聖霊という神からのプレゼント

「聖霊という神からのプレゼント」 ペンテコステ礼拝 宣教 2025年6月8日

 使徒言行録 2章1〜12節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今年の聖霊降臨日、ペンテコステを皆さんとご一緒にお祝いすることができて感謝です。さて、皆さんの中には、「ペンテコステ」の意味がよく分からないという方もおられると思いますので、最初に説明をさせていただきたいと思います。

 

キリスト教には、キリストの誕生を祝うクリスマス、キリストの復活を祝うイースター、そして天に上げられたキリストの代わりに聖霊が降臨したことを祝うペンテコステという三つのお祭りがありますが、ユダヤ教には過越祭、七週祭、仮庵祭という三大祭りがあります。

 

過越祭というのは、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を神様が救い出される際に、神様に命じられたとおりに家の門に羊の血で目印をつけたユダヤの人々の家を神が過ぎ越し、エジプトの民の家にのみ災いを与え、ユダヤ人を救われたという神の御業を憶えて祝う祭りです。ちなみに仮庵祭というのは、そのエジプトから脱出した後に民が荒野で40年間テント暮らしをした事を記念し、そのことを子孫に語り継ぐための祭りです。

 

その過越祭の翌日から数えて50日目に祝うのが「五旬祭」、「七週祭」と呼ばれる祭りで、別名「刈り入れの祭り」です。小麦の収穫の初穂を神様にささげる初夏の収穫感謝祭です。そのようなビッグイベントがエルサレムでも繰り広げられていましたが、キリスト教会にもこのペンテコステと呼ばれる祭りには大きな意味があります。イエス様が十字架の贖いの死から三日目に復活されてから40日間を弟子たちと過ごし、その後に天に上げられたのですが、その際にご自分の代わりに聖霊が与えられると約束されました。イエス様のご復活から50日目に、約束の聖霊が弟子たちに降り、原始教会が誕生することでイエス様の約束は成就しました。ですので、ペンテコステはキリスト教会の創設と宣教の開始を喜び祝う日なのです。

 

日本では、クリスマスはイエス・キリストの誕生日であることをほとんどの人は知っていますが、聖霊降臨日・ペンテコステが何の日であるかをほとんどは知りません。ですから、この日をお祝いすることはありません。キリストの福音が日本中にまだ充分に伝えきれていないことと、多くの人々はキリスト教を文化の一部としてしか捉えていないので、イエス様を信じることも、聖霊を受け取ることもできないでいます。イエス様を神様から与えられた救い主であると信じない限り、イエス様の代わりに神様からプレゼントされた助け主・聖霊を信じて受け取ることは出来ません。聖霊は、イエス様を救い主と信じる人、救いを求めておられる人でなければ受け取ることが出来ない神様からの祝福のプレゼントなのです。

 

今朝の聖書箇所である使徒言行録2章には、イエス様の弟子たちに聖霊が臨み、その一人ひとりが聖霊で満たされて新しく変えられたことがはっきりと記されています。まず1節と2節に、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。「一同」とは、イエス様の弟子たちです。男女問わず、年齢問わず、復活されたイエス様を救い主と信じて、イエス様の約束の言葉を信じて、祈りつつ、期待しつつ、聖霊が与えられるのは今か今かと待っていた人たちです。

 

この人たちが心一つにイエス様の約束の成就を待っていると、「突然」、聖霊が降るのです。皆さんの中には、「心臓に悪いから突然はやめて!もっと余裕を持って事前に知らせて!」と思われるかも知れませんが、それはわたしたちの都合です。この「突然」という言葉は、「神の時が満ちて」と訳すことができる言葉です。わたしたちに必要なのは、神様の都合に合わせるということです。わたしたちの都合に神様を合わさせるということではありません。神様の時が満ちる際に、すぐに行動に移せる備えを常にするのです。

 

3節に「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。神様から送られた「炎のような舌」がクリスチャン一人一人の上にとどまったとあります。2節の「激しい風」や「炎」は、神様の臨在と力を表すものです。オカルト的で怖いと感じるかもしれませんが、これは明らかに神様の御業、神の力が現れたということです。

 

ここで重要なのは2点です。まず聖霊は、イエス様を信じる「一人ひとりの上にとどまった」ということです。つまり、神様の霊が一人ひとりに平等に注がれ、それぞれが聖霊で満たされるのです。祝福されているのです。ですから、あの人は立派だけれど、わたしは劣っているなどと思う必要もない、誰かと比べる必要はないのです。それはまったく意味のないことです。それはむしろ、神様の愛から引き離そうとする悪霊の働きです。ここでわたしたちに重要なことのもう一つは、「何のために聖霊がイエス様を救い主と信じる者たち、わたしたちに与えられ、臨んでいるのか」という神様の御心をしっかり知ることです。

 

様々はことが色々な角度から言えますが、第一にイエス様を信じる者たちと神が常に共におられるという確信を与えるために聖霊を派遣してくださってと言えます。信じる者たちをイエス様につなげ続け、その中で神様の愛を与え続けるために聖霊が与えられています。

 

主イエス様につなげられていないと、わたしたちはまた神様から離れ、闇に逆戻りし、その中を苦しみ悶え、彷徨うことになります。イエス様につなげられていないと自分の知恵や努力や信念だけで生きようとしてしまうからです。主イエス様につなげられていないと、わたしたちは生きる意味、目的を知ることが出来ないのです。そうなると、生きる力、喜びと平安と希望が与えられません。イエス様を信じる者たちに聖霊が与えられたのは、この聖霊によって神様の愛をいつも感じ、喜びと感謝をもって御心に生きるためなのです。

 

4節に、弟子たちは「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と記されていますが、「聖霊が語らせるままに」とは神様の励ましと導きの中で、神様が主導権をもって語られたということです。弟子たちは自分の考えや知識、経験に基づいて語ったのではありません。神様ご自身が語られたのです。弟子たちは、スピーカーの役目を負っただけです。ですから、神様の愛の中に生かされているわたしたちに必要なのは、自分の力で生きることではなく、神様にすべてをお委ねしながら生きるということです。祝福は神様のもとにあります。わたしたちにはありません。祝福された人生を送りたいと願うならば、わたしたちは祝福の源である神様にすべてをお委ねし、神様の愛のままに生きる必要があるのです。

 

それでは、イエス様を救い主と信じる弟子たち、わたしたちへの神様の御心、願いとは何でしょうか。それは、神様の励ましの中で、臆することなく、大胆に神様の愛とその御業を語ることです。福音の前進、広がりを願うのであれば、わたしたちは外に出かけて行って神様の愛を大胆に語り、分かち合わなければ教会の成長はありません。日本のキリスト教会が先細りになっているのは、こちらから出て行って、神様の愛を必要としている人々に出会っていないからです。自分がクリスチャンであることを公にしないで隠しているからです。

 

聖霊に満たされた弟子たちは、聖霊が語らせるままに神様の御業、イエス・キリストの十字架の死と死に勝利して甦られたイエス様を分かち合います。彼らはガリラヤ出身のユダヤ人たちでしたが、他の国々の言葉でイエス様のことを語るのです。いえ、神様が語るのです。この一連の出来事を見聞きした人々はあっけに取られてします。7節と8節を読みますと、「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」とあります。

 

ヘブル語、アラム語だけでなくイスラエルの東方に位置するパルティア、メディア、エラム、メソポタミアの言葉、北西に位置するカパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアの言葉、南西に位置するエジプトやリビア地方の言葉で、すべての人が分かる言葉で神が弟子たちを通して語ったのです。「ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいた」とあります。神様に出来ないことは何一つありません。この神に信頼する時、わたしたちの内に神が働かれるのです。

 

弟子たちは聖霊に満たされてイエス・キリストの福音を語ります。イエス様がわたしたちを罪と死という闇から救い出し、光の中に生かすために十字架で命を捨てられ、罪の代価をすべて支払ってくださったと、わたしたちを永遠の命に生かすために神様がイエス様を甦らえさせ、永遠の命へ招いてくださると大胆に語ったのです。神様の力による御業でなくて何でありましょうか。この愛と救いをすべての人と分かち合うために、聖霊がわたしたちに今も注がれているのです。わたしたちに必要なのは、自分の弱さを神様にお委ねし、神様の御心のままに、イエス様の言葉のままに、聖霊の導きのままに生きたいと祈り求めることです。