ルカ(60) 聖霊によって悪霊を追い出すイエス

ルカによる福音書11章14〜23節

今回のルカによる福音書の学びは、11章14節から23節ですが、その前の箇所からつながりがありますので、その部分を最初にお話ししたいと思います。

 

11章1節から13節で、イエス様は弟子たちに「神に祈り求める」ことの重要性を教えます。9節と10節に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とあり、諦めずに神に祈り求めよと励まします。

 

わたしたちには祈ることが多数あり、それらに優先順位を付けるのは難しいのですが、その中で最優先して求めていかなければならないものがあるとイエス様は教えられます。それが13節の「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」という言葉です。すなわち、神の霊である「聖霊」を与えてくださいと祈り求めなさいと励まします。

 

何故でしょうか。それは、信仰は神から与えられ、心に喜びや感謝の気持ち、平安や希望があっても、それらをわたしたちから奪い去ろうとする力、悪い霊が絶えず忍び寄り、目の前に魅力的なものをチラつかせて誘惑してきたり、大きな災いに直面させて喜びや感動を奪い去ろうとするからです。今後の悪霊との対峙、霊的戦いに聖霊が必要不可欠であるから、聖霊を祈り求め、万全の備えをしなさい、そうでないと悪霊との戦いに負け、信仰が奪い去られるとイエス様は警告されるのです。どんなに意志が強くても、自分は大丈夫と自信があっても、神様の助けなくして、わたしたちの力では悪霊には勝てないのです。

 

それでは11章14節から読み進めてまいりましょう。14節に「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」とあります。イエス様は、一人の人から「自由に話すことを許さない悪霊」を追い出します。悪霊の支配から解放された人は大いに喜んだと思います。この出来事を間近で見ていた群衆は、「驚嘆した」とあります。ほとんどの人たちは驚いて、感心したのです。

 

しかし、イエス様の業に否定的な二つのリアクションをとった人たちが群衆の中に複数いました。15節の「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、16節の「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」とあります。

 

一人の人が悪霊から解放され、救われたのに、その人と共に喜ばないで、イエス様を否定するのです。神の救いの業を素直に喜べない、感謝できない、否定的に捉える理由、それはその人たちの心が悪霊に支配され、荒んでいるからではないでしょうか。さて、二つ目の「天からのしるしを求める」ことに関しては、もう少し先の学びの時にお話しします。

 

さて、そのような否定的な人たちの心のうちを見抜かれているイエス様は、17節から19節で「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」と言います。ここでイエス様は二つのことを言っておられます。

 

一つは、内輪もめする国は必ず滅びるから、悪霊の頭が手下を追い出すような内輪もめをするはずはないと言います。家族という単位であっても、教会という単位であっても、内輪もめは信頼関係を壊し、その単位として立ち行かなくします。サタン・悪霊はそういう手口を使って、喜びを人間から取り去り、関係性を修復できないほど悪化させようとしますが、サタンたちの間ではそういうことは決してない。だから、わたしが悪霊の頭ベルゼブルであるはずがないとイエス様はおっしゃいます。

 

もう一つは、当時のユダヤ社会の中にも悪霊を追い出す者たちが存在していたのですが、イエス様に対するような「悪霊を追い出す者は悪霊の仲間」と主張するのであれば、「あなたたちの仲間」をも悪霊の手下・仲間と見なすことになるから、あなたがたは仲間から批判を受けることになるだろうとイエス様はおっしゃいます。人を批判すると、その後、ブーメランのように、その批判は自分に戻ってくるのです。人を簡単に、無責任に裁く人は、人から同じように裁かれるようになるのです。ですから、そういうことを踏まえ、よく考え、自分の言動を慎む必要があると教えるのです。

 

さて、今回の学びの中で中心となる箇所が20節です。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とあります。「しかし」とは、「群衆の中の否定的な考えを持つ人々とは違って」という意味になります。イエス様がなされていること、口の利けない人から悪霊を追い出す業は、「神の国があなたがたのところに来ている証拠である」とイエス様は言われます。

 

イエス様が公に宣教活動を始められた際、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われましたが、このルカ11章では「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われます。すでに来ているこの「神の国」とは、一言で言うならば、「神の愛による支配」が来ている、あるいは「神の救いの業」が来ているということです。

 

悪の支配の中で苦しみ悶えながら生きるのではなく、そこからイエス様によって解放されて、神のご支配の中で、神の愛の中でずっと生かされるということです。そのことをわたしたちに伝え、救いを与え、神の国へと招くためにイエス様はこの地上に来られ、福音宣教、癒しの業を成し、最後は十字架上で贖いの業を成し遂げてくださいました。

 

さて、この20節の中で非常に興味深いのは、「わたしが神の指で悪霊を追い出している」というイエス様の「神の指」という言葉です。新約聖書ではここにしか出てこない非常に珍しい言葉です。しかし、旧約聖書にはこの言葉が3回用いられていますので、その三つの箇所から大切なことを今回聴いてゆきたいと思っています。

 

この「神の指」という言葉が最初に出てくるのは出エジプト記8章15節(p105)です。ヘブライ人(ユダヤ人)を奴隷から解放しない心頑ななエジプトの王ファラオに対して主なる神は10の災いを与え、神がすべてを支配される真の神であることを示すのですが、三つ目の災いの中でエジプトの魔術師たちがファラオに言った言葉です。12節から読みます。

 

「主はモーセに言われた。『アロンに言いなさい。「杖を差し伸べて土の塵を打ち、ぶよにさせてエジプト全土に及ばせ」と。』彼らは言われたとおりにし、アロンが杖を持った手を差し伸べ土の塵を撃つと、土の塵はすべてぶよとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲った。魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった。ぶよが人と家畜を襲ったので、魔術師はファラオに、『これは神の指の働きでございます』と言ったが、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった」とあります。

 

この後の出エジプト13章3節でモーセは、「主が力強い御手をもって、あなたたちをエジプトから導き出された」と言っていますが、「神の指」と「神の御手」は同じ意味合いで、これはユダヤ人を「解放する神の救いの業」を意味しています。すなわち、新約の時代、イエスはわたしたちを悪と罪の支配から解放するために神の指で救いの業を成してくださいました。その最たる例が悪霊を追い出すこと、御手で触れて病気を癒すことにあるのです。

 

二つ目の事例は、詩編8編4節(p840)です。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」とあります。ここでの「神の指」は神様の創造の業を指しています。つまり、すべては神様の愛の業で造られ、愛の中でバランス良く保たれている。新しく創造される神は、再生することもできる神です。

 

つまり、罪に染まった心であっても、間違いだらけの人生であっても、わたしたちの罪を清め、新しい人生を与えてくださることができるのは神だけであると言うことです。イエス・キリストが神の指で救いの業を成すということは、イエス様がわたしたちの罪を贖い、新しい心を与え、新しい人に造り直してくださることができる救い主であることをルカは言っているのだと信じます。

 

三つ目の事例は、また出エジプト記に戻りますが、31章18節(p146)です。「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」とあります。「石の板」は十の戒め・十戒です。それは民に対する神様のご意志です。つまり、民たちが日々どのように生きるべきかを示すものです。主なる神を第一として敬い、隣人を大切にせよという生活の指針を与えるものです。次回の学びにもつながってゆきますが、わたしたちの生き方の根本には神の言葉が必要であるということです。

 

新約の時代では、それはイエス・キリストという神の子・救い主の言葉です。イエス様の言葉を守って生きる中に救いがあり、命があり、イエス様の言葉にわたしたちが生きる力があります。「神の指」とは、イエス・キリストそのものです。このイエス・キリストによって、神の愛が注がれ、神の愛の支配、神の国が到来したのです。これを喜んで受ける・信じるのも、拒否するのも、わたしたちの意志に神様は任せておられます。神の愛を拒絶する人には神の伴いとお守りと祝福がありませんから、日々苦しみと悩みしかありません。しかし、神様に愛を受け入れる人には救いと喜び、平安と希望が与えられ、生きる目的と使命、そのために生きる力が豊かに与えられます。

 

21節から22節ですが、「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」とあります。どういうことでしょうか。

 

固定観念を捨てる必要がありますが、強い人とはサタンのことで、もっと強い者とはイエス様です。サタンがどんなに強くても、イエス様の方がもっと強くて、囚われている人々をサタンの支配から解放し、言葉は悪い印象を与えますが「分捕り品」を分け与える、つまり自由と信仰をイエス様は与えてくださるのです。これは、ルカ4章18節(p107)にあるイザヤ書の約束の言葉がイエスにおいて成就し、この後、ルカ13章16節(p135)の出来事や使徒言行録10章38節(p234)にあるペトロの宣教につながるのです。

 

さて、23節の言葉も注目に値する言葉です。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」とあります。イエス様を信じない人は、神様の愛の側にいないのです。神の側にいないということはサタンの側にいるということです。つまり、イエス様とサタンの戦いにおいて、わたしたちには「中立」はない、有り得ないということです。主イエスに従い、主と共に神の側に立つ時、この世のものでは得られない豊かな祝福が神から与えられるのです。サタン・悪霊は滅びしか与えないのです。