「聖霊:約束された別の弁護者」 五月第一主日礼拝宣教 2021年5月2日
ヨハネによる福音書 14章15節〜21、25〜27節 牧師 河野信一郎
おはようございます。インターネットを通してでありますが、このように皆さんとオンラインで五月最初の主日礼拝をおささげできる幸い、この恵みを愛と憐れみをもって与えてくださる神様に心から感謝いたします。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
2年連続のステイホームのゴールデンウィークとなっていますが、毎日午後3時過ぎに発表される新規感染者数と重症者数を見る度に、まだまだ忍耐の日々が続く、身勝手な振る舞いをしてはならないと思わされます。新型コロナウイルス感染が始まった当初は、東京、大阪、福岡、札幌と大きな都市に感染者が集中しておりましたが、今や感染は全国的に広がり、特に重症者数の増加は各都道府県で歯止めが効かないようになっています。
「マスクすれば大丈夫」と言って平気で外出する人たちが増えていると聞きますが、生活してゆくために仕事やアルバイトを続けなければならない人たちがおられるのも事実です。理想と現実に大きな乖離があることは事実です。では、コロナ収束に向けてみんなでできることは何であるのか。政府と国民にはそれぞれの役割と責任があります。それぞれがその責任を重く受け止めて役割を果たすしか方法はないのではないでしょうか。わたしたちに何ができるか、何をしなければならないか、この1年の経験からもうすでに分かっているはずです。感染を予防するためのルールを心してしっかり守るしかありません。精神的に追い詰められている人たちが増え、自らの命を絶ったり、家族の命を奪うことも増えています。
さて、この5月の休暇を皆さんはそれぞれの場所でどのように過ごされているでしょうか。
皆さんは、ご自宅で何をされて過ごしておられるでしょうか。テレビやユーチューブを見たり、読書をしたり、音楽を聞いたり、家の掃除をされたり、何かをされてこの休暇を過ごされていると思いますが、「楽しめること」をすることが精神的に良いそうで、そのために想像力を働かせることによって、楽しむ力が湧いてきてとても良いそうです。何をするにも、すべて心の持ちようです。わたしたちの心をどこに向けるのか、置くのか、据えるのかによってステイホームの仕方、時間の使い方、家族とのつながりも変わってくるそうです。
わたしは、神様と会話をしながら庭の手入れをしていますが、それ以外に楽しんでいるのは家族との会話です。わたしの頭の中はいつも次の宣教のことでいっぱいですが、そのことで神様と会話をする中で、神様に何か質問したら、不思議なことに、神様は家族や人との会話を通して答えてくださったり、アイデアをくださったり、導きを与えてくださいます。面白いひらめきが浮かんできたり、フレーズ(言い回し)が与えられたりが与えられたりします。
子どもたちは高校生以上に成長してしまいましたが、子どもたちが幼い時から話すテーマの一つに「今なにがあったら嬉しい?」というものがあります。そこで必ず出てくるのが「ドラえもんの秘密道具」です。皆さんもドラえもんというアニメをお子さんやお孫さんとご覧になったことがあると思います。ドラえもんを知らない人は多分いないでしょう。この未来から来たネコ型ロボットのお腹の部分にあるポケットから出てくるたくさんの秘密道具の中で本当に何があったら嬉しい?という話題になるわけで、子どもたちは真っ先に「どこでもドア」と言います。秘密道具は数え切れないほどありまして、今回娘にランキングトップ5のリストを作ってもらいました。喜んで、とても率先的に作ってくれました。
これが日本人の多くが欲しいと願っている秘密道具のトップ5です。やはり1位は「どこでもドア」ですね。それ以下は、「タイムマシン」、「もしもボックス」、「人生やり直し機」、そして「アンキパン」ということです。「どこでもドア」があったら、おばあちゃんや家族がいるアメリカへパッと行ける。行きたいところへどこでもすぐに行ける。ゴールデンウィークを家で過ごしているすべての人がこの「どこでもドア」が欲しいのではないでしょうか。年齢が高くなるにつれ、「人生やり直し機」が上位に食い込んでくるそうですが、年代別リストも昨晩見せてもらいました。「ドラえもん秘密道具ランキング」と入力して検索するとすぐに出て来ますので、今日の午後にでもご覧になって、ご家族やお友だちと会話を弾ませてはいかがでしょうか。その後、「本当に必要なのは何だろうね」と考えて見てはどうでしょうか。
長くて回りくどい宣教への導入になりましたが、わたしたちに本当に必要なものは一体何でありましょうか。アニメやバーチャルの世界ではなく、わたしたちがいま生かされているこのリアリティーの中で、わたしたちの心に本当に必要なもの、最も必要なものは何でありましょうか。今月13日は、主イエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた「昇天記念日」です。そして23日は、イエス様の代わりに神様から派遣されたご聖霊が降ったことを記念する「聖霊降臨日・ペンテコステ」です。コロナパンデミック、コロナ危機の只中で迎える二度目のペンテコステです。この月のわたしの宣教は、ご聖霊をテーマにさせていただこうと準備しました。
17ヶ月以上続くコロナ危機の中で、度重なる緊急事態宣言の中で、わたしたちの心は疲れています。弱っています。迷っています。心が騒いでいます。教会から離れてゆく人たち、信仰をどこかへ置いてしまった人たち、イエス様と結んだ手を離しかけている人たちが多いということです。人生の嵐の只中におられる方も多く、心が騒いでしまうこと、不安を覚えることが多いと思います。そういう中でわたしたちに本当に必要なもの、それは神様の言葉、主イエス様の言葉ではないでしょうか。今朝わたしたちに与えられている聖書の箇所は、ヨハネによる福音書14章の15節から27節ですが、この14章の最初の1節で主イエス様は弟子たちに対して、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とおっしゃいました。「心を騒がせるな」とはご命令ですが、「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」という言葉は平和・平安への招きの言葉です。決して命令ではありません。
では、弟子たちは何に心を騒がせていたのでしょうか。彼らの頭の中には、誰が弟子の中で一番偉いか、誰が一番イエス様に愛されているか、イエス様が先ほど弟子の中でイエス様を裏切る者がいると言っておられたけれども誰であろうか等、自分のことしかありませんでした。わたしたちも自分たちの目の前のことをいつも優先的に考え、悩み、苦しみ、悶えています。
イエス様はなぜ「心を騒がせるな」とお命じになられるのでしょうか。それは、弟子たちの目の前に、わたしたちの目の前にイエス様が救い主として、メシアとしておられるからです。この主が、神様のおられる天国への道をわたしたちに教え、その道を逸れることなく歩むための力と励ましを与えてくださるからです。「心が騒いだら、すぐにわたしの名によって祈りなさい」ともイエス様はわたしたちを励ましてくださいます。それほどまでに愛してくださいます。
しかしながら、事実、主イエス様はご自分が弟子たちから離れることも知っておられました。12章からイエス様がエルサレムに入られたことが記されていますが、イエス様がエルサレムに来られた目的はただ一つ、わたしたちの身代わりとなって十字架に架けられて贖いの死を迎えるためでありました。弟子たちの目の前で捕らえられ、理不尽な裁判を受け、人々からあざけられ、ローマ兵から愚弄され、鞭打たれ、多くの人々の前で十字架につけられ、死ぬことをすべて知っておられました。もちろん、十字架で命を捨てられた三日後に神様がイエス様を死から引き上げられて甦らせることも知っておられましたが、そのあと、弟子たちと再会して彼らと40日間過ごして色々と教えられた後、神様のもとに引き上げられることも知っておられました。ですから、地上に残してゆく弟子たちのために一つの約束をイエス様はされるのです。
14章16節と17節をご覧ください。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」とイエス様は約束してくださいます。ここに三つの約束があります。一つは、わたしたちのために「父にお願いしよう」、つまり祈るという約束です。イエス様はいつも執り成してくださるお方です。もう一つの約束は、「別の弁護者を遣わす」という約束です。「弁護者」という言葉は、口語訳聖書と新改訳聖書では「助け主」と訳されています。またここにある「別の」という言葉ですが、このギリシャ語「アロス」という言葉は、「同じ種類の、もう一つの」という意味があり、イエス様と「同じ種類の」と言いましょうか、「同じ性質を持った」という意味で、そのような助け主を派遣してもらえるように父なる神様に依頼するという約束です。三つ目の約束は、「永遠にあなたがたと一緒にいる」という約束を守り続けるというものです。この約束を守るのは、「真理の霊」であるとイエス様は言われます。
「真理の霊」とは神の霊であり、イエス・キリストの霊です。主は14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいましたが、イエス様イコール真理、真理の霊イコールイエス様の霊、イエス様の霊イコールご聖霊ということです。つまり「体は離れるけれども、わたしの霊は決して、永遠に、あなたがたを離れることはない」と主は約束してくださるのです。17節の後半に「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」とあります。主がわたしたちの「内」に常にいてくださるから、心を騒がすでないとお命じになられる。ですから、わたしたちはこの主の約束の言葉に留まる必要があるのです。
18節には主の約束がもう二つ記されています。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」とあります。「みなしご」とは身寄りのない者、心の拠り所のない者という意味ですが、あなたを独りにしない、独りで彷徨わせないという約束です。「あなたがたのところに戻ってくる」とは、ご復活の意味と再臨の意味があると思います。大切なのは、イエス様は決してわたしたちから離れないという約束を信じることです。
19節前半に「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」との主の言葉がありますが、「あなたがたにわたしの代わりの助け主、真理の霊が与えられる。この霊があなたがたに力を与え、信仰によってわたしを見ることができる」と約束してくださいます。なぜ見えるのか。それはわたしたちの内に神の霊が生きて力強く働かれるからです。
イエス様の言葉とご聖霊以外にわたしたちの心を静める力はありません。イエス様とイエス様の霊であるご聖霊以外にわたしたちに平安と希望を与えてくださる方はおられません。ですから主イエス様が、わたしたちに「聖霊を受けよ」と今朝招かれるのです。ですから、信仰をもって、このお言葉にしがみつきましょう。イエス様から離れない力も、イエス様とご聖霊が与えてくださるのです。イエス様にしがみついて行けば、わたしたちは主の憐れみと慰めの中で生きて行けるのです。そしてその命は永遠に続くと祝福のうちに約束されているのです。
イエス様は「あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と15節で言われ、21節でも「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と言われます。今日は読みませんでしたが、「わたしの掟」という「掟」とは「わたしの言葉」であると23節と24節でイエス様がおっしゃっています。では、「主の言葉を守る」とはどういうことでしょうか。それは、主の言葉に生きるということではないでしょうか。主の言葉とは、主の思い、お考えです。主イエス様の思いの通りに、お考えのように生きるということではないでしょうか。わたしたちの心を自分の思いで満たすのではなく、主の霊、ご聖霊に宿っていただき、その真理の霊の語りかけと導きに従って生きてゆく。そのように生きてゆくことを選び取ってゆく時に、わたしたちは心を騒がせることなく、平安が与えられ、主の平安のうちに御心に沿って歩んで行くことができるのではないでしょうか。
25節から27節にある主イエス様の言葉を読みます。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」 主イエス様が約束され、今わたしたちに与えられているご聖霊という助け主・弁護者を心に迎え入れましょう。