聖霊に助けられ、根気よく祈り続ける

「聖霊に助けられ、根気よく祈り続ける」 八月第五主日礼拝 宣教 2025年8月31日

 エフェソの信徒への手紙 6章10〜20節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。早いもので8月も最終日を迎えました。しかし、そのような日が主の日であり、その日の朝に皆さんとご一緒に賛美と礼拝を神様におささげすることができて本当に感謝です。7月と8月は、猛暑のために礼拝堂に集う方の人数が激減し、とても寂しく感じましたが、礼拝をライブ配信できる恵みが神様から与えられていること、また秋ごろには一緒に礼拝堂で礼拝がささげられるという希望が与えられていますので主に感謝です。

 

さて、今朝の礼拝には、昨年に続き、アメリカ・ワシントン州のTFB教会の宣教チームが出席くださり、特別賛美をささげてくださいましたことを感謝いたします。賛美してくださった「花も」という曲は日本で作られた賛美で、韓国でも親しまれて歌われている賛美です。大久保教会の夕礼拝でもよく賛美しています。日本滞在中は猛暑が続きますが、健康が守られ、宣教ミッションが祝されますようにお祈りいたします。

 

今朝のメッセージに入る前に短く三つ案内をいたします。明日から9月に入りますが、9月は「教会学校月間」です。礼拝前の短い時間ですが、一緒に聖書に聞く時間がありますので、この機会にご参加ください。9月はヨシュア記に聴きます。また、今週3日から水曜祈祷会が再開されますが、ヨハネによる福音書を1章から21章までを少しずつ読み進めてゆくシリーズが始まりますので、水曜日の10時半か19時の祈祷会にもご出席ください。

 

また、来主日の礼拝から新しいシリーズのメッセージが始まります。9月から11月までの3ヶ月間、旧約聖書のエレミヤ書から神様の語りかけを聴きます。神様に背いたイスラエルとユダを神はどのように扱い、救われるのか、この書は現代を生きるわたしたちにどのような真理を教えてくれているのかをご一緒に聴いてゆきます。神様に対して自分の罪・間違いを認め、悔い改めて神様に立ち返る時に、神様はイエス・キリストを通してどのような祝福を与えてくださるのかを聴いてゆきますので、対面かライブ配信でぜひご出席してください。

 

さて、8月は、「忍耐」という言葉をキーワードに御言葉に聴いてまいりました。この世の中を歩んでゆく中で、わたしたちは実に様々な試み、誘惑、戦い、チャレンジを受けます。この夏の猛暑や自然災害や水不足や物価高だけではありません。自分自身や家族の病気や怪我や体の衰えと向き合ったり、生活の困窮があったり、育児や介護でも悩むことがあります。仕事や勉強でも困難なことがあります。最も悩ましくて辛いのは人間関係のこじれや破綻です。自分の意思や力や努力だけでは、どうすることもできない戦いがあるわけです。その戦いとは、殺傷能力のある武器を手に持って戦うものではなく、悪霊との霊的な戦いです。

 

しかし、その中で最悪な戦いは、大きな壁にぶち当たって混乱し、痛み苦しんでいるのに、それを家族や友人や信頼のおける人など、誰にも相談せずに自分だけで悩んだり、涙を流すこと、孤独を味わうことです。罪に満ちた世の中に生きているのですから、人生に問題や課題が生じることはごく当たり前のことです。しかし、それを恥ずかしいことと捉えてしまい、自分だけの秘密にしてしまうのです。変なプライドがあるからです。そして自分の力だけで問題を解決しようとするわけですが、上手くいくはずがありません。プライドという罪、弱さをわたしたちは持っているからです。孤独な戦いは、わたしたちの心に何をもたらすでしょうか。それは絶望です。闇です。生きる意味や喜びや意欲を失いさせ、社会の中からフェイドアウトしてしまい、最終的には霊的な死、肉体の死、永遠の闇を味わうのです。

 

しかし、ここで一つの問いかけをわたしたちはしなければなりません。それは、そのような霊的な死、肉体の死を神様は望んでおられるのかということ。また、わたしたちがそのように霊的に死んだ状態で生き続けることが神様の御心であるのかということです。聖書に記されている神様の答えは明確です。神様の答えは、わたしたちが孤独のうちに、霊的にも、肉体的にも絶望のうちに死を迎えることは神様の御心ではないということです。御心ではないので、神様はイエス様を救い主として、キリストとしてわたしたちのもとへ送ってくださったのです。そこには神様の愛と憐れみだけでなく、神様の忍耐があるわけです。

 

わたしたちは、この1ヶ月間の学びの中で、神様とイエス様がいかにわたしたちを愛と真と忍耐をもって神様に立ち返ることをひたすら待っていてくださっているのかを聴きました。神様の愛であるイエス様と聖霊がいつも共にいて励ましてくださるので、わたしたちも神様の愛の力によって苦難や試みの中にあっても、信仰をもって忍耐できることを聴きました。

 

神様の御心、願い、わたしたちに対する期待は、わたしたちがイエス・キリストを通して神様に立ち返り、主に信頼し続け、その神様の大きな力によって喜びと感謝と平安のうちに生き続けることです。罪にまみれたこの世の力、悪の力を恐れずに、また自分の弱さや人々の身勝手さに悩まずに、痛まずに、そして誰をも傷つけずに、神の愛の中を共に生きることが神様の願い、御心です。そのために神様はイエス・キリストを送ってくださり、イエス様のからだである「教会」をわたしたちに祝福をもって与えてくださっているのです。聖霊を通して、わたしたちを一つのからだとし、神の家族の一員にしてくださるのです。

 

さて、今朝は、この「忍耐する」というシリーズの最終回としてエフェソの信徒への手紙の6章10節から20節に聴きますが、この手紙を小アジアの大都市、ギリシャとローマの神々への礼拝の中心であったエフェソという土地に生きるキリスト者たちに書き送ったのは使徒パウロです。このパウロは、自らの伝道旅行の中で小アジアやギリシャやマケドニア地方に生まれた諸教会に多くの書簡を送り、また弟子のテモテやテトスにも牧会的な励ましの手紙を送りましたが、その晩年、ローマ帝国に捕まり、獄中で書いた手紙の中で最後に書き送ったのが、このエフェソの信徒への手紙と考えられています。

 

つまり、この手紙は使徒パウロの遺言のような手紙なのです。パウロは、この手紙の中で、イエス・キリストを通して神に救われたことがいかに大きな恵みであるかを書き示し、イエス様を模範に歩むことがいかに重要であるかをエフェソに生きるクリスチャンたちに訴えて励まします。そのクライマックスがこの6章10節から20節、手紙の最も重要な部分です。なぜこの手紙が書き送られたのか。それは、イエス様を救い主と信じる一人ひとりが教会から離れないで、孤独を味わうことなく、主の愛と恵みのうちに共に生きるためです。

 

そういう中で、使徒パウロがどうしても書き残したかったが10節の「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」です。何故これが遺言の最後の言葉なのでしょうか。それは、わたしたちを神様とイエス様の愛から引き離そうとする悪霊の力が強いからです。霊的な戦いが日々の生活の中であるからです。悪霊はわたしたちを様々な方法で惑わし、迷わせ、混乱させ、一致を乱し、教会・神の家族から孤立させようとします。この孤立から孤独を生じさせ、神様からフェイドアウトさせようとするのが悪霊の働きです。

 

ここで注意したいのは、11節の最初にある「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」という言葉です。ここには、「悪魔に対抗して」とはありません。何故ならば、わたしたちは悪魔に対抗できないからです。対抗できるのは神様とイエス様と聖霊だけです。わたしたちにできるのは、悪魔の「策略」に対抗することです。その策略には様々な形がありますが、先にも言いましたように、病気や怪我、自然災害や死の恐れであったり、判断ミスであったり、人間関係のこじれや社会の中で受ける様々な圧力であったりします。

 

使徒パウロは、12節で「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」と言っていますが、この「天にいる悪の諸霊」という言葉は誤解を招く言葉です。この「天にいる」というのは、神様のおられる天ではなく、神様とわたしたちの間にある領域に存在する悪の力であり、わたしたちを混乱させ、神様から引き離し、孤独を味合わせようとする力であります。

 

この悪の力に負けずに、霊的な戦いに勝利する方法は、主なる神様に依り頼み、その偉大なる力に満たされることだとパウロは言います。そして悪魔の策略に対抗するために「神の武具を身につけなさい」と11節と13節で2度も命じ、これが重要であることが分かります。

 

それでは、14節から17節を読んでみましょう。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」とあります。主に依り頼む信仰をもって立ち上がり、主と共に戦いなさいと励ますのです。神様だけに任せるのではなく、わたしたち各自にもなすべきこと、任務と責任があるのです。

 

ここで身につけなさいと命じられている6つの装備のうち、5つはそれぞれの信仰を守るためのもので、唯一、霊の剣、神の言葉だけが敵を打ち砕く装備となっています。5つの身を守る装備は、悪の策略と戦うことが厳しいものであるかを示しますが、唯一の装備である神の言葉は相手を破壊する武器・言葉ではなく、人を救い、癒し、恵みのうちに生かす愛と憐れみと忍耐に根差した言葉です。神様がイエス様を通して与えてくださる愛の言葉に、わたしたちに救いを与え、喜びと感動を与え、平和を与え、希望を与える力があるのです。

 

主なる神様とこの愛の言葉・イエス様に日々依り頼み、その偉大な力によって慰められ、励まさせてゆく時に、わたしたちは聖霊で満たされ、神様に祈る者とされてゆきます。それは自分のために祈るのではなく、18節に「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」とありますように、神様の愛とイエス・キリストにつながるすべての人たちのために、愛という忍耐をもって、根気よく祈り続けなさいと励まされています。

 

神様の愛のうちに、主の恵みの中に生かされる時、それを信じる時、わたしたちは自分が決して独りではないことが分かり、互いのために祈り合うことができます。福音のために世界中で働く人々が大胆に福音を語れるように、福音のために鎖につながれている人たちが主の憐れみによって守られるように祈ることを自分の喜びとし、生き甲斐とさせていただきましょう。それがイエス・キリストを通して神様がわたしたちに求めておられることと信じます。根気よく、祈り続け、神様からの力を日々受けて歩み、神と隣人に仕えましょう。