「私たちの心から始まる平和」 八月第二主日礼拝 宣教要旨 2014年8月10日
ヨハネによる福音書6章16〜21節 牧師 河野信一郎
「さて、夕方になった時、(イエスの)弟子たちは海辺に下り、舟にのって海(ガリラヤ湖)を渡り、向こう岸のカペナウムに生きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らの所にお出でにならなかった」と16節にあります。「暗い中で舟にゆられ、主イエスが共におられなかった」とは、弟子達の不安を表す言葉です。「その上に、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した」と18節にあります。更に状況は悪化するばかりと恐れを感じたことでしょう。
現代において、海はこの世界全体で、小さな舟は日本で、暗闇と荒れ狂う海の状況は世界情勢、日本の社会情勢を表しているかもしれません。日本と近隣諸国との関係はさらにぎくしゃくし、社会においても人間関係がさらに希薄になっています。日本の状況・情勢がこれ以上悪化すると、日本は転覆し、荒れ狂う海へ放り出されて溺れて死んでしまうかもしれない。
あるいは、荒れ狂う海は日本で、小さな舟はわたしたちの教会で、暗闇と強風と高い波は、私たちの心の状態を表しているのかもしれません。このまま世界情勢が悪化し、戦争へと突入するならば、わたしたちは一体どうなってしまうのか。わたしたちには、数えきれないほどの深刻な課題や切実で重大な問題が目の前にあります。自分のことしか考えない人が増え、毎日イライラしながら、ストレスを感じながら生きています。将来に対して不安を抱き、大切なものを失う恐怖があります。かけがえのないものを手放さなければならない時が来るかもしれない。頑張って築いてきたものが全て壊れるかもしれない。心の中に大小様々な「戦い」がある。
私たちは、そのような心の状態で本当に世界の平和、日本の平和を祈れるのでしょうか? イエスの弟子たちは荒れ狂う海に浮かぶ舟の上でイスラエルのために祈ったでしょうか? 神に救いを求めて一心に祈った、わが命のため、自分のために心から祈ったのではないでしょうか?
ですから、私たちは第一に神との平和を求め、すべての不安と恐れから解放されなければなりません。心に神から与えられる平安、神の愛、キリストによって与えられる希望がないと、私たちは心から「平和」のために祈ることはできないと思います。神から平安が与えられないと、荒れ狂う海の上にうかぶ小さな舟の上で、不安定なままに祈るようなものです。舟はすでに5キロから6キロ進み、目的地まであと数キロの所にありましたが、暗闇でそれが見えません。そう云うもどかしさの中に、私たちも置かれ、不安や恐れに押しつぶされそうになります。
しかし、そのような苦境の中、イエス・キリストが海の上を歩いて弟子達に近づいて来られますが、歩み寄られる主イエスを見て、彼等は恐れたとあります。彼等はこの嵐から救われることを確かに祈っていたと思いますが、主イエスが海の上を歩いて近寄って来るとは思ってもいなかったでしょう。期待もしていなかったのではないかと思います。わたしたちも、自分の考えが及ぶ範囲の中に「救い」があると心のどこかで思っているのではないでしょうか。
しかし、そうではない。考えも及ばない方法で主はわたしたちを救われます。大きな恐れに心が支配されている弟子達に対して主イエスは「わたしだ」と宣言されます。この「わたしだ」とが「エゴーエイミー」というギリシャ語です。「わたしは『わたしは有る』の神であり、救い主だ。だから、あなたがたは信じて恐れるな」と弟子を励まし、新しい力を注がれます。「わたしだ」という主イエスを信じてゆく時、わたしたちは全ての恐れ・不安から解放され、主の平安が与えられ、たどり着いた目的地で主の福音・平和のために生き、平和のために祈り、仕えることができるのです。「わたしだ、恐れるな」という主イエスに聞き従いましょう。