聖霊:真理を悟らせる助け主

「聖霊:真理を悟らせる助け主」 五月第二主日礼拝宣教 2021年5月9日

 ヨハネによる福音書 16章1〜15節      牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝もインターネットを通して皆さんと礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。東京は、3度目の緊急事態宣言が31日まで延長され、皆さんと礼拝堂に集うことが6月まで出来なくなりました。昨日の東京の新規感染者数も1100人を優に超え、非常に厳しい状況が続いています。ゴールデンウィーク中の人出の多さも気になりますし、連休明けの通勤・通学をされる方々の数も緊急事態宣言中だとは思えない多さです。この結果は10日前後に現れることでしょうが、祈りつつ、感染防止に徹底して励みましょう。

さて、ゴールデンウィークが明けて心配されるのはコロナ感染者の増加だけではなく、「五月病」もです。3月4月と別れと出会いの繰り返しがあり、進学や転居や移動で生活環境が変わり、その変化に適応できない若い人たちが5月の連休明けに一気に増えます。度重なる緊急事態宣言による緊張感から心身疲れてしまい、やる気が湧いてこないで落ち込む人々がでます。しかし、真実なる神様はそのような弱った心の者の存在も知っていてくださいます。

私もここ最近心と身体が元気でない時を過ごしましたので良くわかります。気分転換に散歩や教会の庭や周りの手入れをしながら神様と対話をしましたが、そのような私の祈りに対して神様は二つの出来事を通してその真実さをあらわしてくださり、私を元気づけてくださいました。先週の月曜日に、アメリカの弟が私の母教会であるガーデナ・トーレンス教会での礼拝の様子を写真に写してLINE送ってくれました。広い礼拝堂に8・9名ぐらいの方々がソーシャルディスタンスを取りながら集う様子、教会に集えない姉妹方がリモートでピアノとチェロで演奏をしてくださっている様子が映った写真や大久保教会のユーチューブチャンネルから主日礼拝の宣教を聴いておられる様子の写真でした。とても嬉しく、元気になりました。

それから数日しましたら、教会員ではあられませんが、大久保教会のライブ配信を通して毎週礼拝をささげてくださっている方から丁寧なお礼状が届きました。お仕事の都合上、また感染を避けるためにオンラインでの礼拝にずっと続けて出席されておられることを知り、とても大きな喜びに満たされ、大久保教会のライブ配信が神様に用いられていることを確信し、感動しました。これまでも教会員や教会員でない方々からも時折メールやお電話をいただき、お礼の言葉を頂戴していますが、オンラインで出席くださったり、宣教の原稿を読んでくださっていることを知るだけで心が喜びで満たされます。宣教への応答をしてくださる方もおられます。大久保教会の礼拝と福音宣教は、一握りの奉仕者の働きと皆さんのお祈りと献金、お支えによって、神様の憐れみと恵みの中で続けられ、前進しています。本当に感謝です。

さて今日は、母の日です。すべてのお母さんに感謝します。わたしたちは神様によって母の胎内で形造られ、この地上に誕生しました。例外はアダムとエバだけです。世の中には、子どもに対して良いお母さんだけでなく、残念ながら悪いお母さんもいて、お母さんに対して感謝の気持ちで涙が溢れる人もいれば、憎しみや怒りしかない人もいます。コロナの試練の中、数多くのシングルマザーが苦労しておられるとニュースで聞くと本当に心が痛みます。しかし、神様は痛みや悲しみや苦しみを持った心をその豊かな愛で包み込んでくださいます。

5月のオープニング賛美は、聖霊降臨日・ペンテコステにちなんで新生賛美歌273番の「聖霊の神」というとてもシンプルな賛美を選びましたが、3行目に聖霊よ、「われを砕き、われを満たし」という歌詞があります。オリジナルの英語賛美の歌詞をみますと、聖霊を降し、聖霊によって「われを砕き、溶かし、形作り、満たし、用いてください」と綴られています。英語の「melt」という言葉は溶かすという意味合いよりも「和らげて」という理解の方が良いと思いますが、心の中にあるマイナスな感情を聖霊なる神様が砕き、聖霊の火で溶かし・和らげ、そして形作り、その新しい心を神様の愛で満たし、そして用いてくださいという意味であると思いますが、今朝最初に皆さんにお伝えし、お招きしたいのは、傷ついた心、弱った心でも主なる神様に切に求めるならば、主はわたしたちの心を新しく造り変え、その心を神様への信頼と救われた喜びと平安と希望で満たし、主のご用のために用いてくださる、神様はそういう真実なお方であるということです。

ですから、まだ神様に真剣に求めておられない方、「どうせ無理だろう」と思う方もそう思わないで、どうぞ神様を、イエス様を、そして聖霊を強く求めてください。あなたが求めるならば神様は必ず与えられると約束されています。その約束は必ず守られ、不思議な導きの中で神様から新しい力が与えられるはずです。求めても与えられない理由が三つあると言われています。一つは静まって待つという信仰の成長を促すために今は与えられない、二つ目はわたしたちが求めている以上の祝福を与えようと計画してくださっているから与えられない、三つ目は求めているものがわたしたちに必要でないから与えられないと言われています。

さて先週はヨハネによる福音書の14章15節から27節を通して、主イエス様がご自分に代わる弁護者・助け主を遣わしてくださるように神様にお願いしてくださるという箇所を聴きましたが、今日は16章1節から15節を通して、なぜイエス様の代わりの助け主がわたしたちに必要であるのか、この助け主は何をしてくださるのかなどをご一緒に聴いてゆきたいと思います。

まず16章1節に「これらのことを話したのは、あなたがた(つまり弟子たち)をつまずかせないためである」とあります。「これらのこと」というのは、前の15章18節から27節にある主イエス様の弟子たちが迫害されるという予告です。2節に「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」とイエス様は厳しい未来が待ち受けていることを包み隠さずに弟子たちに伝えます。会堂から追放されるというのは、今まで当たり前のように自分の身を置いていた場所から追い出され、孤独を味わうということです。今まで生活していた社会の中で生活ができなくなってしまうということです。

日本には学校だけでなく職場やあらゆる環境、社会の中で陰湿ないじめがあります。教会の中はまだ安全ですが、一歩外に出て「私はクリスチャンです」というと、少し変わった人、少数派と見なされ、距離を置かれることも経験があるかもしれませんし、そういうつまはじきにされる経験をしたくないので自分がクリスチャンであることを言わないという場合もあると思います。クリスチャンとして生きてゆくのは勇気がいることです。しかし、その勇気はわたしたちの中にある力ではなく、神様がその霊・聖霊を通してわたしたちに与えてくださる力です。そのことを信じる人と主はいつも共にいてくださり、社会が与える祝福よりもはるかに大きい祝福を与えてくださいます。そのことを信じるのが「信仰」と言えるのではないかと思います。

「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」とありますが、このヨハネの福音書の次の使徒言行録の3章後半から12章前半には、ユダヤ教からのキリスト教会への厳しい迫害が記され、その迫害の先頭に立ったサウロという人のことが記録されています。この人はキリスト教徒を捕らえ、そしてキリスト教を撲滅することは神様に奉仕していることと真剣に考えていた人です。しかし、イエス様は3節で「彼らがこういうことをするのは、神をもわたしをも知らないからである」と言っています。

ユダヤ教の熱心な信徒であったサウロは、確かにイエス様のことは知らなかったとしても、神様のことは知っていただろうとわたしたちは考えるのですが、神の子イエス・キリストを通してでなければ、誰一人として神様を知ることはできないのです。何故ならば、イエス・キリストだけが神様を知る、信じる唯一の道であるからです。例外は一人もいません。キリスト教を迫害していたサウロは、復活した主イエス様に出会って初めて、自分が間違ったことをして生きてきたことを知るのです。使徒行伝の7章以降をぜひお読みください。サウロが復活されたイエス様に出会って変えられます。

4節後半で「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである」とイエス様はおっしゃいますが、弟子たちはイエス様によって守られていたということです。しかし5節と6節、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方、神様のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」と主は弟子たちにおっしゃいます。イエス様との別れに加え、厳しい迫害が自分たちを待ち構えていると聞いて、弟子たちの心が恐れと不安、悲しみに満たされていたことをイエス様は見抜いておられます。

しかしイエス様はもう一度ここでご自身に代わる助け主としてご聖霊が派遣されることを約束されています。7節です。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者・助け主はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」とあります。イエス様は人として、肉体をもってこの地上を歩まれ、神様の愛を教えてくださいましたが、肉体がある以上、時間と空間という物理的制約の下におられたので、世界中いつでもどこでもすぐに対応ということができませんでしたから、全世界に生まれるイエス様を信じる者たちのために時間にも空間にも偏在できる神様の霊、ご聖霊が神様から送られていつも共にいて助けてくださるという約束をしてくださったのです。たとえ迫害にあっても、悲しむことがあっても、助け主がいつも共にいてくださる、それが弟子たちへの主イエス様の愛の約束です。わたしたちへの約束です。

8節に「この方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」と主は言われますが、9節から11節にその意味を説明されています。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義については、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについては、この世の支配者が断罪されることである」とイエス様は言っておられます。

「罪」とはイエス様を信じないこと、信じようとしない、信じることを拒み続け、頑なに自分の思い通りに生きてゆく人間の弱さを明らかにするということです。「義」とはイエス様がわたしたちの罪を贖うため、救い主として地上に来てくださり、十字架の死と復活を通して神様の愛を伝えてくださった正しいお方であることを聖霊が明らかに示してくださるということです。「裁き」とはこの世界を支配しているのは神様であって悪ではない、悪は明るみにさらされ裁かれる、神様はイエス様の十字架と復活を通して罪と死に完全に勝利された真実な神であることを聖霊が明らかにしてくださるということです。

12節で、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と主は言われます。弟子たちの心が悲しみで騒ぎ立ち、心が閉ざされているからです。わたしたちの心も、コロナによる不安や恐れによって心が閉ざされ、またそれ以外の日常的な迷いや疲れによって神様が理解できないでいるのではないでしょうか。苦しみの意味、なぜこんな苦労をしなければならないのかが分からない。自分の存在意義、存在価値、人生の目的、生きがいが分からない、喜びも平安も希望もなく、ただもがき苦しんでいないでしょうか。

しかし、もし今朝イエス様の言葉、声を聴いて従い、心を開くならば、わたしたちの努力や熱心さではなく、愛の神様が働いて、わたしたちの心の中に聖霊が入ってくださって、13節になんとあるでしょうか、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。真理の霊・ご聖霊がわたしたちを励まし、導いてくださり、神様の真理、神様の真実さを理解させてくださるとの約束がここにあり、わたしたちはただ心を神様に開けば良いのです。一番良いのは心を開いてすべてを神様に明け渡すことですが、たとえ少し開けるだけでも神様の霊はわたしたちの心に働きかけてくださり、神様の真理を優しく教え、日々の営みの中で起こる様々な出来事を通して神様がいかに真実なお方であるかを示してくださいます。 

真理の霊は、「これから起こることをあなたがたに告げる」とのイエス様の言葉が13節の後半にありますが、「これから起こること」とは、イエス様の十字架の死、三日後のご復活、昇天、そして聖霊降臨ということであり、イエス様の再臨も含まれます。その一つ一つの意味を聖霊がわたしたちに教えてくださるという約束です。この主の愛のみ業、イエス様の救いの出来事には、わたしたちを喜びと平安と希望と永遠の命の中に生かす力があるのです。

他にも真理の霊がわたしたちに教えてくださることがたくさんあり、約束が聖書に記されていますが、聖霊なる真理の霊は、わたしたちに愛の神は確かにおられる、わたしたちはこの神に愛され、イエス・キリストを通して罪赦され、地上での使命が与えられている。主がいつも伴ってくださるのでわたしたちは決して独りではない、この地上での生活が終わっても帰る場所がある、神様は真実なるお方であるということを、聖書を通して、教会での交わりを通して、日々の歩みの中で、時には静かに、時には激しく、しかし確かに、正確に教えてくださるのです。わたしたちの心を開き、真理の霊をお迎えいたしましょう。