待ってくださっているのは新約聖書にもたくさん記されていますが、あえて旧約聖書のイザヤ書や今朝の詩編66編をテキストにメッセージするのは、旧約の時代から神様はずうっとわたしたちを待ってくださっていることを少しでも強く、そして近くに感じてほしいからです。
今朝は、詩編66篇から、わたしたちがイエス・キリストの名によって神様に祈ることを神様はひたすら待ち続けてくださっていることを分かち合いたいと思いますが、少し駆け足になることをお許しください。今朝の礼拝への招きの言葉として1節から4節が読まれましたが、この部分は危機的状況から救い出してくださった神様に感謝と喜びの賛美をささげようという賛美への呼びかけです。続く5節から7節は、イスラエルを救い出した神様の御力がどれほど力強かったかを来て見なさいという礼拝への招きの言葉です。
8節と9節は、わたしたちがなぜ神様に礼拝をおささげするのかという使命と目的が記されています。「8諸国の民よ、我らの神を祝し、賛美の歌声を響かせよ。9神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。」とありますが、わたしたちの使命は、礼拝を通して神様を祝し、御名をほめたたえることです。
しかし、神様を心から愛し、賛美と礼拝をささげる者たちに対して、神様は、礼拝の中で、わたしたちの魂に命を得させてくださると詩人は言います。つまり、神様を愛し、御心に従って生きるために必要な力、慰め、励まし、導きを与えて、わたしたちの魂が不安や恐れや怒りに揺さぶられてよろめかず、いつも平安であり、恵みに生かされている喜びを神様は礼拝の中で与えてくださり、勇気付けてくださると言うのです。わたしたちが日々の生活で弱り果てて転ばないように、わたしたちの信仰を守ってくださると言うのです。ですから、神様を愛し礼拝する者に豊かな恵みを与えてくださる礼拝を大切にしなさいと励ますのです。
10節に「神よ、あなたは我らを試みられた。 銀を火で練るように我らを試された。」とありますが、これは過去のことではなく、わたしたちを御心に適った者、使命を果たすにふさわしい者へと造り変えるために神様は試練という訓練を与えると言うことです。ですから、試練にも神様のご計画があるから、神様にだけ信頼して歩みなさいということです。
11節と12節も同じです。「あなたは我らを網に追い込み、我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが あなたは我らを導き出して 豊かな所に置かれた。」とありますが、わたしたちの中から不純物を取り去るために、神様はわたしたちを火で焼き、水で洗い流します。聖霊によるバプテスマと水によるバプテスマと言っても良いかもしれません。このことにはどのような意味・目的があるのか。それは、わたしたちを「豊かな所に置く」という目的です。神の国と理解して良いと思います。
13節に、「わたしは献げ物を携えて神殿に入り、満願の献げ物をささげます。」とありますが、「満願の献げ物をささげる」とは、自分を神様にささげてゆく、つまり献身して、神様に仕えて生きると捉えることが良いと思います。この献身の思いは、神様から強要されたものではなく、「自分は神様に救われ、本当の愛を知り、今は恵みのうちに生かされている。自分の命は神様のものですから、神様のために働きます」という自発的な献身です。14節と15節の内容は、神様に従って歩むことを約束し、果たす信仰を表しているものです。
さて、詩編66編のここまでの主語は「神」でありましたが、16節から20節の主語は「わたし」と切り替わっています。この「わたし」とはイスラエルの王様です。この王様がイスラエルの民全体に対して、イスラエルの神、主なる神様が誠に賛美されるべきお方、礼拝をお受けになるべきお方であることを示しているのが、この最後の部分です。16節に「神を畏れる人は皆、聞くがよい。わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう」とありますが、この「わたしに成し遂げてくださったこと」の部分を新改訳聖書では「わたしの魂になさったこと」と訳しています。主なる神様がわたしたちの魂を救ってくださるのです。
17節には、「神に向かってわたしの口は声をあげ、わたしは舌をもってあがめます」とありますが、これは危機的な状況下で神様に祈ったということです。つまり、今の困難な時代を生きるわたしたちに対して、「あなたたちは神様に祈って良いのだよ。神様はあなたが神様に祈ることを待っておられるよ」と、祈りへと招かれていると捉えることができます。
しかし、聞かれない祈りもあると18節に記されています。「わたしが心に悪事を見ているなら、主は聞いてくださらないでしょう」とあります。わたしたちの心の中におごり高ぶりがあれば、神様はわたしたちの祈りに応えてくださらない。けれども19節です、「しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け、聞き入れてくださいました」とあります。謙遜な心、悔い砕けた心で祈る祈りに神様は応えてくださるのです。
わたしたちに必要なのは、素直な心で神様を信じ、神様に祈り、心のうちにあるものをすべて明け渡してゆき、救い主イエス・キリストの御名によって祈ることです。このように謙って祈る者の祈りを神様は退けることなく 慈しみを与えてくださいます。ですから、20節、「ハレルヤ! 神をたたえよ!」なのです。わたしたちが祈ることを待っておられる神様に絶えず祈って、御心を求めて歩み、主の御心に従って歩んでまいりましょう。