「神を尋ね求めるならば、あなたは神に出逢う」十月第三主日礼拝 宣教 2025年10月19日
エレミヤ書 29章1〜14節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に神様へ賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。子どもメッセージでもお話ししましたように、今朝は、皆さんにも秋の香りを楽しんでいただこうと思い、普段から教会の玄関に置いて、大切に育てている金木犀の鉢を礼拝堂に持ち込みました。甘い匂いが礼拝堂にほのかに漂っているかと思います。
子どもたちとも分かち合いましたように、使徒パウロは、第二コリントの信徒への手紙2章15節で、わたしたちを「神の御前に芳しいキリストの香りとなりましょう」と励まします。しかし、皆さんの中には、「キリストの香りとはどんな香り?」と疑問を抱く方もおられるかもしれません。パウロは、エフェソの信徒への手紙5章2節で、「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、神様へのいけにえとして献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と言います。つまり、「キリストの香りを醸し出す」とは、イエス様が愛してくださったように隣人を愛するということです。
この金木犀にしろ、玄関にあるミニバラ、ライラック、梔子の花にしろ、その花々が芳醇な香りを放つのは、自分が神様によって創造され、神様に愛されていることを知っているので、その香りをもって神様をほめたたえ、それと同時にわたしたちを喜ばせてくれるのだと思います。わたしたちも神様に造られた存在であり、それぞれがオンリーワンの存在です。しかし、同じ目的のために恵みの中を生かされています。神様と隣人の喜びのために生きる者とされてゆきたいと願います。神様に心から願えば、神様は用いてくださいます。
さて、大久保教会の朝の礼拝では、9月からエレミヤ書をシリーズで聴いています。これまでのメッセージの内容は、聴く皆さんにとって、どちらかというと、決して耳障りの良いものではなかったかもしれません。ある人は不快に感じられたかもしれません。しかし、今の時代に生かされている民だからこそ、しっかり聴いてゆく必要のある神様からの御言葉ではないかと、わたしはこのシリーズの学びを準備する段階からずっと感じさせられています。
皆さんの人生には、それぞれ転換期、節目、転機があったかと思います。それが好機であれば歓迎しますが、もし病や事故、失恋や失業、死別や離婚という人生の危機であれば、誰もが遭遇したくない転機と言えるでしょう。個人的なことで申し訳ないですが、わたしの人生で転機となったのは、10歳の時にイエス様を救い主と信じたこと、13歳の時に家族と一緒にアメリカへ移住したこと、21歳の時に父を病気で突然失ったこと、しかしそこでもがき苦しんで本気で献身したこと、ルイビルの神学校で学んだこと、そして19年間のアメリカ生活を終えて大久保教会の牧師として日本に戻って来て、妻と結婚し、家族が与えられたことです。それ以外にも間違いを色々犯して苦悩したり、紆余曲折はたくさんあったわけです。
わたしたちの人生には、それぞれに好機、危機、転機などありますが、最も痛ましいのは自分の犯した間違い、家族や親しい間柄の人、周囲の人たちの判断ミスや操作ミスによって引き起こされる人生のターニングポイントです。痛恨の極み、悔やんでも悔やみきれない事がたくさんあるわけです。しかし、そのような痛みや悲しみや苦しみにも、回復や幸いや喜びへのターニングポイントが必ず必要なのです。しかし、わたしたちが犯しやすい間違いは、その人生の転機を自分の力や努力で見つけようと頑張り、もがく事です。けれども、聖書には、その人生の転機は神様がイエス・キリストを通して与えてくださると記されています。
さて今朝もエレミヤ書から神様の愛の語りかけを聴いてまいりましょう。先週は、預言者エレミヤを通して神様から「わたしに立ち帰りなさい!」、「わたしの言葉に真剣に聞き従いなさい!」、「わたしとの契約を思い出しなさい!」と言われ続けたけれども、頑なに拒み続けたユダの民、エルサレムの民に対して、神様が「あなたがたの思いはよく分かった。あなたたちは聞き従わないので、北の大国を用いて、大木を切り倒すようにあなたたちを滅ぼす、しかしその切り倒した株元から若枝を起こすと約束された箇所に聴きました。
株元から起こされる若枝とは、神様の御心を忠実に行う若い牧者・王です。その牧者、わたしたちの王となってくださったのが、わたしたちの罪のために十字架に死なれ、三日後に復活された救い主イエス・キリストであることを聴きました。この悩みの多い世の中で、イエス様を救い主と信じ、悔い改めて神様に立ち帰ること、そして祝福を約束してくださる神様に望みを置くことが重要であることをエレミヤ書の23章からご一緒に聴きました。
今朝は29章の1節から14節に聴きますが、今回の内容は月日が23章からだいぶ過ぎて、第一次バビロン捕囚の後のこととなります。ちなみに第一次バビロン捕囚はBC598年で、第二次捕囚は11年後のBC587年です。この29章は、1節にありますように、「ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙」で、3節に、「この手紙は、ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもとに派遣したシャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤに託された。」とあり、その内容は4節からになります。
4節に、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。」とあります。バビロニアへ連れて行かれた人たちは、「長老、祭司、預言者たち、および民」とあります。ユダヤ社会の中でも地位や力のある人、知恵のある人、技術を持つ人などが捕囚の民とされて引かれてゆきましたが、それらの人々に対して神様は、5節から7節で二つのことを命じます。
一つは、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。」ということ。二つ目は、「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。」という命令です。
しかし、捕囚の民はこのエレミヤからの手紙をイスラエルの神、万軍の主の命令の言葉として聞き従うことをためらいました。捕囚の地に家を建て、そこで家族を形成すること、またその地で生きる中で平安を求めるとは、そこに定住すること、それはつまりその地に生き続けることを意味します。捕囚の地に定住することなど彼らの選択肢には一切ないのです。何故ないのでしょうか。その理由・根拠は何でしょうか。
8節と9節に、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。」とあります。捕囚の民がその土地に定住することを頑なに拒んだ理由、そして根拠は、神様から遣わされていない偽の預言者や占い師たちが、あと数年忍耐すればエルサレムへ帰還できるという偽りの預言や占いをし、民がその偽りを信じていたからです。
余談になりますが、神様から遣わされていない預言者のことについて23章26節と27節には、「偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」とあり、また同じ23章36節では、彼らは「生ける神、万軍の主の言葉を曲げる」とあります。捕囚の民は、真の預言者エレミヤを通して語られる神様のまっすぐな言葉ではなく、偽りの預言者たちによって曲げられた言葉を聴いて、自分たちの間違いを軽く捉え、神様によってくだされた裁きを軽く見たのです。
今日においても耳触りな言葉は無視され、都合の良い言葉を聴いてしまう傾向がありますが、わたしたちに必要なのは、そのような心地良い言葉ではなく、神様の御言葉です。またイエス・キリストの言葉に聴くこと、聴いた言葉に忠実に従う信仰が必要なのです。10節に、「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」とあります。捕囚の民はバビロンで70年間過ごす必要があります。何百年もの間、民が神様の言葉に従わなかったからです。しかし、神様は70年の時が満ちたら、「わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」と約束してくださるのです。
ここに「わたしはあなたたちを顧みる」とありますが、この「顧みる」とはどういうことでしょうか。ほとんどの日本語訳聖書はこの言葉が使われていますが、リビングバイブルでは「思いやる」という言葉に訳されています。広辞苑をみますと、「もう一度来て見る」、「背後を振り向いて見る」、「気にかける」、「心配する」、「情けをかける」とありました。英語の聖書には「あなたを訪れる」と訳されています。つまり、神様のことも、その言葉も、神様との契約を忘れ、神様から遠く離れた民に、神様のほうから歩み寄ってくださり、訪れてくださる。それが「顧みる」という意味なのです。その約束どおりに、神様は70年の後、捕囚の民を訪れ、本来あるべきところに戻してくださるのです。
11節で、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」と言われます。この神様の顧み、神の訪れの成就は、神の御子イエス・キリストの誕生です。神様との平和をもたらし、わたしたちに将来と希望を与えてくださるために、イエス様は闇の中にいるわたしたちのところに来てくださり、光のうちへ、神様にしか与えることができない喜びと平安と希望へと招いてくださるのです。
わたしたちに必要なことは何であるか。12節から14節に、「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」とあります。わたしたちに重要なこと、それは悔い改めて主なる神様を尋ね求めること、神様に立ち帰ることです。そうすれば、わたしたちは神様に出逢うことができ、イエス様と共に喜びと平安と希望の中を歩むことが日々できるのです。
