神を信じ、キリストを信じなさい

「神を信じ キリストを信じなさい」 三月第二主日礼拝   宣教要旨 2017年3月12日

  ヨハネによる福音書 14章1〜14節       牧師 河野信一郎

 受難節(レント)の中、ヨハネによる福音書14章1節から14節に記されている主イエスの言葉に聞いてゆきますが、14章全体を一度読んでいただければ幸いです。何故ならば、この14章は、主イエスの「心を騒がせるな」という励ましの言葉で始まり、最後の部分ではありませんが、27節にも主イエスの「心を騒がせるな。怯えるな」という励ましの言葉でサンドイッチされた形になっているからです。この14章のテーマは、主イエスが愛する弟子たちに対して「心を騒がせるな」という主の励ましがテーマになっています。

 私たちは、どのような人であっても、なにかしらの大きな問題・課題にぶつかる時、深い霧の中に、あるいは真っ暗闇の中に置かれたような心理状態になり、心が騒ぎ立ち、先がまったく見えない不安・恐怖心に襲われます。あなたは、深い霧の中を運転したことがありますか。大雪・大雨でもかまいませんが、前方がまったく見えないことほど恐ろしいことはありません。スピードを落として進むか、霧が消えてしまうまで安全な場所に駐車して待つことがベストです。無理をすると、正面衝突を起こしたり、後ろから追突されてしまいます。どんな人でも、人生の中で大きな問題に直面して先がまったく見えなくなると、心は騒ぎ立ち、悩み苦しみ、特に自分の無力さを嫌というほど味わい、それに打ちのめされます。

 主イエスが弟子たちに「心を騒がせるな」とおっしゃられた理由は、ご自分がこれから十字架につけられて死に、弟子たちと離ればなれにならねばならず、弟子たちがしばらく失意の中を歩まなければならないと知っておられたからです。そして、彼らの信仰がなくならないように励ましたかったからです。ですから、主は続けて、「神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい」と言われ、神とご自分に信頼し続けるように励まされます。

 あなたは、今、将来が不透明、あるいは深い霧の中に置かれて悩んでいることはないでしょうか。心が騒いでいないでしょうか。ほとんどの人が心のうちに悩み苦しみ、思い煩い、恐れを持っていると思います。しかし、そのような私たちに対して、主イエスは今朝、「心を騒がせないで、苦しまないで、神を信じ、わたしを信じなさい」と招かれます。

 主イエスは、弟子たちに向かって、「わたしはこれから十字架上で贖いの死を遂げ、あなたがたと別れなければならない。しかし、この別れにも理由、目的、意味がちゃんとあるのだよ。あなたがたが地上での人生を終えた後に、永遠にわたしと共にいる場所を準備するために父なる神のもとに帰るんだ。用意ができたら必ず戻ってくるから、それまで神とわたしを信じて待っていなさい。必ず、あなたがたを迎えにくる」と約束されるのです。

 私たちは、死を恐れて心が騒ぎ立ちますが、死の向こう側には、永遠の命があり、神の御国が、永遠に生きる住まいが与えられることを信じ、希望をもって生き続けなさい。そのように生きることがあなたがたの地上での使命であり、恵みであると主は言われるのです。天国は、この地上で功績のある人や主と教会のために尽力した人だけが招かれる所ではなく、今ここで心を騒がせている私たちも招かれている祝福の場所だということを覚えましょう。

 主イエスは、4節で、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と弟子たちにおっしゃいますが、弟子たちはその主の言葉を理解することはできませんでした。ですから、弟子のトマスが代表して「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねます。ここでトマスは自分たちの理解力の乏しさを認めています。私たちも、分からないことは分からないと正直に言える素直さと謙虚さを持つことが大切だと教えられますが、そのような弟子たちの弱さをとがめることもなく、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃり、「わたしがあなたがたを助けて導くから、わたしを信じて従いなさい。心を騒がせるな」と招いてくださるのです。

 詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は信じて従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」と主なる神が約束してくださり、その約束を成就してくださったのが主イエス・キリストなのです。

 この主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃいます。この主の言葉がある人の耳には排他的に聞こえ、とても傲慢な言葉に聞こえるかもしれません。しかし、そうではないのです。神から遣わされた主イエスは、神の御もとからこの地上に来られた唯一のお方であって、この御子にしかこの世に来た道も、天の御国に戻る道も分からないのです。ですから、神の御もとへ行き、永遠の命と祝福を受けたいと願うならば、イエス・キリストという道の上を歩んでゆくしか方法はないのです。

 イエス・キリストという真理が、神の御心を私たちに教え、御国へと向かってゆくこの地上での歩みをどのように歩むべきか、どのように生きるべきかをつぶさに示して下さいます。この真理に導かれて歩む道の終着点は御国であり、神と主イエスがおられる場所、永遠の命が授けられる場所です。ですから、主イエスを信じて、主の道を歩んでゆくように私たちは日々招かれ、励まされているのです。

 ここで1節の主の言葉に戻りましょう。主イエスは、「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と弟子たちにおっしゃいます。主は何故「神を信じ、わたしを信じなさい」とおっしゃるのでしょうか。「神を信じなさい」だけでも良かったのではないでしょうか。「神を信じるだけでは不十分なのか」という思いが頭をよぎります。しかし、主イエスがあえてそのようにおっしゃったのには理由・意図があります。つまり、父なる神と御子なるイエス・キリストは一人の神であられることを弟子たちに示そうとされたのです。7節の主イエスの言葉も同じです。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、すでに父を見ている」とおっしゃいます。

 この主イエスの「すでに父をあなたがたは見ている」という言葉にすぐに反応したのはフィリポで、彼は「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足です」と言って、「神をこの目で見たい、見せて下さい」と願います。それに対して主イエスは9節から11節で「わたしを見た者は、父を見たのです。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父なる神が、その業を行っておられるのです。わたしが父なる神の内におり、父がわたしの内におられると、わたしがいうのうを信じなさい」とおっしゃり、父なる神と主イエスの意志が同じであるとの一体性を教えています。

 さて、残りの12節から31までで、主イエスは弟子たちに対して3つの約束をしていますが、その最大の約束は15節以降に記されている主イエスの代わりに神の霊、真理の霊である聖霊が与えられるというものです。そしてもう2つの約束が12節と13節に記されています。

 12節に「あなたがたにはっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとに行くからである」とあります。これは、主のように病いを癒したり、悪霊を追い出すような奇蹟を行うという意味ではなく、もっと大きな業、つまりイスラエルから全世界へ出て行って、神の愛とキリストの福音を宣べ伝え、主イエスを救い主と信じて、主につながる人々を起こして行くということで、そのために神から聖霊が与えられ、力を得て、その福音宣教の業に励めるということです。

 もう一つの約束は、13節と14節にある、「主イエスの名によって願うことは何でも主イエスが叶えてくださる」という約束です。私たちは、主イエスの御名によって神に祈り求める時に、神がその願いを叶えて下さると思い込んでいますが、ここでは主イエスが叶えて下さると主は言っておられます。これは、先ほどの「神を信じ、主イエスを信じなさい」ということと同じで、神と主イエスは一つなので、どちらに対して祈っても願いが叶えられるということです。ですから、心を騒がせている暇があれば、神と主イエスに祈りなさいという招きの言葉であり、祝福が与えられる約束です。

 しかし、ここで注意すべきことは、どんな願いでも叶えられるということではなく、「主イエスの御名によって」とあるように、主イエスの御心に従って願い求める祈りを主は叶えてくださるということです。

 私たちの日常生活は、心を騒がすこと、悩みが多い日々です。しかし、神を信じ、主イエス・キリストを信じ、主の御心を求めて祈ってゆく時、主は私たちの想像を遥かに超えた力をもって答えてくださり、心に主の愛が豊かに注がれ、豊な平安で満たされます。ですから、大いなる愛の神を信じましょう。主イエス・キリストを救い主と信じて従いましょう。そこに、平安の源があるからです。