聖霊が与える真の勇気

「聖霊が与える真の勇気」 ペンテコステ・5月第五主日礼拝   宣教 2020年5月31日

 ガヤテヤの信徒への手紙 2章11〜14節    牧師 河野信一郎

早いもので、5月の最終日となりました。明日から6月が始まります。今朝も、わたしたち一人一人が主の愛のうちに礼拝者としてここに招かれ、ご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。

さて、先週の宣教の中で、私は皆さんに2つのお祈りのお願いと1つのチャレンジをさせていただきました。お祈りをありがとうございました。二日間のオンライン地区宣教主事会議と昨日のオンライン執事会はすべて無事に終了し、話し合うべき事柄はすべて協議することができ、執事会においてはある程度の方向性が示されました。連盟関係の案件は、まだまだ険しい道が続くと思います。わたしたち大久保教会も来週7日から礼拝堂での礼拝を再開いたします。しかしながら、先ほどもお願いしましたが、出席される方々にはいくつかの重要なお願いに誠実に向き合っていただくことになりました。まず出かける前に必ず検温し、体調を良くみて、絶対に無理をせず、そしてお祈りのうちにお越しいただきたいと思います。

コロナウイルス感染の不安の中、神様の不思議なお導きと励ましの中で、わたしたち大久保教会は3月末から礼拝のライブ配信を始めました。しかし、先週の24日の主日になって、朝と夕方ともにフェイスブックでの配信ができませんでした。どうやら誰かしらの「いたずら」が入ったようです。残念ながら今もその不具合は解決ができていませんが、そういう苦痛の中でも、神様の愛と恵みと幸いを見つけることができ、神様に心から感謝しました。

その感謝なことというのは、礼拝が11時にオンタイムで始まらなかったことで、すぐに心配のメールやLINEがたくさんあったことです。いたずらする人もこの世の中にいれば、大久保教会の礼拝ライブ配信を楽しみに待っていてくださる教会員の皆さん、アメリカの皆さん、またそれ以外の教会のサポーターの皆さん、礼拝をささげることをこの上なく喜ばれる方々がインターネットの向こう側に確かにおられるということを心強く感じ、その晩の一日の振り返りの中で、感謝な気持ちで心が満たされました。本当にたくさんの方々に大久保教会は愛されて、祈られていることを再確認することができました。

最悪な場合、現在使用している教会のフェイスブックアカウントを停止し、新しいアカウントを作り直さなければならないと思いますが、そうなった場合は最初にしっかりとした対策を講じた上で、新しいスタートをすれば良いだけのことです。問題解決が与えられるか、再スタートか、どちらに転んだとしても、主が共にいてくださいますから大丈夫です。皆さんには、神様のお導きがあるように今後ともお祈りいただければ幸いに思います。今回のことは、私にとって色々な意味で良い勉強になっています。まず謙遜になることを教えられました。皆さんの愛とご支援とお祈りを本当にありがとうございます。今朝のように、大久保教会の礼拝はユーチューブチャンネルから参加できますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

あともう一つ、先週24日の朝のユーチューブ礼拝配信のビデオに関して、私から個人的なお願いがあります。先ほど申しましたトラブルにより、ライブ配信の最初の15分は、本当にお恥ずかしいゴタゴタが収録されています。つまり、私と奉仕者たち、私の子どもたちとの会話などが収録され、特にわたしの素の部分と申しましょうか、二面性を皆さんがつぶさに垣間見えることができる状態になっております。お恥ずかしい部分をどのように編集して良いかも分かりませんから、穴があったら入りたい気分です。ですので、もし先週の朝の礼拝のビデオをご覧になられる方は、最初の15分はもうさっとすっ飛ばしていただき、15分10秒ぐらいからご覧いただければ、本当に嬉しいです。しかし、そう言われると、是非とも最初の15分だけを観てみたい、あとの部分はどうでも良いと考えるのが人間の心理であると思います。けれども、好奇心から視てみたいと思われる方は、ぜひ礼拝の最後まで観ていただければ幸いです。その理由は、宣教の最後の部分でもう一つの大切なお願い、チャレンジをさせていただいているからであります。またあと一つ。もし政府から支給されたこの有名なマスク、まだ届いてないという方もおられるかもしれませんが、もし使用されない方は大久保教会へ送っていただきたいと思います。私のお友だちのお友だちが、劣悪な環境の中に置かれているフィリピンの子どもたちの健康と命を守るために、このマスクをフィリピンに送る活動をされています。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、今日の礼拝は、主イエス様を通して弟子たちに約束され、祝福をもって神様から送られたご聖霊が降臨した日を覚え、クリスチャンたちに与えられてキリスト教会が誕生したことを喜び祝うペンテコステの礼拝としてささげています。今朝の招きの言葉は、ご聖霊が与えられると主イエス様が弟子たちに約束された箇所が読まれました。このご聖霊がどのようにクリスチャンたちに降り、初代キリスト教会が誕生したのかという記述が使徒言行録2章の1節から13節に記されていますが、続く14節からは聖霊に満たされた主イエス様の愛弟子であるペトロが「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方、救い主、メシアである」と群衆に対して力強く説教したことが記されていて、その日、このペトロの説教を通して主イエス様の言葉を信じてバプテスマを受けた数は三千人ほどであったと使徒言行録2章41節に記されています。ペトロは使徒として、またエルサレム教会の重要な柱としてヤコブやヨハネと一緒に後々用いられてゆくわけです。力強いリーダーシップを発揮し、福音を伝える者として豊かに用いされました。けれども、使徒ペトロたちは福音を伝える対象をユダヤ人のみにしました。ある意味、そこにはユダヤ人とそれ以外の民族を分け隔てることが、大きな気づきとして与えられることなく、自然の中で行われていたわけです。しかし、復活した主イエス様に出会わされ、クリスチャンとなったパウロは、彼自身はユダヤ人で、熱心なユダヤ教徒で、最初はキリスト教を憎み、クリスチャンたちを迫害する者でしたが、主の御心に従う中で、異邦人たちにキリストの福音を伝えてゆく働きが主イエス様から与えられ、パウロ先生たちの福音宣教の対象は異邦人たちとなりました。

先週の宣教では、アンティオケ教会を拠点に異邦人伝道が進んでいった中で、エルサレム教会の流れをくむユダヤ主義的クリスチャンが、ユダヤの割礼と律法を守ることを異邦人クリスチャンたちに強制する事件が起こり、エルサレム教会を中心としたユダヤ人クリスチャンとアンティオケ教会を拠点とした異邦人クリスチャンたちの間に、摩擦や対立の問題が浮かび始めました。これは2000年前の「人種問題・差別問題」であることは明らかです。

今ミネソタ州で起こった本当に痛ましい事件が発端となり、最初は人種問題・差別問題に対する抗議であったものが徐々にエスカレートしてゆき、手のつけられない暴動に変わってしまい、それがアメリカ各地に飛び火してしまい、本当に悲しいことが行われています。コロナの問題解決がまだなされていない状況下で、あってはならないことが繰り返されています。これらの事件は、福音宣教の前進、神様の御心を阻むことであります。まずプラカードや武器、怒りや不満をすべて足下に置き、深呼吸して心を落ち着かせ、白人とそれ以外の有色人種が、コミュニティとコミュニティが向き合って対話してゆくことが大切です。その間に、救い主・贖い主イエス様を迎えることが大切です。イエス様が真の忍耐と愛と勇気を、交わすべき言葉を与えてくださるからです。

去る日曜日は、ユダヤ人教会と異邦人教会との間に生じていた問題を解決するために「使徒会議」なるものがエルサレムで行われ、そこで重要な三つの合意がなされたということを一緒に聴きました。簡単にお話ししますと、まずエルサレム教会とアンティオケ教会のそれぞれの働きを尊重することが合意されましたということが7節に記されています。つまり、真のクリスチャンとされるために、異邦人はユダヤ人になる必要はなく、異邦人のままで生きることが神様の御心であると認められたということでした。次の合意ですが、ユダヤ人への福音宣教の任務をペトロに与えた神様と異邦人への福音宣教の任務をパウロに与えた神様は、決して人を分け隔てしない神様、同じ神様であるということが確認され、信仰の一致が得られたということが8節に記されています。三つめの合意ですが、エルサレムとアンティオケ教会の相互の連帯を確認し、今後はもっと親しい交わりと協力をするという約束が交わされたことが9節に記されていました。地の果てまで出て行ってキリストの福音、イエス様の十字架と復活を宣べ伝えなさいという主イエス様のご命令を誠実に守って生きてゆく、お互いのために祈り、今後も協力をしてゆくという大きな一致と喜び、「聖霊の実」がこの信徒会議で結ばれたわけです。

これは人々が結んだ実ではなく、ご聖霊である神様が結ばせた祝福に満ちた美しい「実」であります。わたしたちの力だけでは全然ダメなのです。わたしたちにはイエス様が必要なのです。わたしたち一人一人がこの救い主にしっかりとつながっていなければ、聖霊の励ましはありません。愛のエンジンはかかりません。つまり、本当の一致、平和、一つの神の家族は決して生まれないのです。イエス様を救い主と信じ、イエス様につなげられているので、わたしたちはどのような嵐の中も前進することができるのです。わたしたちには、主イエス・キリストの励ましの言葉、神様の愛がいつも絶えず必要なのです。

わたしたちは不完全な人間、弱さをたくさん持つ小さな者です。しかし、そのようなわたしたちを神様は、主イエス様は愛してくださり、その御手を差しのべ続けてくださり、「わたしの手をしっかり握りなさい。わたしもあなたの手を握って、決して離さない」と言ってくださいます。

今朝の聖書箇所には、使徒ペトロの弱さが記され、その弱さから生じてくる間違い、一貫性のなさをパウロ先生が痛烈に非難することが記されています。どんなに立派な説教ができても、どんなに人から尊敬されるような働きを行なってきたとしても、イエス様から目をそらし、目の前の人だけを見てしまいますと、ペトロであっても、誰であったとしても、いとも簡単に間違いを犯してしまうのです。誰一人例外はありません。すべての人です。わたしも、そしてあなたもです。使徒ペトロはどのような間違いを犯してしまったのでしょうか。11節から13節に記されているパウロ先生の言葉をもう一度読んで見ましょう。

「さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」とあります。

これは、パウロ先生にとってとっても悲しいことであったと想像されます。つい先日というか、数週間前に合意した約束、キリストにある愛と祈りを持って築いたペトロ、そしてエルサレム教会との信頼関係がガラガラと音を立てて崩れ落ちるような出来事であったはずです。ましてやアンティオケ教会の指導者であり同労者であるバルナバまでもが異邦人たちとその教会を裏切るような行為へとひきづり込まれてしまったのです。もう悲しいというか、悔しくて仕方がなかったと思います。みんな「しっかりしている」ようで、実はみんな「もろかった」のです。一貫性がなかったと申しましたが、思いや行いに一貫性がなかったのではなく、イエス様への信頼に一貫性がなかったのです。イエス様にではなく、人々に心と目が行ってしまい、人々の関心を求め、人々に気に入られようと心が右往左往し、つまり心が混乱している状態にあったからです。

わたしたちのもう一つの弱さは、自分が悪者になりたくないという心理が働き、事なかれ主義と言いましょうか、人の間違いは見て見ぬ振りをし、自分の弱さや間違いはひた隠しする。そういう弱さがあり、それがわたしたちの心の中でストレスとなって、それが解消できないので日々悶々とした時間を送ることになります。間違いに気づくことは絶えずあっても、それを口にしないで、バイスタンダーになる。そういう弱さがわたしたちにはあり、つまり真の勇気がないからです。

しかし、パウロ先生は違っていました。14節をご覧ください。「しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか』」とペトロに言っています。

耳の痛い厳しい言葉ですが、これはわたしたちに今朝語られている言葉であり、キリストにある愛と一貫性を持って生きなさいと云う励ましの言葉です。わたしたちはふとした瞬間、「心にもないこと」を行う、すぐに人になびいてしまうこと、弱さがあります。そういう自分が大っ嫌いという方もおられるかもしれません。わたしも時折そのような嫌悪感を抱いてしまうことがあります。しかし、そのようなわたしたちを、それでも愛してくださる主がいつも近くにいてくださることを信じさせていただきましょう。そしてその救い主を見上げ、この方の声に耳をすませ、助けを祈り求め、委ねてゆきましょう。その歩みの中で、復活の主が約束し、神様が与えてくださるご聖霊がわたしたちに真の勇気を与えてくださり、わたしたちの信仰を育み、一つの教会、神の家族にしてくださいます。主を信じて、ご聖霊の豊かなる導きの中で、主のみ足の跡をたどりながら一緒に歩みましょう。