私たちの心の目を開かれる復活の主

「私たちの心の目を開かれる復活の主」 四月第三主日礼拝 宣教 2020年4月19日

 ルカによる福音書24章36〜49節            牧師 河野信一郎

救い主イエス・キリストのご復活を喜び祝う復活祭から早くも1週間が経ちましたが、キリストのご復活を信じるわたしたちキリスト者にとって、教会にとって、毎週日曜日は復活祭、イースターであり、大変おめでたい日であります。そういう日の朝、この場におられる方々、そしてインターネットを通して参加されている皆さんとご一緒にイエス様のご復活をお喜びし、感謝の礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。このイエス・キリストの父なる神様が、「死」という永遠の苦しみの中からイエス様を甦らせ、この御子を通してわたしたちを救うという御業を完成され、わたしたちに永遠の命への扉を開いてくださいました。この神様の愛、憐れみによって、救い主イエス・キリストによって、わたしたちの罪は赦され、恵みのうちに今を生かされています。本当に感謝なことです。

しかし、恥を忍んで正直申しますと、教会の家族の一人一人が、子どもたちが、兄弟姉妹と呼べる方々が本当に恋しいです。一つ所に共に集い、心を一つにし、わたしたちの心を一緒に神様におささげできないこと、一緒に賛美できないことがこんなにも苦しいことなのかということを痛感しています。今まで当たり前にしていたこと、当たり前すぎて特別だと感じてこなかったことが実はいかに素晴らしいことなのか、何にも代えがたい大きな恵みであるのかということを、礼拝の準備をする度に、祈る度に、礼拝の度に、心が大きく揺さぶられるように強く感じます。教会の皆さんが、大好きな子どもたちが教会に帰って来たら、強く握手したい、ぎゅっとハグしたい、そういう思いを抱いています。教会の家族を愛おしく思える、恋しく思えることは何という恵みでしょうか。また一緒に礼拝をおささげできるその日を望み見て、神様のお守りの中、主の助けを受けて、この困難な時期を共に祈りつつ、過ごしてゆきたいと思います。

けれども、主なる神様には、わたし(たち)のそのような思い、感情を遥かに超えた思い、御心、ご計画があるのだとも同時に感じるのです。つまり、神の家族だけを愛おしく、大切に思うことだけがわたしたちの生かされている理由ではなく、「教会の外側に」というと言葉は語弊になりますが、教会の周辺、わたしたちが生かされている地域社会、コミュニティの中に生かされている人たち、子どもから高齢者まで、わたしたちが日々の生活の中で共に生きている人たち、出会っている人たちに目を止め、心を向けて共に生きてゆくこと、仕えてゆくことが、わたしたちの、この大久保教会の使命、存在理由であると思わされ、今朝、わたしたちに与えられている聖書の御言葉の後半も語っているのではないかと導かれます。

話が前後してしまい申し訳ないですが、先週のイースター礼拝では、ルカによる福音書24章1節から12節を通して、イースターが何故「おめでたい」のかという理由を共に聴きました。この24章には、主イエス様のご復活の出来事、つまりイエス様が神様によって甦らせられた早朝から、夕べに弟子たちに現れた時までの丸一日の出来事が大きく三つに分けて記されています。1節から12節では、空っぽになった墓を弟子たちに見せて、イエス様は復活されたという真実が告げられています。13節から35節では、イエス様が弟子たちに現れ、旧約聖書に記されている救い主の受難と死と復活に関するすべての預言がイエス様によって成就したということが伝えられています。今朝は、最後の36節から49節を通して、復活された主イエス様はわたしたちの心の目を開いてくださるお方であられるということ、そして主は何故弟子たちの心の目を開かれたのか、何故わたしたちの心の目を開かれるのかという理由と目的を共に聴いてゆきたいと願っています。

しかし、皆さんの中には、先週は1節から12節を宣教したのに、何故13節から35節をすっ飛ばして、今朝は36節から49節を宣教するのですかという疑問を抱かれる方もおられるかもしれませんが、その理由はいたって簡単でして、去年のイースター明けに、石垣副牧師がこの13節から35節をテキストに宣教をされたからです。理由はそれだけです。もし13節から35節の内容にご興味がありましたら、教会ホームページの「宣教要旨」の欄をご覧いただき、2019年4月28日の「復活の命に生かされて」という題の宣教をお読みいただければと思います。そうしますと、いま心の中にあるモヤモヤが解消されるのではないかと思います。

また、今日は4月の第三日曜日でありまして、通常は石垣副牧師が宣教をなさる主日なのですが、新型コロナウイルス感染のリスクを回避するため、今朝は私が宣教するようにいたしました。しかしながら、副牧師は、聖書の解き明かし、メッセージを語ることを楽しみにされ、いつも早め早めに宣教の準備をなさる誠実な先生でして、今朝の礼拝で語る宣教もだいぶ前に完成しておられました。しかし、今は緊急非常事態の最中です。今朝、教会で宣教することを諦めていただき、ご自宅に止まって礼拝をおささげいただきたいと先生にお願いすることに心が痛みましたが、先生の健康とお命には変えられません。ですので、ご準備くださった先生の宣教は教会ホームページに掲載させていただき、皆さんに読んでいただくことにいたしました。ですので、教会の皆さんには教会ホームページをご覧いただき、先生の心から語られるメッセージを神様から語られるメッセージとして聴いていただきたいと心からご案内いたします。ですので、今日はいつもの倍のダブルの祝福が神様から皆さんへ注がれるのではないかと思います。わたしも午後に読みたいと思っています。

さて、ルカ福音書24章36節から読んでまいりましょう。最初に「こういうことを話していると」とありますが、「こういうこと」というのは、11人の使徒と後に呼ばれる弟子たちとその仲間がみんなエルサレムのとある一軒家に集まって、主イエス様は復活され、シモンに現れたという情報を共有したり、二人の弟子がエマオという町に向かう道の途中で復活された主イエス様に出会ったこと、しかし目が遮られていてイエス様を認識できなかったけれども、主イエス様が食事の時にパンを裂かれた時にイエス様だと分かった次第などを話していたということで、主の復活の出来事は早朝からずっとつながって起こっているということです。

弟子たちの目は「遮られていた」ので、イエス様だとすぐに分からなかった、認識できなかったということが16節にあるのですが、なぜ弟子たちの目が遮られていたのか、またイエス様の墓で起こった出来事を女性の弟子たちが男性の弟子たちにつぶさに語っても、それを「たわ言」のように聞いた理由を先週も聴きましたが、イエス様を失ったという悲しみや不安や恐れだけでなく、「死んだら終わり」という思い込み、諦め感であったり、女性を平等に見ない傲慢さであったり、心の中心に自分を置いてしまっていることが理由だと聴きました。

しかし、復活された主イエス様は、そのような弟子たちがいる家の中に入って来て、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。「あなたがたに平和があるように。」 この主イエス様の慰めと祝福の言葉が、イエス様のご復活の理由、そして目的を的確に示すものであると考えられます。すなわち、真っ暗闇の罪の中に生き、罪の渦の中でもがき苦しんでいたわたしたちを救い出し、光のうちに生かすために、イエス様は十字架にかかり、罪の贖いの供え物・子羊として死んでくださり、わたしたちに平安と希望を与え、永遠の命に生かすために、神様はイエス様を死人の中から初穂として甦らせてくださった。主の復活によって救いの御業が完成したから、不安や恐れを抱く時代は終わった、あなたがたは安心して大丈夫、もう心配する必要はない、わたしを信じなさいという招きの言葉として聴くことができると思います。

復活されたイエス様のことは人伝てにずっと朝から聞いて来たし、みんなであーでもない、こーでもないと話して来たけれども、自分たちの目の前に立たれたイエス様を見て、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったと37節に記されています。聞いてはいたけれども、話し合ってはいたけれども、それだけでは信じることはできないと思っていたと思います。わたしたちも同じではないでしょうか。たとえ嬉しいニュースであっても人伝てに聞いただけでは信じられないことがあります。特に、自分たちの目の前で死んだ人が甦ったと聞いても、手放しで喜ぶよりも、困惑してうろたえてしまったり、疑ってしまう、そういう心理が働くことは誰にでもあるのではないかと思いますが、そういうわたしたちに対してイエス様は38節で、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と問われます。

なぜなのか、どうしてなのか。その理由は、明確に二つあることをわたしたちは聖書から聴いています。すなわち、恐れと不安と混乱の中で、主イエス様の言葉を完全に忘れてしまっているから。そして、恐れや不安だけでなく、悲しみや痛み、絶望が、イエス様とわたしたちの間を遮り、わたしたちの心の目を塞いでいるからです。そのような弟子たち、わたしたちに対して主イエス様は、39節40節で「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」とおっしゃり、「イエスは手と足をお見せに」なります。

41節の言葉は、とても興味深い言葉です。弟子たちが「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」とあります。愛してやまないイエス様と再会できた喜びと復活の主イエス様を信じることは必ずしも一致しないということ。つまり、心は大変喜んでも、信じられないで不思議に思ってしまう、そのような心しか持ち得ないのがわたしたちであるということかもしれません。そういう弟子たち、わたしたちに復活の主を信じさせ、心から喜びに満たすために、主イエス様は「わたしに触って見なさい」とおっしゃり、十字架で負った傷跡のある手足に見せて、その傷跡に触れて見なさいと招かれます。それだけでなく、「ここに何か食べ物があるか」と尋ねられ、焼いた魚を手に取って、弟子たちの前で食べられ、イエス様が肉体を持って甦られたという真実を見せ、励まし、復活の主を信じる信仰へと招かれます。

弟子たちにご自分の言葉を思い出させるため、イエス様は44節で「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」とリマインドされます。そして今朝の宣教の中心となることが45節にあります。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開」かれた。「聖書を悟らせるため」とは、神様の思い、御心を弟子たちやわたしたちに悟らせるためだということです。つまり、主イエス様が弟子たちとわたしたちの心の目を開かれる理由、目的は、わたしたちの心が開かれないとわたしたちは聖書を通して神様の御心を知ることができないから、心の目が閉ざされたままでは復活されたイエス様を見ることができず、またイエス様を救い主と信じることができないからです。

イエス様は、わたしたちの心の目を開かれます。その理由と目的が45節以下に記されています。それは1)聖書を通して神様の御心を悟らせるため、2)イエス様がわたしたちの身代わりとなって十字架に死なれ、わたしたちの罪を贖い、三日目に死者の中から復活された救い主であることを見させ、信じさせるため、3)聖書を通して語られる主イエスの言葉によってわたしたちが悔い改めへと導かれるため、つまり神様に背を向けて歩んで来た間違いに気付かされ、神様の許へ立ち返って生きるためということ、そして4)イエスの御名によって、主イエス様の十字架の死とご復活を、キリストの福音をあらゆる国々の人々のもとへ出て行って、宣べ伝え、神様とイエス様の愛に生かされている証人として生きてゆくためです。

わたしたちの心の目を開かれるイエス様は、わたしたちに何を見続けて欲しいのでしょうか。自分だけを見つめてナルシストになることではありません。イエス様を通して神様の愛とその御業を見続ける。いつも共にいて平安と希望を与えてくださるイエス様を見続ける。そして、神様の愛を必要としている人々にわたしたちの心を向け、その人たちを見続け、そこで人々のニーズを知り、仕えるためです。この働きをするため、キリストの証人となるために、神様から送られるご聖霊がわたしたちには必要なのです。このご聖霊によって、神様の望まれる霊の実を結ぶことができるようになります。そのことについては、来たる26日の宣教で分かち合わせていただきたいと思います。