「福音宣教に励む教会」 七月第一主日礼拝宣教 2021年7月4日
テモテへの手紙Ⅱ 4章1節〜5節 牧師 河野信一郎
おはようございます。日本各地で記録的な雨が降り、洪水や土石流による甚大な災害が各地で続いています。ニュースで映像を見ますと心が痛みます。またコロナウイルスの新規感染者数も増えている中でのオリンピック開会には不安材料がありすぎの状態で、祈ることがたくさんあります。皆さんにも祈りの課題が色々とあるのではないでしょうか。しかし神様の憐れみの中、今日も神様とイエス様の御前に礼拝者とされている幸いを主に感謝いたします。
梅雨の時期ですから致し方ないのですが、先週は雨の日が本当に多い週で、週の後半は激しい雨が続きました。しかし、水曜日は雨が降りませんでした。この日、教会の有志と宣教師の方々7名が大久保教会に集まって、教会の東側の地域(若松町、原町、弁天町、早稲田、戸山)の祝福を祈るプレイヤーウォーキングをしました。教会員や礼拝に来られている方々のお住まいや職場の周辺を回って祝福を祈りました。その日だけ雨から守られて感謝でした。
次回は、教会の西側の地域(大久保、百人町、北新宿)の祝福を祈りながら歩きたいと思っています。日頃より自転車や車やバス、電車や地下鉄を乗っていますとスピードで見えないものが、ゆっくり歩きますと新しい発見があったり、道ゆく人たちの顔がよく見えます。
さて、金曜日のお昼には、熊本の保田井夫人からお電話があり、お話をさせていただきました。保田井建先生は2年程前に転倒され、ずっと入院生活であったので心構えはされていたそうで、いつもと変わらない優しい声、平安に満ちた声でお話しくださいました。大久保教会の皆さんの愛と祈りとお支えに励まされています、ありがとうございますとお伝えくださいということでした。東京にいらした際には大久保教会に来てくださると約束してくださいました。天国での再会という希望が与えられている恵みを感謝しました。
この礼拝堂におられる皆さん、そしてオンラインで礼拝に出席されている皆さんも多くのご苦労が日々あると思いますが、それでも教会の皆さんと分かち合いたいと思っておられる神様からの祝福、恵みがあるのではないでしょうか。もしそうであれば、どうぞその恵みを分かち合っていただきたいと思います。あまりにも日常的で些細なこととすぎる思う必要はありません。この1年半、教会に集って礼拝をささげること、交わりも、食事も、そして何より一緒に祈ることができなくなり、恵みの分かち合いや祈りの課題を共有することが困難になり、関係性がとても希薄になっています。この困難な中でわたしたちはどのようにつながり合い、教会・神の家族としての絆を確かめ合い、維持するのか。それは喜びも苦しみもみんなと分かち合い、共に御言葉に聞き、祈り合い、励まし合うしか方法はないのです。
さて、今日7月4日は大久保教会の56回目の誕生日です。この大久保・新宿の地で1953年から福音の種まきが始まり、1959年から本格的に福音宣教が開始され、1965年のこの日に大久保教会として誕生しました。この間、どれほど多くの人々がこの教会に招かれ、この礼拝堂で礼拝と賛美をささげ、神様の愛とイエス様の福音に触れ、慰められ、励まされ、宣教を通して救い主と出会い、イエス様を救い主と告白し、バプテスマを受け、聖書の御言葉によって新しくされ、祈りと交わりによって励まされて来たでしょうか。この教会を通して、どれだけ多くの方々が神様の家族の一員となり、神様の御許に招かれて行ったでしょうか。この教会は、幾多も危機的状況にも直面しましたが、主の憐れみと祝福の中で、これまでずっとこの地に立てられ続け、共に歩んで来ることができました。すべて神様からの恵みです。
この教会は多くの人々の通過点でもあります。56年の歴史の中で、この大久保教会へ招かれ、礼拝と交わりの中で霊的成長が与えられた後に全日本、そして世界へと遣わされ、それぞれ置かれた場所で霊の実を結んで来られましたし、今も実を結んでおられます。感謝です。
神様は、わたしたち一人一人のこれからの信仰生活に特別なご計画と祝福を用意してくださっていると信じていますが、わたしたちにとって最も大切なのはこの人生という主と人々と教会に仕えるレースを走りきり、神様のおられる天国へ招かれ、永遠に神様と共に過ごすということです。そしてレースを走りきるために重要なのは、この地上での人生を生きる意味、理由、目的をはっきり知ること、そしてその示された目的に沿って誠実に生きることです。
そのことをわたしたちに正確に教えてくれるのが「聖書」です。聖書は神様の御言葉であり、人生の取扱説明書と呼ばれています。わたしたちは何者で、誰によって、何の目的のために造られ、どのように生きればその造り主の願い通りに役割と責任を果たすことができるのかが詳細に記されています。パウロは、弟子のテモテに聖書とはどういう書物であるのかを次のように教えています。第二テモテ3章15節〜16節に記されていますが、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書は、すべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」とあります。聖書は、神様とイエス様と聖霊について、わたしたちについて、そしてどのように生きるべきか、わたしたちに必要なことをすべて教えてくれます。
さて、今朝の聖書箇所に聞いてゆく前に皆さんに是非見て知っていただきたい事実があります。前のスクリーンに写真を用意しましたのでご覧ください。最初の写真は約700年前にオランダに建てられた大聖堂です。この大聖堂は礼拝場所として1794年まで使われましたが、その次の3枚の写真ですが、現在は本屋とカフェになっています。次の2枚の写真はアメリカ・シカゴにあった大聖堂がスポーツ用品メーカーのナイキに買われ、ハイテクなスポーツジムに様変わりした写真です。次の写真はアメリカのどこか分かりませんが、スケードボードを楽しむ施設になってしまった教会施設です。男の子がスケートボードをしています。
次の3枚の写真は日本の神戸・三ノ宮にあった教会、こんなに大きな礼拝堂で、立派なパイプオルガンもある教会が企業に買収され、今は人気レストランとなっているという写真です。今、ヨーロッパ諸国のキリスト教会を始め、世界中の教会の信徒の高齢化と若者たちの教会離れのスピードが加速し、立派な会堂が博物館、レストラン、カフェや書店になっています。
皆さんはこの写真を見て、どのようにお感じになるでしょうか。大久保教会の創立記念日を覚える中で、自分の教会は大丈夫だろうかと思わないでしょうか。10年先、20年先の教会の姿を想像できるでしょうか。その頃には自分はもういないだろうと他人事のように片付けてしまうでしょうか。先週の神学校週間のアピールでも日本の教会と神学校が結構厳しい状況に置かれていることが分かち合われましたが、地球温暖化問題と同じレベルのわたしたちがこれから直面する「不都合な真実」です。近い将来わたしたちが直面する大きな問題です。
先週、わたしたちは第二テモテの3章から、「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい」という神様の言葉を聞きましたが、もう実際には終わりの時、困難な時期はすでに来ているということを同時に聞きました。そのような終わりの時代に多くの人々はどのような有様であり、どのような振る舞いをするのかということを2節から5節に聞きました。
使徒パウロはこの地上での自分の命と働きの終わりが近いことを感じ取っていたことが4章6節と7節から分かりますが、そのパウロが最後の力を振り絞って、愛する弟子テモテを励まし、そして牧師として主に仕えるテモテに重要なことを命じます。それは、今の困難な時代に生かされているわたしたち、大久保教会、そして全日本、全世界のキリスト教会が真剣に耳を傾けて聞かなければならないことです。これを聞き逃したら、先ほどの写真のように、教会は消滅し、その施設はまったく違ったものに様変わりしてしまうでしょう。
ある人は、「それぞれの教会にもその役割が終わる時がある」と言います。確かに教会の「建物」に寿命はあっても、教会の使命と役割と責任は主イエス様が再びこの地上に来られるまで終わることはないはずです。教会の役目、わたしたちの責任は、イエス様が再び来られる時まで、主イエス様の十字架の死と復活を告白し続けること、全世界へ出て行ってイエス様が救い主であることを宣言し続けるということです。「教会の役割は終わった」というのは、教会の使命をこれまで誠実に果たしてこなかったことへの責任逃れの言葉にも聞こえるわけです。しかし、その落とし穴に陥る危険性がこの大久保教会にもあるわけで、重要なのは将来的にそのような穴に落ちないために、今どうすれば良いのかということを知ることです。
テモテの第二の手紙4章1節から5節をテキストに、神様の御心を探り、御心に聞いてゆきたいと思います。パウロは1節でテモテにこのように言います。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国と思いつつ、厳かに命じます」と。「神様とイエス様の御前で厳かに命じます」という言葉から、とても重要なことが命じられるという緊張感が伝わってきます。この緊張感を持つことがわたしたちにも大切なのです。神様の存在を忘れてしまう時、主イエス様が共におられることを忘れる時、わたしたちは自己中心的で怠惰な生活を送ってしまうからです。
パウロは2節で5つのことをわたしたちに命じます。まず、1)「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」というのが最初の指示です。今、コロナパンデミックの最中で大変な時期あるから、みんな疲れてイライラしているから、個々のプライバシーが尊重される時代だから、人々は宗教全般に対して無関心であるから、様々な事件や出来事を通して宗教に対して不信感を持っているからと尻込みしてしまう理由をわたしたちは見つけようとします。しかし、そのようなことをする時間と力があるならば、御言葉を分かち合う、イエス様を伝えることに用いることが神様の御心ではないでしょうか。
テモテが牧会していた教会は間違った教えが入り込み、また不道徳な生活をする人々もいましたので、パウロはテモテに対して、そのような人々に対して2)咎め、3)戒め、4)励ましなさい。5)忍耐強く、十分に教えるのです」と指示します。イエス・キリストという真理に従わないで生きようとする兄弟姉妹たちをそれでも愛し続け、忍耐強く受け入れ続け、彼らの間違いを指摘し、咎め、戒め、励まして行かないと、その人たちはイエス様から離れてしまい、パウロの言葉ですが、「信仰の失格者」となってしまうのです。そうならないために、いつも顔を合わせ、共に礼拝と賛美をささげ、共に交わり、祈り合い、仕え合う必要があるのです。
3節と4節では、なぜパウロがこのことをテモテに命じるのか、その理由が記されています。「だれも健全な教えを聞こうとしない時がきます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります」とあります。健全な教えを聞こうとしない時代はすでに来ています。今はインターネット上(ユーチューブなど)で自分の知りたい情報をすぐに得たり、全世界の教会の礼拝にアクセスすることができ、自分好みの説教者の説教を聞くことができるようになり、言葉は悪いですが、複数の牧師の説教を聴き比べることができる時代になりました。しかし、ただ聞くだけで、その教会の働きに対して感謝を表さないのは残念な事です。インターネット上では真実だけでなく、作り話、フィクションのドラマや映画や情報があふれています。誰も「健全な教え、真理」、つまり主イエス様の言葉を聞かなくなってしまっています。
しかし、そのような人々の心の奥底には不安や恐れ、満たされない何かがあるのではないでしょうか。そのような人々に真理であるイエス・キリスト、神様の愛が必要なのではないでしょうか。そのような人々に出会ってイエス様を紹介するのがわたしたちの役目、教会の使命です。今は真理から耳を背け、自由気ままに、自分の生きたいように生きる時代です。しかし神様はパウロを通してわたしたちにこう命じるのです。5節。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」と。神様とイエス様の御前に信仰の姿勢を整え、今の逆境にも耐え忍び、イエス様の福音を、神様の愛を分かち合う者として、教会としてその働きに励み、その務めを果たしなさい。主イエス様が再び来られる時まで福音宣教に励みなさいと厳かに命じられています。この言葉を重く受け止め、聞き従う教会は祝福され、多くの実を結ぶ教会とされるはずです。
時が良くても悪くても、時代がどのような中にあっても、キリストの福音を宣べ伝えてまいりましょう。すべては神様の時の中に存在します。神様の愛と赦しを、イエス様の十字架による贖いの死と永遠の命に至る道が開かれた復活の真実を一人でも多くの人たちと分かち合い、共に主の恵みに預かってまいりましょう。